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新帝の即位とともに、さっそく後宮争いの火蓋も切って落とされた。何しろ新帝は、十七歳の若者盛りであらせられる。
最初に入内したのは京極大納言の娘であった。この大納言は故九条前右大臣の九男で、今の東三条右大臣の弟である。その娘は冬になって女御の宣旨が下され、弘徽殿女御と呼ばれるようになった。
その女御宣下の翌日、薫は冷泉院に入った。薫の曹司は、寝殿に近い対の屋に与えられた。調度なども冷泉院の上皇御自らのお指図で調えられ、申し分のない女房たちも伺候させてくださった。それもこれも、皇太后の宮の計らいであろう。
冷泉院の上皇は薫の出仕を、大変喜んでくださった。昔の御在位中の御狂疾のことも薫は噂で聞いていたので恐ろしくもあったが、対面が許されてみると何のことはない凛々しき
薫が過分な待遇の礼を申し上げると、院は目を細めておられた。
「亡き御父の光の君様とは、また違った風格をお持ちよのう。また、香の妙なること。どのような香を?」
「いえ、これは」
自然の香りであることをご説明申し上げるのに、薫は少々苦労した。
「皇太后の宮にも、対面あって然りぞ。こたびのことは、宮のとりなしであるゆえ。なにしろ宮の腹に、皇子は
確かに冷泉院と皇太后との間には、皇子皇女とも全くもうけられていなかった。だが、果たして本当にその理由だけだろうかと、薫は疑問に思っていた。
院のお言葉を聞き入れて三条にある皇太后の里邸に向かう途中の車の中で、そのことについて薫は考えていた。確かに皇太后にとって薫はその妹の子ということになってはいるが、子といっても養子にすぎない。それなのに、いくら自分に子がないからとて、妹の養子にこの過分の待遇は不自然だ。
だからどうしても、もしかしたら……と思ってしまう。やはり自分は、尼宮の養子ではなく実子……? そうなると薫は皇太后の実の甥ということになって、皇太后にとっては数少ない血縁者となる。もしかして皇太后は、すべてをご存知なのではないか……。
逆に、もし仮に尼宮が実の母だとすると、尼宮は薫にとって母であり従姉という奇妙なことになる。だが、父もまた別の人が実父であったら、その奇妙な関係は成立しなくなる。
とにかく今は雑念はいいにして御礼の言上が先と、薫は三条邸の
「わが父院亡きあと、そなたの父君には大変よくしていただきました」
薫はここでも、御簾越しとはいえ直の会話が許されていた。
「それに致しましても、このたびは……」
「いいのです。そなたを我が子とも思っております。私を母とも思い、何でも頼ってくださいませ。妹はそなたにとって仮の母で、しかも今は形を変えておりますから心細いでしょう」
「母とも思う」というのは、単に精神的なことばかりではない。宮中で生きていくには、母親の実家からの後見が必要不可欠である。だから皇太后の言う「心細い」というのも、精神的なことばかりではない。
だが、皇太后は建て前を言っているだけなのだろうか……薫は迷った。この際、疑問をぶつけるべきか、慎むべきか……一途に突っ走るには、彼はもう大人になっている。
その時、柱がきしみだした。女房たちの悲鳴が上がる。
「地震!」
結構大きい。薫は端近にいるからすぐに庭に出られるが、御簾の奥の皇太后のことを思うと、自分だけさっさとそうするわけにもいかない。
「宮様!」
薫はそう叫んでいたが、そのうち揺れは収まった。
「宮様! 大丈夫でございますか?」
「大事ありません」
御簾の中からの返答は、落ち着いた声だった。
「大きうございましたねえ」
「ええ。でも調度なども、倒れずに済んだようです」
結局この地震のせいで、薫は疑惑をぶつける機会を逸してしまった。
大嘗祭は翌年に持ち越しとなり、年の暮れにはまた入内合戦が続いた。
今度は東三条右大臣の亡き次兄の子の権大納言左大将の娘だ。後宮にはすでに京極大納言の娘が女御として入っているが、権大納言左大将から見れば、京極大納言は叔父である。
