3
講が終わると人々は三々五々に散っていくが、薫は一度車に戻ってからもそのまま人が引くのを待っていた。そして、従者を呼ぶ。
「先ほどの傀儡師の女を探して、ここに連れてきてくれ」
やがて女は、車の後ろの方に連れてこられて、そこに畏まった。
女は最初はまだ二十代前半であろうと思われたが、みすぼらしい身なりからもう少し年配かという気もした。
薫は車から降りた。薫は身をやつした狩衣姿であったが、それでも女はその場に平伏した。
五位の侍従という殿上人の中でも最下位の薫だが、それでも庶民から見れば雲の上の貴人で、女が平伏したのも無理はない。
「急に呼んで、すまなかった。先ほど語っていたのは、何の物語かね?」
「は、はあ。光源氏の物語でして……」
「そのほうがものしたのか?」
「い、いえ、それが……」
「では、誰が?」
「それは……、申し上げるわけには参りません」
一瞬ためらったものの、女は力強い声で回答を拒否した。
「そなた、名は?」
「紫野の式部と呼ばれております」
「あの物語、つまり、今日語っていた物語の本の巻を見せてはくれないか」
「い、いえ。それは……」
女は明らかに狼狽していた。
「あれは、さる高貴な
「高貴な聖? 何ものかね」
「そ、そ、それは……」
式部という女は、かたくなに口を閉ざした。
「叡山の僧かね?」
「……」
「存命のものか?」
またしても、返答はなかった。
「とにかく、その物語をこれにもてい!」
薫は性分に合わないことではあったが、わざとふんぞり返って居丈高に言い放った。庶民を相手にする時は、演技でもこうする方が効果的であることは知っている。それでも式部は身を縮めたまま、動こうともしなかった。
「まろは光源氏が三男ぞ」
やっと式部の顔が上がった。その顔には、不信感が見て取れた。
「そんな……、光源氏の君様は、あくまで語り物語の中の公達でございまして……」
「いいか」
薫は女の前にしゃがみこみ、その顔をのぞきこんで言った。
「よこせと言っているのではない。貸してくれと言っているのだ。必ず返す。ちなみにまろの父の光源氏は、晩年は嵯峨の御堂で覚念と名乗って修道生活をしておったものであるが……」
いちかばちか言ってみた。すると式部の顔が変わって、慌てて彼女は平伏し直した。やはりこの物語は、薫の父と関係があるらしい。そしてこの女は、少なくとも薫の父を知っているようだ。
「い、今!」
式部は転がるように立ち去り、しばらくしてから一巻の巻き物を両手で頭上に挙げて戻ってきた。薫はそれを手にとった。表題には「柏木」と書かれてあった。その筆跡を見た途端、薫の中に衝撃が走った。だが、何の衝撃かはこの時には分からなかった。
あとは何を聞いても、式部は再び口を堅く閉ざしてしまった。薫はとにかく、その巻き物を借り受けていくことにした。
高松邸に戻り、薫は几帳の影でそれを読みふけった。男が仮名の物語などを読んでいるところを、女房たちにでも見られたりしたらばつが悪い。
しかし、読み進んでいくうちに、薫は絶句した。
「これは……」
まずは、文字である。仮名書きではあるが、明らかに女の手ではなかった。そして所々にある真名(漢字)を、薫は拾って見た。父が遺してくれた有職故実の集大成はすべて真名書きだが、この物語の仮名の中にわずかに混じった真名は、その故実書の真名に筆跡が酷似している。
また内容は謎の貴公子の出生譚だが、「
この「宮」は……薫の養母に境遇が似ている。尼となっている薫の養母は、朱雀院の上皇の女三宮だからだ。するとこの赤子は……。
もの狂おしい勢いで、薫は文字を追った。
一巻を読み終えた頃には、もう外は暗くなりかけていた。格子が音を立てて下ろされ、女房たちが大殿油を点じてまわる。それでも薫は、もはやそのことを気にもとめなかった。
