11
都に帰り着いた時は、すでに夏になっていた。
折しも賀茂の祭りの当日であったが、源氏が帰るべき西宮邸はもうすでにない。源氏はそのまま洛中には入らず、嵯峨の阿弥陀堂へと落ち着いた。ここは源氏が建てた彼の私寺である。
いまさら二条邸にも高松邸にも行く気にはなれず、源氏はそのまま洛中へは一歩も足を踏み入れようとはしなかった。
預かりの僧たち、そして明慶法師惟光とともに、嵯峨の御堂で僧侶としての修行生活に源氏=覚念は入ったのである。かつては時折来て泊まっていくだけの御堂であったが、これからはここが永の棲み家となる。今やその御堂の住持の僧に、源氏はなったのであった。
それでも洛中から、源氏を訪ねてくるものは後を絶たなかった。やはり都では、俗世との縁を切るという願いはなかなかかなえられそうもない。しかも、源氏が大宰府に追いやられた時とは、またもや世の中は一段と変わっている。
源氏を
源氏は明石から戻った時と同様、まさしく
今の左大臣には源氏と同年齢の異母弟であるかつての源大納言が、やはり右大臣を飛び越えて就任していた。そして右大臣には、故小野宮前関白太政大臣の次男が就任している。小野宮前関白の長男はすでに世にないので、この次男が実質上の小野宮家の長であった。一方、九条家の方では一条摂政の次弟が権中納言、さらにその弟のかつての中納言頭中将は今では大納言右大将になっていた。
九条家の遺児たちは、もはや源氏の庇護は必要とはしていないくらいの羽振りのよさである。それに対して小野宮家の方は前関白も小一条前左大臣ももうこの世にはなく、その遺児たちもうだつが上がらずにいる。
源氏の左遷は小野宮家による九条家潰しのための策略としか思えないが、首謀者たちも天寿には勝てず、小野宮家は日の目を見ない一族となってしまっていた。
「果たして、本当に天寿かな……?」
御堂の僧坊で一条摂政と対座しながら、源氏は言った。おそらく霊界からは、かの修理大夫の大いなる働きかけがあったことであろう。あるいはその目に見えぬ世界で、修理大夫と前民部卿の霊との壮絶な戦いが繰り広げられていたかもしれない。だが、修理大夫側には先帝や九条前右大臣がついているはずだ。源氏はその修理大夫の話を一条摂政に語り、修理大夫が夢枕に立った話も告げた。
「私はその方は存じ上げませんが、父から名前だけは伺っておりました」
「その夢の中での約束である宇治の社だが、薫とともにぜひお願いしたい」
「心得ました」
薫の加冠も、一条摂政が請け負ってくれることになった。その添伏にその亡弟前右兵衛督の忘れ形見の姫をというかつての約束も、違えないことを誓ってくれた。
夕刻前に、大行列は静かな嵯峨の里に前駆の大音声を響かせて去っていった。それを見送りながら、源氏は自分の心の中に暖かさが残っているのを感じていた。遠い記憶の中の、懐かしい香りが漂ってくるのさえ感じたのである。今、都へと戻っていった人の亡き父が、その息子とともにいたのかもしれない。
――頭中将のやつ、来ていたのか……
源氏は心中で亡き親友の九条前右大臣のことをそのように呼び、そっとつぶやいていた。
源氏は今では、無位無冠の一介の僧侶となっていた。それでも特別に封戸が与えられることになった。一条摂政の計らいであろう。
だがその一条摂政も、その年の冬に他界した。あっけない最期であった。宮中では今の三位中納言中宮大夫と一条摂政との遠い昔の蔵人頭争いが取り沙汰され、三位中納言が呪詛をしたのではないかという噂も流れているということであった。僧の一人がそんなことを源氏の耳に入れたが、源氏はそんな噂には何ら関心を示さなかった。
摂政の職は内大臣となっていた次弟が継ぎ、すぐに摂政から関白となった。もはや九条家の栄華はゆるぎないものになっているといえた。
その頃、源氏は高松邸にあった亡き親友の日記と自らの日記を取り寄せた。この世での最後の仕事としてそれを抄出し、有職故実の一大集成を作ろうとしたのである。
決して俗世への執着が残っているわけではなく、逆に彼としてはそれを著すことでひとつの区切りとし、俗世と決別する機会にしようと考えたのだ。
その間に、すでに出家して尼となっていた明石の御方も嵯峨野に来た。明石の御方とは帰洛以来何度か文を交わしていたが、ここに源氏の御堂の近く、かつての自分の山荘のあったあたりに庵を結んだ。明石の御方の話によると、孫の若君も成長し、式部卿宮となった先帝四宮と源氏の姫との間にはさらに二人の男の子が生まれているという。また、もうひとりの妻である愛宮――女三宮は、その実父の朱雀院の帝のおられた西山の御寺で尼としての修行生活をしているということだ。
結局自分は誰をも幸福にしてあげることはできなかった……故実書の筆を止め、源氏はふとそんなことを考えた。そのような時は、あえて筆の勢いを速める。
――俺たちが、故実の権化になろうぜ。
若かった頃の九条前右大臣――当時の頭中将の言葉が、その日記の行間からも聞こえてきそうだ。早くこれを完成させて、九条家とその子孫たちに伝えようと源氏は焦った。それが、誰をも幸せにできなかったの自分の、せめてもの償いのような気がしたからだ。