その権大納言左大将の娘は入内と同時に麗景殿に入ることになり、それまで麗景殿にいた冷泉院上皇の女一宮は宮中を退出して父院のいる冷泉院に入ることになった。冷泉院に仕える薫にとって、侍従の職掌でその宮の宮中退出の警護の任に当たることが初仕事となった。
さらなる入内合戦は、小野宮家の三条関白太政大臣の娘である。それも、年の瀬もおしせまってから先に入内した権大納言左大将の娘とともに女御の宣旨を受けて、権大納言の娘は麗景殿女御、三条関白他の娘は承香殿女御とそれぞれ称されることになった。
今度は東三条右大臣の亡次兄の故堀川前関白太政大臣の娘である新院の中宮が、承香殿を明け渡すことになる。中宮は今では里邸に下がっているので、今は四条の后と呼ばれていた。この后は素腹でもあり、たとえ中宮であって夫君が上皇になられたとて、皇太后には冊立され得ない。
本院たる冷泉院の中宮だった今の皇太后がいるからだ。新院の皇子は、東三条右大臣の娘である梅壷女御がすでに生んでいる。
年が明けて、薫も二十七歳になった。だが時際は、自分は二十六歳になったというのが真実ではないかと、彼は思いはじめている。そして匂の君は二十歳になった。
春のうちに、皇太后によって比叡山のふもとに建立された観音堂が完成した。講堂、五大堂、潅頂堂、法華堂、阿弥陀堂、真言堂の六つの堂宇を持つ堂々としたものだ。当然、薫もその落慶供養に顔を連ねていた。
そしてその頃、天台座主の交代もあった。新しい座主は飯室の権僧正と呼ばれていた人で、これもまた故九条前右大臣の十男で、今の東三条右大臣の弟である。九条流の流れは、仏教界においても頂点を極めようとしている。
人生の上り坂を登る人もあれば、降る人もいる。帝の代が変わったことで、伊勢の斎宮が雨の中を帰洛してきた。この斎宮は先帝と斎宮女御と呼ばれた女御との間の皇女で、母娘二代で斎宮を務めたことになる。その、母である斎宮女御とはかの六条御息所の娘で、今やその故人も世の中から忘れ去られ、思い出す人もいなくなっていた。
そしてまた改元があって年号が変わり、夏を迎えた頃、薫のいる冷泉院が慌ただしくなった。
かつて薫の冷泉院への伺候が決まった時に匂の君はしきりにうらやましがっていたが、この頃になって薫にもその匂の君の下心が見えてきた。冷泉院には上皇の女一宮と女二宮が、薫とは別の対の屋で暮らしている。二人の宮の母親は新帝と同じ故一条摂政の娘であるが、上皇はことあるごとに薫を寵愛はするものの、二人の宮と薫の間には固い隔たりをお立てになっておられる御様子であった。
薫は姫宮たちが同じ屋敷内にいることは知ってはいても、その対の屋に近づくことすらできなかったのである。つまり、匂の君のあては見事にはずれだった。
その二品の宮である女二宮が急逝したのは、五月になってからであった。冷泉院全体が喪の色となり、同じ屋敷にいた薫も触穢ということでしばらく宮中には出仕できない状態となった。亡くなった女二宮は四歳で齋院に選ばれ、母の喪に遭う十歳まで賀茂で神に仕えていた人である。内親王の慣習どおり夫も持たず、わずか二十歳での逝去だった。
触穢の期間だ過ぎてしばらくぶりに冷泉院から宮中に出仕した薫はまず左兵衛府に赴いたが、そこは上を下にとひっくり返したような大騒ぎであった。薫は取り残されているような気に襲われたが、今年は大嘗祭の年で、宮中全体がその準備のために大わらわだったのである。
そんな中で、事件は立て続けに起こった。京極大納言の娘である弘徽殿女御が十七歳の若さで他界した。ちょうど懐妊して出産も近いということで宮中を退出し、父大納言の屋敷で病に伏せっていた。
なにしろちょっとした果物さえ「まず弘徽殿へ」と帝は仰せになるほど数ある女御の中でも特別に帝のご寵愛を受けており、さらには帝の御子を懐妊されていただけに、父大納言はもちろん帝のお嘆きもひとしおではなかった。
