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 源氏はここに来て、本当の意味での年来の本願を遂げたいと思った。

 形こそ剃髪して僧衣を着ているが、実は彼はまだ半俗である。戒壇院で受戒しなければ、正式な僧とはいえない。

 ところが幸いなことに、日本に三つしかない戒壇院がこの大宰府にはある。

 さっそく源氏は自分の正式な得度と受戒について、寺の僧に相談した。僧の話によると、戒壇院のある観世音寺は官寺なので受戒にはいろいろ手続きがあり、都にも注進する必要があるという。時間がかかりそうだったが、源氏はもはや焦ってはいなかった。僧はさっそく観世音寺にかけあってくれて、政庁にも連絡がいき、都への使者も出された。

 その間かなり待たされ、季節は秋になり、年の瀬がおしせまってもまだ使者は戻ってきそうにもなかった。


 源氏はその頃、久しぶりに都の夢を見た。ここへ来たばかりの頃はたびたび都の夢を見たものだったが、ここ久しくなかったことである。

 折しもその翌日、都から源氏に客が来た。

 惟光であった。

 もうすっかり足腰も弱くなり、頭も完全に白くなっている源氏の乳母子めのとごである。

 源氏はその幼なじみの顔を見ると、思わず駆け寄って抱き合っていた。

「よく来てくれたな、よく来てくれたな」

 源氏はただ、それだけを繰り返していた。その目には、涙があふれていた。

「遅くなり申した。もっと早くにと思っておったのですが」

「いやいや、来てくれただけでも……」

 須磨に親友の九条前右大臣――当時の頭中将が訪ねてきてくれた時もうれしかったが、今の比ではない。惟光とはもっと多くの時間をともにしてきている。

 まずは惟光によって、都の情報がもたらされた。この冬になってから、源氏を蹴落として左大臣となっていたかつての小一条右大臣が急逝した。小一条右大臣が左大臣になってからの右大臣の後がまには、源氏とも親しかった老大納言がなっていたが、その老人が左大臣になる様子はなさそうだという。

 さらに驚いたことに、すでに帝の代が変わっていた。秋になってからご狂疾の帝は二十歳で譲位され、弟である先帝五宮の東宮が即位されたというのだ。御年十一歳である。新しい東宮には譲位した帝の第一皇子が九歳で立太子したが、その母は一条大納言の娘である。


 世の中は、確実に変わっていた。だがそれらは、源氏にとってもうどうでもいいことであった。都のすべてのことは夢枕に立った修理大夫の霊に任せている。むしろ源氏にとって気になるのは私事わたくしごとで、それに関する情報は、女三宮――愛宮は出家して尼となり、その宮が生んだ高松邸にいる源氏の次女は源氏の同母弟の大蔵卿宮が引き取って世話をしてくれているという。

 そして衝撃だったのは、源氏が都を離れた直後に西宮邸が全焼したということだった。そしてその焼け跡の地には、地券も焼失したことをいいことに小野宮関白太政大臣の三男が勝手に屋敷を建てて住んでいるという。あの小野宮一族ならやりそうなことだ。屋敷の土地欲しさの放火に決まっている。

 しかしそのようなことさえ、今の源氏にはどうでもいいことと思われた。ただ気になるのは明石の御方の安否だが、彼女は源氏の長男によって二条邸に引き取られたあとで、その後すぐに出家してしまったということであった。明石の御方にはここに来てから文も出しておらず、またそのすべもなかった。

 そのまま惟光は源氏のそばにいて、ともに暮らすことになった。彼が驚いていたのは、源氏が何でも自分でするようになっていたことだ。つい昔の癖で惟光が源氏の世話をしようとすると、源氏はそれを拒む。はじめは戸惑っていた惟光であったが、次第に慣れていった。

 年が明けてから、ようやく都への使者も戻り、源氏は戒壇院にて得度と受戒を受けた。観世音寺は榎寺と違って楼門に金堂や五重塔を持つ寺院で、都の寺にも劣らぬ大伽藍だ。戒壇院はその伽藍の西側にあって、戒は都の貴人がよく受ける在家戒ではなく、本物の僧侶となるための具足戒であった。

 こうして、源氏が長年待ちに待った時がついに訪れたのである。これからは、本格的に仏道に専念できる。法名は覚念と名乗り、その安息の境地に源氏がたどり着いた時に大宰府は春を迎え、天満宮の梅が一斉に花を開かせていた。


 夏になる前に、年号が変わった。

 やがてその夏も終わって秋となり、温暖なこの地にも冬が訪れる。そしてまた年が明け、季節はまた変わり、源氏がここに来てから三度目の夏も過ぎた。今では惟光も出家して明慶と名乗り、ともに仏道修行に励んでいた。


 ところが秋になってから急に、源氏は政庁に呼び出された。思えば二年半もこの地にいるのに、初めてくぐる政庁の門だ。二層の南門を過ぎて石段を昇り、単層の中門をもくぐった。正面近くに正殿があり、左右には脇殿が二つずつ並んでいる。いずれも朱塗りの柱に瓦屋根という漢風建築だ。その東脇殿の奥の方に、源氏は案内された。