しばらく薫は、呆然としていた。この物語の中の新生児は……そして「大臣」とは……。気になるのは、あの式部という女がはっきりと「光源氏の物語」と言っていたことだ。すると「宮」は……? だが自分の実の母は亡くなった二条の紫の上で、西山の尼は養母にすぎない……。
薫は、頭がこんがらがりそうになった。自分の境遇と似ている点もあれば、そうでない点もある、だが、思い当たる節も多々あった。まず、自分は父と似ていない。それは、かつて幼心にも感じていたことである。そしてさらには、西山の母が養母だと知らない女房が、母と子でそっくりだと西山の母と薫のことを言ったのである。そのときは、自分は西山の母の実子ではないのにと一笑に付した薫だが、それはその時のその女房の実感だったのだ。
「殿、御膳をお持ちしました」
几帳の外から、女房の声がかかる。薫は立ち上がって、何回も首を激しく横に振った。
所詮は作り物語ではないか……すべてが架空の人物で、民草を興じさせるためにあの傀儡師の女がおもしろおかしく語っている語り物にすぎない……現実の自分とは、何ら関係がない……光源氏という名にしたって、源姓を賜った一世源氏なら誰でも源氏の君と呼ばれる……その昔には、実名が「光」という源氏の大臣もいたと聞く……また、今の左大臣とて源氏だ……さらに、一世源氏で大臣となったのは薫の父ばかりではなく、薫の父の異母兄弟で今でこそ親王宣下されて二品中務卿宮となっている前左大臣も、かつては一世源氏の大臣だった。昔では河原左大臣の例もある……。
考えすぎだ……と、薫は気を取り直して食卓についた。
食事が終われば、日課は経典の読経となる。通う女など薫にはないし、妻のもとへもあまり行かない。そして暗くなれば寝る。だが、この日はいつまでも寝る気はしなかった。ついつい杯を重ねてしまう。
そのうち、家司も女房もすべて下がらせ、薫は一人きりになった。そしてまたついつい、「柏木」の巻を見てしまう。そうするとまた、一度は断ち切ったはずの疑念が頭をもたげる。
この文字は、父の手だ……そう思い込むと心の中の深淵がますます大きく口を広げ、その中に自分自身が吸い込まれそうになる。そうなるとこの物語の中の大臣とは、薫の父以外にはあり得なくなってくる。幼い頃のおぼろげな父の記憶が物語を読んでいると細部まで再現されてしまうのだ。
それはあまりにも写実的な物語であった。父が目の前にいるような気がしてくる。大臣の言葉は実際の父の口調そのものだし、父でなければ、あるいは少なくとも実際の薫の父を直接知っているものでなければ、こうは書けまい。しかし、そうなると……。
薫は、父の子ではないということになってしまう。
物語の中の右衛門督とは……これが真の父なら、その人は……? 物語の中では権大納言となって、そして死んでいるが……やはり今はもう、死んでいるのか……? そして母は……? 紫の上か西山の尼宮か、そのどちらが自分の実の母なのだろうか……?
薫は頭を抱え込む思いであった。一度疑惑を抱くと、それはどんどん心の中で増殖される。まずは、自分の年齢だ。今、彼は二十六歳のはずだ。だが、昔から仕えていた年寄りの女房たちは、彼が生まれた年に内裏が大火で全焼したと口をそろえて言っていた。だが、よく調べてみると、内裏の大火のときは彼はすでに二歳になっているのだ。そのことはすでに気がついていたが、これまでは女房の記憶違いだろうということで片付けてきた。
しかし、今では疑惑の渦の中に彼はいる。自分は本当は大火の年に西山の母から生まれたのに、世間には一年前に紫の上から生まれたと公表されたにすぎないのではないか……そして、もしそうだとすると、なぜそのような作為が……やはりそこには実母だけでなく、実父が誰かという問題もあるのかもしれない。
しかしそのような疑問を、誰にも問いただすことはできない。今やこの屋敷にいる女房も家司も、新参の若い者がほとんどとなっている。
いったい自分は何ものなのだ……???
