8
まさかこのような形で、長年の本願を遂げることになるとは思わなかった。今の源氏には心の安らぎも、本意を成し遂げたという充足感もない。
源氏がたった一騎で門内に駆け込み、山門を右目に僧坊に入った時、僧たちは騒然となった。いくら左大臣だと名乗っても、不信感からの騒ぎは収まらなかった。無理もない。こんなふうにしてやってくる左大臣など彼らの常識では考えられるはずもない。今や源氏は盗賊と思われても仕方のないいでたちであった。
だが幸いなことに、源氏の顔を見知っている阿闍利が一人だけいた。そこで源氏はその阿闍利に、この場での即刻の剃髪出家を懇願した。阿闍利は戸惑っていたが、その戸惑いに付き合っている暇は源氏にはない。役人たちも彼がこの寺に駆け込んだことは、追跡の途中で遠目ながらにも目撃しているはずで、追っ手が来るのも時間の問題だ。
「わけを話している暇はない。急いでくれ! 早く!」
源氏の剣幕にせかされて、阿闍利も何ごとかを察したようだ。僧たちも阿闍利に命ぜられて仕度をはじめたが、源氏にはじれったかった。ようやく剃髪も終わり、源氏は差し出された僧衣に着替えた。もはや女房の手はない。着替えも自分でしなければならない。
折しもそこへ、検非違使の一団が駆けつけてきた。間一髪で間に合ったことになる。
源氏は呼ばれる前に、変わり果てた姿を検非違使たちの前に自らさらけ出した。一団の先頭にいたものが、それに呼びかけた。
「み仏のご聖域を騒がせ申し、恐縮に存ずる。われは
「前左大臣は私だ」
それを聞いて検非違使左は息をのみ、目を見開いた。しばらくは言葉も出ない様子であった。
「源左大臣殿……いや、前左大臣殿でござるか……」
「いかにも。私は前左大臣ではあるが、大宰権帥などというものはここにはおらぬ。私は仏弟子となった。もはや俗世の官職などとは何らかかわりがない。宮中に戻り、一人の僧にそう言われたと伝えよ」
「うむ、しかし……」
検非違使佐は言葉を濁した。立場上、はいそうですかと帰るわけにもいかないようだ。
「私はもはや逃げも隠れもしない。沙汰があるならここにて待つ」
それだけ言って、源氏は庫裏の中へと入っていった。検非違使佐は放免たちを山門の前に残し、馬を走らせて坂を下っていった。
さっそく僧たちが、源氏の周りに集まってくる。ことの大まかなところは察したようだが、まだ彼らは何がどうなったのか把握しきれていない。
「謀反の罪よ」
そんな僧たちに、吐き捨てるように源氏は言った。
「四宮様を擁して、帝と東宮を傾け奉ろうとしたという。もちろん、事実無根だ。すべては罠だったのだ」
源氏はそれ以上は言わなかった。
夕刻になって長男の左兵衛佐が、薫を伴ってやってきた。九条家の兄弟からは、何の音沙汰もない。ただ長男のもとには、一条大納言からのひそかな便りだけはあったという。
「――無実を信じております。立場上、お伺いできないのをお許しください……そう伝えてほしいとの内容でした」
「彼らとて、巻き添えになりたくはないのだろう」
「いえ、そうではなく、実は宮中は今やひっくり返したような大騒ぎで、宮廷の門も一日中閉ざされております。とても抜け出せるような状況ではないのでしょう」
「そんな大騒ぎに……?」
「何しろ固関使の発遺まで、行われたといいますから」
「固関使……何と大げさな……。ありもしない謀反なのに……」
源氏は苦笑した。だが、長男の顔は真面目であった。このまま僧籍に入るという父の主張を、朝廷が許すかどうか不安に思っている様子であった。薫は訳が分からないようで、ただ小さくなっていた。
そのまま二人の息子は、寺に泊まっていった。