小倉山が紅葉の錦を飾り、そしてまた嵐山が桜色に染まる。それが四回繰り返された頃、源氏はついにその故実書を完成させた。その間に、年号も二回変わった。
完成した故実書にはすでに消失している西宮邸から名前をつけ、九条前右大臣の日記とともに高松邸の次女のもとに送り、その写本は故一条摂政の弟の堀川関白と、さらにその弟の大納言右大将にも届けさせた。
次女も源氏が大宰府に下った頃はまだ乳飲み子であったが、今では十二歳になっているはずだ。
そのあと、源氏は自らの日記はすべて焼却した。これで自分の実人生は、この世からすべて消える。だが、何らかの形でそれを残しておきたいという欲望も源氏の中にあった。
この頃は目もかすみがちで、歩行にも困難を伴うようになっている。それでもまだ、死ねそうにはない。死ねないから、生きていかねばならない。だが、仏道修行の傍らに編纂していた故実書の完成と同時に自分が一気に老け込んでいくのを感じる。
それではいけないという思いと、自分の生涯を後世に残したいという願望の二つが源氏に再び筆をとらせた。封戸を賜っている以上、紙を手に入れるのは容易だ。
真名ばかりで記していた故実書とは変えて、今度は仮名を紙の上にすべらせた。自らの生涯――光源氏の一生を、第三者の目を通してという形で筆を進めていく。だが、物語だからところどころに創作的脚色を加えるのもよしとし、またその中に決して自分の実名をその紙の上に落とすことはなかった。
――いづれの
…………………………
一行一行に、源氏は自分の人生のすべてをこめていた。
春うららのある日、御堂の僧坊の庭の方から女の子の声がした。
「法師様あ! 覚念法師様あ!」
源氏は物につかまってようやく立ち上がると、腰も曲がったおぼつかない足取りで庭の見える簀子まで出た。
「法師様。物語の続きはできましたか?」
源氏はしわだらけの顔に笑みを浮かべてうなずいた。そして一度ゆっくりと中に戻ると、巻き物を手に再び出てきた。
「うわああ、よかったあ。雲林院の菩提講に間に合わなかったら、どうしようかと思った」
年の頃十二、三歳の少女は、満面に笑みを浮かべていた。なりはみすぼらしい。
「おらも一所懸命この物語を語りますから、法師さまもどんどん書いてくださいね」
「ああ」
「この前は光源氏の君と頭中将が青海波を舞ったところで、聞いてた人たち、みんなため息もらしてましたよ。これからも光の君は、ずっとみんなにかわいがられて育つんですよね」
「さあ、どうかな。それは秘密じゃ」
「もう」
源氏が笑うと、少女は少し頬を膨らませた。
「悲しい話はいやですよ。紫野の人たちは、みんな待ってるんですから。面白い物語の続きを」
「式部にそうせかされては、かなわんな」
源氏は、今度は声をあげて笑った。春の陽ざしの中で、少女は可憐に微笑んで立っている。少女は、
猿女氏は生前に書の大家として名をなした前内蔵頭と同族だが傍系なので今は民衆の中に入り、代々芸事を
その一族の者ということで、源氏はこの少女を紫野の式部と呼んでいた。紫野の
その一団の中にこの少女がいたわけで、少女と源氏の付き合いはその時から始まった。
「法師様あ。光源氏って本当にいた人?」
「なぜ?」
「だって、聞く人みんな、すごい物語だって言うんだもの。目の前に光の君様がいるみたいだって」
「そうか」
また、源氏は笑った。
「遠い昔には、光源氏などという人も本当にいたかもしれないな」
光源氏の生涯があくまで作り物語としてこの小野猿女の紫野の式部によって語られ、民衆の記憶の中に刻まれていく。いつの時代か、光源氏という貴公子がいた――そんな伝説が、人々の間に語り継がれていくだろう。
「じゃあ、法師様。また」
「気をつけて帰れよ。それから、くれぐれも言っておくが、この物語の作者が私だということは、絶対に秘密だぞ。式部」
「分かってますって。じゃあ」
源氏はその後ろ姿を見送ってから、静かに庫裏へと入った。
大宰府より戻ってから、すでに十年近くの歳月が過ぎようとしていた。今では、宮中の職制がどうなっているかなど全く分からない。また、知りたいとも思わなかったし、聞いたとしてもすぐに忘れてしまう。
今は、仏道修行のほかには、ただ「おもしろい物語」を書くことに源氏は熱中していた。
一巻書き上げるごとに、紫野の式部がそれを取りに来る。そして彼女は自分の一族の勢力範囲である紫野の雲林院かどこかで、その物語を人々に語って聞かせているであろう。
その物語執筆だけを楽しみとして源氏は余生を送り、さらに歳月が流れた。物語も未完ではあるが、一応の区切りはついた。「幻」――この巻で、彼は筆を止めた。
源氏が嵯峨の御堂で世を去ったのは、年の瀬も押し迫った寒い日であった。明慶法師惟光のほかには、駆けつけた明石の尼君が見取る中、ひっそりと彼は息絶えた。享年六十九歳――紫の上に後れること十九年、親友に後れること二十二年であった。
今こそすべての濁世から身を洗って法悦の世界に生きんと、彼の死に顔は笑みさえ浮かべていたという。
第三章 秋 おわり (第四章につづく)
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