御病弱で精神を病んでおられた御父の冷泉院と違い、新帝は健やかな若者であらせられた。東宮には東三条右大臣の娘所産の新院の第一皇子が立った。新帝には従弟いとこに当たり、年はわずか五歳である。そして二條邸の匂の君も、新帝の従兄いとこであった。

 薫はさっそく宮仕えが始まったが、その合間にしなければならないことがあった。父の遺命である宇治のやしろの建立だ。


 ある日、薫はを利用して車をはるか宇治の地へと向かわせていた。そこにやしろはできつつある。

 薫の父や九条殿が世話になったという修理大夫を祀るものである。

 宇治の修理大夫といっても、もう半世紀近くも前の人だ。つまり、薫が生まれたときはもうこの世になく、当然のこと薫が直接知らない人であるが、その父の恩人のために社を建てよというのが父から薫に託された遺言なのであった。

 宇治の地は摂関家の墓所ともなっている地帯だけに九条流の直系の頭中将が資金援助もしてくれたし、足りない分はその叔父で今の九条流の一の人である東三条右大臣が補ってくれる。

 彼らとてそれぞれ祖父そして父である故九条前右大臣が修理大夫から蒙った恩の話は聞いておろうし、また式家の末の修理大夫とて大織冠までさかのぼれば北家の彼らと同族なのだ。

 宇治の社の建設は順調だった。

 薫は時々見に行けばいいだけで、それでも父の遺言は果たしていることになる。そしてその視察が、山に囲まれた閉鎖的空間である都での生活から、少しだけ心を解放してくれる。とりわけ、宇治へ行く途中で通る木幡の山道が薫は好きだった。四季折々の季節感が、そこでは都よりもいっそう濃厚だったからである。


 やがて、新帝の即位大礼が、朝堂院の大極殿で行われた。

 新邸の父君の冷泉邸の時は初めて即位大礼が内裏の紫宸殿で行われたが、その次の新院の御即位の時から、また大極殿に戻っていた。

 この時、薫の妹は彈正宮息女の女王とともに、高御座たかみくらの新帝のおそばに座していた。妹は父源氏の同母弟で妹の養父となっている前大蔵卿宮でこのときの上総宮の娘の女王として、高御座の幕をお引きする役目を仰せつかっていたのである。


 そして秋の風も吹き始める頃、薫の車は宇治ではなく都の北へと向かっていた。行く先は一条より北の、紫野である。

 そこの雲林院の中の念仏寺で講があると、彼は聞いたのだ。

 なんでも比叡山の天台座主の直弟子で、往生の話をよくする法師が山から降りてくるという。これからは毎月一日に伝教大師作の阿弥陀像を安置して、山からの法師の講が開かれることになったそうだ。

 匂の君も二条邸で暇をもて余していそうだが、薫はあえて誘わなかった。暇をもて余すのは悪いことではなく、それがみやびとなる。だが、だが薫が匂の君を誘わなかった理由はほかにある。薫は純粋にみ仏の道を求めて講を聞きに行くのだが、そもそもそうでない目的でないものも多く来る。

 会場の寺は朝から民衆でひしめき合っているが、彼らにとって講は社交の場であり、娯楽の場なのだ。つまり講そのものよりも、その前座ともいえる傀儡師くぐつによる語り物を聞くのが目的である。世話物語を面白おかしく傀儡師たちは語り、民衆は歓声を上げる。中には寺という場にはふさわしくないような、卑猥ひわいな話もあった。

 しかし薫が匂の君を誘わなかったのは、それが理由ではない。講という口実で、中流階級の貴種の姫もここを訪れる。彼女らは車を立てて並べ、その中で講師の講話を聞くのだが、それを目当てに来る好き者の公達きんだちも多い。匂の君などを誘えば、さしずめその部類にたちまちにして入るであろう。また薫をもそれが目当てだろうと言ってからかって痛くもない腹を探られ、否定すれば仏道好きの堅物と皮肉るに決まっている。だから、誘わなかった。

 ここに来る姫たちとて、道心が深いわけではない。どの講師の顔がよく、声がいいかで騒ぐ。つまりは、傀儡師に騒ぐ民衆と同じのりだ。

 かのいちひじりが河原で念仏を始めて以来、仏道は民衆の間にも相当浸透しが、それから半世紀、民衆仏教はこのような副産物までを生み出していたのであった。

「少し早く来すぎたかなあ」

 薫は供のものに言った。確かに境内ではまだ傀儡師たちが語り物をやっていて、民衆が盛り上がっている。その雰囲気がいやで薫は講にはあまり出かけないのだが、今回は高名な比叡山の僧が講師なので特別に出かけて来たのである。

 それにしても、早く来すぎてしまった。仕方なく彼は貴婦人連中よろしく車を立てて、御簾の中から外をうかがっていた。語り物が終わったらすぐにでも車から降りて、いちばんいい席を取るつもりでいたのだ。

 そのような状況だから、語り物の声はいやでも薫の耳に飛び込んできた。女の声だった。女だてらに、あのような大声を張り上げていることになる。だから下々しもじもの女はいやだと、薫は顔をしかめた。どうせこの紫野一帯に勢力をはる猿女さるめ氏の女に決まっている。

 節がついた語りとともに、その内容もまた薫の耳に入った。いつしか薫は、退屈紛れに聞くともなくそれを聞いていた。


 ――みやはこの暮つかたよりなやましうし給ひけるを、その御けしきとみ奉りしりたる人々さわぎみちて、おとどにも聞こえたりければ、おどろきてわたり給へり……夜ひとよなやみあかさせ給ひて、日さしあがるほどにむまれ給ひぬ。をとこ君ときき給ふに、かく忍びたることの、あやにくにいちしるきかほつきにてさしいで給へらんこそくりしかるべけれ、女こそ、なにとなくまぎれ、あまたの人のみるものならねば、やすけれ、とおぼすに、またかくこころぐるしきうたがひまじりたるにては……


 何かいわくのある若者の出産譚のようである。大臣おとどとかいう名称も出たからには、庶民の話ではあるまい。「宮」が母親であるらしいことからも、ますますそう考えられる。聞いていると、「院の殿上人」「上達部」などの単語も飛び出す。

 そして延々と語りが続いたと、

「これにて、今日の光源氏の物語はおしまい」

 と、高らかに歌い上げられた。薫の目が、とたんにつり上がった。光源氏といえば、死んだ自分の父の俗称ではないか。その物語とは……。

 語りが終わると、すぐに講が始まった。講師の僧は、みな話し上手だ。堅苦しい仏教哲学ではなく、分かりやすくしかも面白おかしく、聖教しょうぎょうを、特に往生の秘訣を説いていく。しかしこの時の薫にとっては、本来の目的であるこの講話よりも、先ほどの傀儡師の女の語りの方が気になって仕方がなかった。

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