翌日、昼前に検非違使別当が直々に寺にやって来た。そして、告文が読まれる。それによると、僧尼令では僧の犯罪が発覚した場合、還俗させた上で俗人と同じ罪科を科すことになっており、ましてや犯罪発覚以降に僧籍に入ったものは全く俗人と変わらないということであった。源氏が大宰権帥に任ぜられたのは単なる人事異動ではなく、犯罪に対する流刑でであることはこれで明らかになった。
彼らがもたらした情報として、源氏の次男もすでに捕らえられ、配流先も決められたという。何の罪もない息子までもが流罪となるという理不尽さに、源氏は唇を噛みしめた。
「私は?」
その場にいた長男左兵衛佐が、検非違使別当の前に進み出た。
「太郎君はお構いなしと承っております」
「何ゆえっ!」
怒鳴って飛び出そうとする長男の袖を、源氏はつかんだ。
「おまえは、関白太政大臣の外孫だからな」
「何とっ!」
憤怒の相を見せていた長男だったが、たちまちその烏帽子を投げ捨てた。そして懷刀で
「何をする!」
「父や弟が流されたのに、私だけが平穏でおれましょうか。私は父上の子ではあっても、関白の孫だなどとは思っておりません。運命をお供いたします」
「幼い子たちは、どうするのだ?」
「子は大納言さまの一条邸におります。わが舅の大納言さまが、後見となってくれましょう」
その時また、境内からしわがれ声が響いた。
「帥殿、早くされよ。すでに車も用意致しておる」
今この場から源氏は、西国に向かって旅立たなくてはならない。もはや明石の御方とも姫とも若君とも、会って名残を惜しむことすら許されないのだ。
「せめて、文を!」
外にそう叫んでから、源氏は筆を僧から受け取った。それを紙におろす前に、長男を見た。
「おまえが出家入道してからでもいい。薫を二条邸において、面倒を見てやってくれ」
「それは、構いませぬが」
長男は唇を噛みしめ、目に涙を浮かべていた。源氏は静かに、落ち着いた口調で続けた。
「おまえの妹も、そしてその老いた母親も、さらには若君をも二条邸に引き取ってはくれぬか。何しろ薫は若君を、甥ではあるけれども弟のようにかわいがっているからな」
そこまで言ってから源氏は目を落とし、明石の御方への文をしたためた。明石の御方は泣くだろうと思う。別れを告げることもできなかった。賊が入ったと知らせに行ったのが、今としては最後となってしまった。
検非違使の催促がうるさい。源氏は仕方なく立ち上がった。
「父上!」
薫が泣いて、その僧衣にすがった。
「兄上と一緒に、二条邸で暮らすのだよ。母上の思い出のお屋敷だ」
また、庭の方で咳払いがした。
「早く致せ。加冠前の子供なら構わぬ。山崎あたりまでなら同道を許す」
たかが検非違使別当風情の、つい昨日まで左大臣であったものに対する口のきき方ではなかった。それでも源氏は文句ひとつ言わず、用意されていたみすぼらしい網代車に薫とともに乗り込んだ。
護送は右衛門尉だった。そういえば、左衛門尉であった義兄=従弟は、その配流先も今ごろは決められているであろう。
車が動き出した。長男はじっとその車を見つめていたが、やがて深々と頭を下げた。坂の上から御簾越しに、都が一望できた。源氏が生まれ、育ち、生活をしてきた場だ。五十六年間、彼はここで笑い、泣き、怒り、喜びつつも生きてきた。今その地を離れようと……いや、無理やりに離れさせられようとしている。
車は後ろ向きのまま、坂を下る。傾斜が急なので普通の向きでは車が勝手に転がってしまい、牛の力でもそれを止められずに車は暴走してしまうからだ。多くの人が、車を支えていた。
