第4部 冬

第1章 匂宮

 光の君が宮中より姿を消してからというもの、人々の心の中には大きな穴がぽっかりとあいてしまったようになっていた。それは誰しもが感じていたことで、才気といい秀眉といい、かの君に立ち並ぶ人はその末にさえ探し難い状況であった。

 そしてさらに月日は流れた。

 光源氏の君の三男の薫は十七歳で加冠を終え、十九歳で侍従の職を賜った。

 西宮邸はもはや跡形もなく、薫は高松邸で妹とともに暮らしていた。薫は寝殿、妹は西ノ対である。

 そして薫は、二十六歳になった。嵯峨の御堂にいた父が他界してから、すでに二年の歳月がたっている。

 妹も二十歳だ。裳着は終わったが、まだ一人身でいる。妹は父の同母弟の大蔵卿宮が養父となってくれている。薫は添伏の妻との間にはまだ子はなかった。

 妻は父の親友だった故九条前右大臣の五男の娘だが、舅はすでに世になく、伝領した屋敷に母親とともに暮らしつつ、薫が通うのを待つだけの妻であった。


 薫は春の香に誘われて、車を出させた。行く先は二条邸であった。

 時に、庭は梅が満開であった。

「お帰りなさいませ」

 薫はここでは、そう言って女房たちから迎えられる。三日とあけずにこの屋敷に来るのが、薫の日課だったからだ。そうはいっても別に女がいるわけではなく、薫にとってここは母である紫の上の思い出がある場所なのだ。

「宮様。庭にお降りになりませんか」

 身舎もやには入らず端に畏まって、薫は室内にいた若者に声をかけた。

「おお、兄君!」

 若者は、顔を輝かせた。その笑顔の中に怪しい鋭さえあるこの十九の若者は本当は薫の甥なのだが、年齢が近いせいもあって薫は若者が自分のことを叔父と呼ぶのを許さない。

 若者は先帝の四宮である式部卿宮の子で、身分は王であり、母が薫の姉である。だが、王であれば待遇は臣下と変わらない。しかもすでに加冠を終えているというのに従四位下の位があるのみで、官職は与えられていなかった。

 薫はその自分の甥を幼い頃からの癖で、今でも宮様と呼んでいた。宮様の子は宮様だと幼心に勝手に判断して呼び始めた呼称が、そうではないと分別がつく今となっても抜けずにいたのだ。

「宮様、梅が満開ですよ」

「言われずとも、分かっております」

 笑みを浮かべて「宮様」は立ち上がると誘われるままに庭に降り、二人して梅の香の中を散策する。そんな二人を、釣殿に続く細殿の向こうから東山が見下ろしていた。

 二人を見ているのは、山ばかりではなかった。殿舎の方では御簾の向こうに多くの女房が集まってこちらをうかがっているのを、薫はいつものこととして察していた。

 薫はそのようなことはお構いなしに、「宮様」に語りかけた。

「亡き母が生前、この屋敷の梅と桜をいつまでも心にとめてほしいと、私に言われましてね」

「お祖母ばあ様が?」

 宮の母は明石の御方の娘だが、ずっと紫の上の養女として育てられた。だから宮にとっても紫の上は祖母なのだ。

「私はお祖母さまのお顔さえ、定かではない」

「お小そうございましたからなあ」

 薫は笑った。そしてこのとき初めて殿舎を見た。女房たちがさっと隠れる。いつものことで、薫はいつどこにいてもその存在を人々に感じ取られてしまう。

 女房たち――とりわけ薫の父を直接知らない若い世代の女房たちは、今はこの二人の公達きんだちをもてはやしている。

 薫には何の香を用いずとも自然じねんに宇宙の香が満ちていて、遠くからでもその存在が示されてしまうのだ。

「兄君がお手を触れたら、梅が香も増しましょうぞ。秋には藤袴の生気をも蘇らせられるって、女房たちが騒いでいますよ」

「また、宮様の皮肉が始まった」

 薫は苦笑して、宮を見た。きれいな顔をしていても、この若者は十分自分に対抗意識を持っていることは、薫もはっきり分かっている。

 薫の自然の香に挑みがてらに、この若者の直衣には人工の香の精選されたものがいつも焚きこめられていた。

「お庭にも、香の高い草々が多うございますね」

 今度は薫の皮肉返しで、宮が苦笑した。この二人は自然と人工という違いはあれ、香を競っているのだ。だから若い女房たちはこの二人を「におうの君、薫の君」とついで称している。

「母がそろそろ産み月でしてね、私のもう一人弟か妹ができるのですよ」

 歩きながら、その匂の君は話題を変えた。

「ほう、もうそろそろですか。おめでたいことです」

「おめでたいのはいいのですけどね」

 にやりと笑ってから、匂の君は薫を見た。

「いつになったら、兄君のお子が?」

 薫は口ごもった。明らかにはにかんでいる。

「お通いになっておられるのですか? ちゃんと……」

「そういわれる宮様は? まだお独り身のようですが」

「私はいいのです。いずれ祖父じじさまのように、終生愛し通せる女人と出会えると子信じておりますからね。私は自由だ。しかし、兄君は……」

「私もいいのです」

「何がいいのです?」

「父も仏弟子として往生され、今の仮の母上も修行に励んでおられる。兄も阿闍利となっておりますし」

「まさか兄君も、そのお若さでご出家など考えておられるのじゃないでしょうね」

 宮は薫の顔をのぞきこんだ。薫は含み笑いを浮かべた。そして不意に、話題を変えた。

「ところで宮様の妹御も、もう十二ですね」

 薫が話に出したのは匂の君の妹、すなわち式部卿宮の一の姫である。

「あれはですからね」

 式部卿宮の娘ということは先帝の孫娘で今上の帝の姪だから、それも望み得るだろうと薫はふと思った。それと同時に、薫は今ともに歩いているこの若者の境遇に羨望をも感じていた。