薫は経典に思いをはせた。釈尊の子の羅喉羅は在家時代に誰から教えられるもなく、自分を釈尊の子だと悟ったという。そのような知恵を自分にもほしいと切実に願う薫であった。
翌日、宮中には
御寺は一条の西京極を過ぎればすぐにその伽藍が見えはじめ、山門を入ると右手奥に緑の瓦の八角堂が、前方には中門の向こうには二層の金堂がそびえ、そしてその右には五重塔がそそり立っている。
薫はその金堂の方へは行かず、山門を入ってしばらく西側に続く築地塀の小門をくぐった。そこに母はいる。周りを森林に囲まれた静寂な地だ。
「おお、薫の君。ようこそ」
母は相変わらずのおっとりとした様子で、薫を迎えてくれた。二十六歳の男の母親にしては若く、まだ四十を超えてはいない。今まではそのことも、養母だからと合理的に片付けていた。だがもしこの人が薫の実母だったとすれば、その若すぎる年齢からも何かいわくがありそうな人だ。
「どうなさいました? じっと母を見て」
その言葉で、薫はわれにかえった。
「おいでくださるなら、お知らせくださればよかったのに。ま、そう申しましても、母らしいことは何もして差し上げられませんけど」
確かにそうなのだ。今でもまるで少女のように、尼僧の身でありながら膝に猫など抱いている。
「いえ、母上がいかがお過ごしかと」
「毎日、勤行だけの日々です」
尼とはなったが、さほど道心があるとも思えない母なので、息子の薫の方が世話をしている形となっている。母は自分を頼りきっている。これではどちらが親なのか分からない。
このような母に、とても疑惑のことを口にできるはずはないと薫は思った。もし、疑惑が薫の妄想ではなく真実だったなら、父も、そしてこの母もそのことでどんなに苦しんだか。いまさら薫がその苦しみを蒸し返すようなことを持ち出して、古傷をなめるようなことはできるはずもない。誰にでも、触れられたくない過去はあるはずだ。今はこの母が仏道を成就して、後世の障りもなきようにして差し上げるのが自分の役目だと、薫は実感した。
母を見て、薫の中で何かが吹っ切れたようだ。帰りの車の中で、薫は心の中で叫んでいた……たとえ誰が父であろうと、母であろうと、自分は自分である。今ここにこうして存在している自分が、すべてなのだ……薫はその叫びに、自分で酔っていた。だが、酔いはいつしか覚めるものである。
秋の司召の除目で、薫は左兵衛権佐に任ぜられた。そして冷泉院の上皇の御所に仕えることになり、そこに曹司も賜った。
すべての計らいは、冷泉院上皇ご在位中の中宮であった今の皇太后によるものだ。その皇太后は朱雀院の女一宮であるから、薫の西山の母の姉である。そのための計らいであろう。また、冷泉院の女御で今の帝の母、すなわち国母は薫の母が紫の上であるとすれば従姉である。
「よかったじゃありませんか」
二条邸で匂の君にその左兵衛権佐就任ことを薫が告げると、匂の君はそう言った。
「院は私の伯父上でもありますからね」
しかし、薫が冷泉院の従弟であるというのは、あくまで薫が光源氏の実子であったらということが前提になる。
「おうらやましい」
と、匂の君は言った。だが今の薫にとっては、匂の君こそがうらやましかった。
匂の君は父は式部卿宮、母は薫の異母姉の明石の姫君と、その父母がはっきりしている。それにひきかえ自分は、誰が本当の父で、誰が本当の母なのかも定かではなくなった。
つまり、自分が何者であるかもわからないのだ。
心が淋しい。西山の母に会いに行った時の帰りの車の中での心の叫びは、もうどこかへ行ってしまっている。もちろん匂の君にも、そしてほかの誰にも打ち明けられない。たとえ父が存命であったとしても、聞くことはできないであろう。
とにかく、これからは住み込みの宮仕えが始まる。もちろん左兵衛権佐という官職もあるから、宮中へも出仕しなければならない。高松邸に戻ることも少なくなろう。これが心機一転の好機だと、薫は新しい環境にいくらかの期待は抱いていた。
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