 もう出家して僧侶となり、俗人だった頃の記憶は薄れつつあった源氏だが、ここへ来て少しだけ都で苦行をやっていた頃の記憶がよみがえったりした。少しだけ、である。

 東脇殿に少弐がおり、そして源氏は上座に案内された。

石の床の上に畳が一畳だけあって、源氏はその上の円座に戸惑いながら座る。その前に少弐は畏まった。ふと、昔自分が左大臣であった頃の感触が蘇る。もっとも昔とはいってもつい二、三年前のことであるが、それでも源氏には遠い昔のように感じられた。

内舎人うどねりが、都からの使いとして参りました」

 少弐は源氏の前で頭を下げたまま、ゆっくりと言う。

「都への御召還の宣旨でございます」

「え?」

 源氏はどう答えていいか分からなかった。政庁に呼び出されるという特殊な状況から何か特別なことがあると予想はしていたが、突拍子もない驚天動地のその用向きに、複雑な感情の渦が彼の中で渦巻いた。

 都へ帰る……源氏にとって、今や頭の片隅にも存在していない思考であった。しかし、そういう宣旨が下されてしまったのだ。ほんの一瞬だけ、源氏の心の中に光がさした。だがそれは、本当に一瞬だけであった。

 その光は、困惑と疑念にたちまちかき消されてしまった。今の状況では、帝の宣旨とはいっても実質上それを発するのは関白太政大臣の意志であるはずだ。

「何ゆえ、関白殿が今さら……」

「関白殿? 今は関白はおかれておりませんが……。宣旨は摂政殿からでございます」

 考えてみればそうだ。即位されたのは先帝五宮で、すなわち幼帝である。だから関白は関白ではなく摂政となっているはずで、それを源氏が口にすると少弐は違うといった。

「帥殿が関白殿と言われたのは、小野宮関白太政大臣殿のことではございませんか? それでしたら、一年以上も前に亡くなりましたよ」

「え?」

 知らなかった。知るすべもなかった。源氏は好んで俗世間との、特に都の情報とは関係を絶って修行生活をしていたのである。また、このような僻地であってもさすが政庁は都と直結しており、都の情報は入ってきていたのだ。

「今では一条右大臣殿が摂政をされております」

 一条というからには、かつての一条大納言であろうと源氏にはすぐに察しがついた。惟光が来た時点で右大臣になったと聞いた老人はもすでに他界し、源氏の大親友だった故九条右大臣の長男の一条大納言が右大臣に上ったのだろう。

 彼は亡父と同じ地位に上り、亡父がなれなかった摂政になっている。そのことは、九条家の流れが小野宮家をさしおいて一門の氏の長者になったことを意味する。そうなった以上、摂政がかつての自分の庇護者であり、小野宮派によって九州に流された源氏を召還しようと考えるのは自然である。だが、源氏にとってはそれはほんの少しありがた迷惑でもあった。

「困った。困った」

 と、源氏は寺に戻ってから惟光相手に何度もそうつぶやいていた。

「私はもはや仏弟子なのだよ。朝廷からの指示で動かなければならない身ではないのだ」

 そうはいうものの、宣旨が亡き親友の遺児からの厚意によるものである以上無視もできない。だからいくら口で、

「私はこの地で、僧として一生を終える」

 とは言っても、惟光の、

「戻りましょう、ともに」

 のひと言で、源氏の決意は覆った。それでも、そうなるとまた後ろ髪引かれる思いがある。せっかく見つけた安住の地と安心の境地を捨てなければならない。

「都に戻ったとて、俗界との関係を絶って修行を続ければいいではありませんか」

 惟光にそう言われて、ようやく源氏は戻る決心がついた。都に戻ったからとて、政界に復帰するつもりは毛頭ない。源氏はもはや入道ではなく、本物の僧侶なのだ。

 源氏が大宰府を後にするのは、結局は翌年の春になってしまった。もう一度天満宮の満開の梅を見たかったというのも、源氏の心の中にあったからだ。

 春とはいっても、まだ風は冷たい。単色の桜と違って梅は木によって紅梅であったり白梅であったりでさまざまな紋様を描く。その下に里人たちが群れ居て、梅を愛でつつ宴を張っている様子も所々で目にされた。空は抜けるように青い。やがてその青い空が一面に黄色っぽくなり、大地にも黄色い砂が降るようになれば本格的な春の到来だ。

 そんな春の日に、源氏は惟光とともに梅の香る西の都をあとにした。車の出発は、観世音寺の巨大な山門の前からであった。来た時は粗末な網代車に乗ってであったが、今では一条摂政が都から迎えによこした半蔀はじとみ車に乗っての帰洛だ。源氏としてはこの地で果てても悔いはなかったのだが、それでも菅公――この土地の人たちも言い方でいえば天神様にはついに訪れることのなかった瞬間を、源氏は経験しようとしている。


 遠の朝廷みかどへの惜別の情が、源氏の心を打つ。都府楼の瓦屋根も、その背後の宝満山もこれで見納めである。明石の時も同じような感傷に浸った。だが今回はここに残していくものは何もなく、都で待っている存在もない。

 車はとりあえず北に向かい、北上して灘の津に出る。そこからは、いよいよ東に向けての旅が始まる。

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