 匂の君は父も母も健在で、今は無冠の王でも妹の入内ともなればその将来は輝くはずだ。しかも今も帝は、その父の式部卿宮の弟である。長兄の上皇は二十歳の若さでご退位あそばされた後、三十五歳になった今は冷泉院でひっそりとお暮らしになっている。あれほど御本人をも悩ませ、周囲をも騒がせた御狂疾は、退位後は嘘のように収まってしまっていた。今は皆が冷泉院の上皇、もしくは冷泉院様とお呼び申し上げている。

 そして今の帝は先帝五宮、つまり匂の君の父の式部卿宮の弟だ。

 だから、薫の目の前にいる若者も紛れもなく帝の甥である。それに引き換え薫は、父が帝の父君である先帝の兄だから帝の従兄弟ではあるが、従兄弟では甥にかなわない。ましてやその父も今はこの世になく、母は摂関家九条流の出だがその母も亡い。養母は朱雀院の帝の女三宮で九条家の故前右大臣の養女だが、これとて今は仏門に入っている。

 つまり薫には、何の後ろ盾もないのだ。長兄は阿舎利であるし、次兄は二年前にまるで父のあとを追うかのように他界した。

 九条家の末たちは、今はそれぞれにときめいている。父の親友だったという故九条前右大臣の長男で、薫にとっては母方の伯父である一条摂政はすでにこの世にないが、その故一条摂政の五男が薫より二歳年長だが、薫と侍従仲間の同僚である。

 一方、父や九条家の仇敵であった故小野宮前関白太政大臣の次男の三条殿が今は関白であり太政大臣でもあるが、ほとんど名目上のものとなっている。

 一条摂政亡き後、その弟の堀川殿が次の関白太政大臣となったが、ちょうど小野宮関白と九条右大臣が兄弟で仇敵であったのと同様にそのさらに弟である東三条大納言とは政敵となっていた。

 そしてその堀川関白が七年前に他界する折に、政敵である弟の東三条大納言を自分の後がまにさせないよう最後の除目を強行し、弟を治部卿にした上であえて関白職を九条流の宿敵であるはずの小野宮流に譲ったのである。

 だが、治部卿に落とされた東三条殿も今では右大臣になっておリ、娘を今の帝の後宮に入れ、その娘は梅壷女御と称して帝の第一皇子を生んでいる。

 中宮には三年前に今の三条関白太政大臣の娘である承香殿女御が冊立されたが、こちらは皇子皇女とも生んでいない素腹であった。

 このように繁栄を極める九条家の末だが、薫の父の生前のよしみで、おのおの薫とは親交を結んでくれていた。それだけでなく、九条家は薫の母の実家でもある。

 これが匂の君に対する薫の、天然の香り以外の唯一の強みであった。中でも一条摂政の五男は薫より二つ年上だがほぼ同世代ということもあって、薫と親しく接してくれていた。また、彼の姉は薫の阿舎利となった長兄の妻でもあり、いわば身内なのである。

 さらにその妹はすでに他界しているとはいえ冷泉院の上皇の女御だった人で、その忘れ形見が今の東宮である。


 薫のその同僚の羽振りがますますよくなる機会が、秋になってやってきた。帝がその甥つまり冷泉院の第一皇子――薫の同僚から見ても甥の東宮に譲位したのである。

 先帝の御代、立坊が確実視されていた四宮の式部卿宮を差し置いて立坊した五宮であった今の帝は、二十六歳の若さでその位を退くことになる。ご在位十六年で、その譲位の背後には帝の第一皇子を生んだ自分の娘の梅壷女御の中宮冊立がかなわなかった東三条右大臣の圧力によるものだという噂もあるが、そのようなことまでは薫は知らない。

 ただ、承香殿中宮の立后以来東三条右大臣は自邸にこもり、娘の梅壷女御も出産の穢れの期日が過ぎても所産の皇子とともに宮中に戻らなかったということである。

 譲りを受けた冷泉院上皇第一皇子の東宮は十七歳で、外祖父の一条摂政はこの世にいなかったが、新帝の叔父として一条摂政の五男の羽振りがよくなったのは当然である。さっそく彼は、蔵人頭となった。そしてひと月後には右近衛中将となって、頭中将と呼ばれることになった。

 薫の父の親友、故前右大臣の呼称であった頭中将が、今やその孫に受け継がれたのである。同僚の出世はうれしかったが、薫にとって人との付き合いを自分の損得に利用したくはなかった。


 だがその薫にも、そのお鉢が回ってきた。秋の除目で、従五位上備後介に叙せられたのである。もちろん遙任である。

 さらには、左近衛権佐も拝命した。

 だが、あまりうれしくはない。立身出世など、彼の願望の中にはなかったのである。二世源氏ではそれを望んでもたかが知れており、代が下るごとにうずもれていくのが賜姓源氏の宿命であることも彼は心得ていた。

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