葬送の車の後を、父大納言はとぼとぼと徒歩でついていく。しかし、帝はそれすらおできにならない。
帝はそれからというもの、大嘗祭も近いというのにほとんど政務にも手がつかない状況になった。
そのひと月後、帝の叔父御であらせられる新院の上皇が病に伏せられた。すぐに新院は剃髪されて法皇となり、堀河院を出られて、西山の御寺の北に造営されていた自らの勅願寺にお入りになってしまった。位を退かれても院庁を組織してまだまだ政道に携わろうとされていたそのお志も、これにて立ち消えになってしまうことになった。
入内合戦は、この年の暮れになってからも続いた。やっと大嘗祭も終わった頃のことである。
そして今度は、薫にとって他人事ではなかった。今度入内するのは匂の君の妹、すなわち式部卿宮の娘の女王である。しかも、この女王も入内と同時に女御となった。
このことを受け、薫はしばらく冷泉院を出て、自邸の高松邸に戻っていなくてはならなくなった。なぜなら新しい女御の母は少なくとも世間には薫の同母姉となっている明石の姫で、女御は薫の姪ということになる。だから、もしその女御が皇子を生み、新院の皇子である今の東宮の次の東宮にでも立とうものなら、薫は東宮の外大叔父、匂の君も外伯父となる。
だから、高松邸を訪れる祝いの客が絶えず。薫はその応対のために高松邸にいることを余儀なくされたのである。
それがひと段落したあと、今度は薫自身が祝いのために二条邸に行かねばならなかった。そして
珍しく匂の君は、神妙な顔をしていた。
「私は、後宮争いには関心はありませんよ。ただ、まあ、よかったなあとは思っていますけどね。妹の慶事を喜ばない兄はいませんから」
そして視線をそらし、匂の君はため息をついた。
「それにね、そればかりでなく、母から聞いた話では、私の父宮はほぼ東宮になることが決まっていたのに、父を飛び越えて東宮になられたのが今の新院だとか」
確かにそうである。もし式部卿宮が筋書き通り東宮になっていればすでに必ずや即位し、目の前の匂の君が東宮になっているであろうことは十分にあり得たことで、そのくらいの事情は薫も知っている。
「でもねえ、妹が国母ともなれば、父の無念も消えましょうぞ。どんなにお喜びか」
「それは、宮様も……」
「いやあ、私なんかどうでもいいのです。私には、もっとほかの望みがありますから」
「ほかの望み?」
「女です」
あまりに匂の君が露骨に言うので、思わず薫は苦笑してしまった。
「そんな……宮様なら引く手あまたで」
「ちょっと声をかければなびくような女は、数百人いても満足しませんよ。私がほしいのはたった一人の、生涯通して愛しぬける女性なんです。数はいりませんね」
「その女性とは……」
具体的に誰かと聞きかけて、やめた。聞いたとて、今の薫には関係はないはずだ。彼は今、女どころの騒ぎではない。思い重圧が、その肩にのしかかっている。
だから、薫は黙った。それでも匂の君は、一方的にしゃべり続けていた。
「例えばお
紫の御方――薫の母である……が、今やその母が実の母ではないのではないかという疑惑の中に、薫はいる。匂の君の方は、座ったまま庭の葉の落ちた木々を見ていた。
その匂の君の父の式部卿宮は、娘の女御宣下にともなって昇殿を許された。そして、全くの破格の待遇ではあるが、王という身分の匂の君も妹にあやかって親王宣下されたのである。
親王とは普通は帝のみ子であり、その親王の子まで親王宣下されるという例は、これまでも皆無とはいえないまでも極めて少ない。つまりこの措置は、実に異例なことの部類に属した。
親王に宣下されたということは、皇位継承の資格を得たということである。これで名実ともに匂の君は
今後は匂の君ではなく、匂宮だ。そして冗官ではあるが、兵部卿という職掌も匂の君は賜った。匂兵部卿宮の誕生である。
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