やがて坂の下まで来て牛が付け替えられ、車は本来の進行方向に向かい、洛中には入らずにそのまま川沿いを南下しはじめた。噂を聞いて駆けつけてきた人々によって、沿道には多くの車が立った。誰もが源氏に同情の目を向けているように感じられた。
この頃になって、源氏の心は妙に落ち着きはじめていた。目の前にいる薫は、まだことの成り行きが分かっていないようであった。
やがて自分がその寺の寺守だと故九条前右大臣が言っていた寺の脇を通った。この寺を建てたのは九条前右大臣の父親の前関白太政大臣だが、源氏の元服の折の加冠役で、当時は左大臣であり、面倒見のいい老人であったことを源氏は思い出していた。そして車は、やや右の道を取った。左へ行けば木幡を経て、宇治に至るはずだ。
「父上は、遠くに行っておしまいになるのですか?」
「ああ」
ゆっくりとうなずいて、源氏は薫を見た。思えば数奇な運命を持つ子だ。実の母を仮の養母としか思っておらず、その実父に至っては何も知らない。源氏と紫の上を実の父母だと思っているのだ。
「父はね、昨日夢を見たのだよ」
源氏が今こうして落ち着いていられるのも、その夢のお蔭であった。
「昔、宰相修理大夫といってね、私が若い頃とてもお世話になった人がおられたんだよ。私が若かった頃にもうすでにお爺さんだった人なんだけど、その人が昨日の夢に出てきたんだ」
「その人、もう亡くなったのですか?」
「そうだよ。でもね、昨日、夢の中で言うにはね、今でもあの世から私のことを守ってくれてるそうだ。それに私が都からいなくなっても、残された家族も守るから心配しなくてもいいってね。ただね」
「はい」
「ひとつだけ、条件を出された」
「条件?」
「その方は宇治で亡くなったんだけど、その宇治の地にその方を祀る
「はい、分かりました」
向かい合う形で座っている薫は、大きくうなずいた。
山崎までは、あっという間だった。ここで一泊して、翌朝には薫と分かれる。今度は聞き分けよく、薫は都へ帰ってくれそうだ。
「帰るのは二条邸だぞ。若君もそちらに移っているから、若君のことをよろしく頼む。それから、例の宇治のことも」
「はい」
薫は元気よく応えはしたが、それでもその目には涙が浮かんでいた。
薫を右衛門尉に託して都に帰らせたあと、一人になった源氏を乗せて網代車はさらに西へと進んだ。そうなると、いくら宰相修理大夫のお蔭で落ち着いて都を離れたとはいえ、やはり源氏は感傷的にならざるを得なかった。
そして、遠い昔のある人と、ついつい自分を重ね合わせてしまう。都の人たちからは雷公といって恐れられた菅公だ。誰もがその祟りに怯え上がっていたが、その火雷天神も生身の人間だった時、ちょうど今の源氏と同じ境遇で同じ道をたどったはずである。
――君しがらみとなりてとどめよ
菅公のその時の悲痛の叫びが、今の源氏にとっては
旅は続く。須磨を通る。
かつての
明石でもそれは同じだった。ただ、波の向こうの淡路島の島影のみが、ほんの微かに記憶の片隅にあった。
いつの日かもう一度だけ明石のん方と、二人のでいあの場であるこの地を訪れてみたいものだと源氏は思っていた。それがこんな形で、明石の御方を都に置いて一人でこの地で淡路島を眺める日が来ようとは思わなかった。
あの時はあの島陰に都に残してきた紫の上を忍んだものだが、その紫の上はもう都にもどこにもこの世にはいない。
――駅長驚く
その詩がまた身にしみて感じられ、思わず口ずさんだりする。
そうすると雷公とか火雷天神とかいうのとはかなり印象が違ってくる。それは雷公などではなく、生身の人間としての菅公が明石の駅の長に詠んだ詩である。
源氏が昔ここに来た時の供は気の知れた家司ばかりであったが、今は顔も知らない検非違使の役人たちに連行されてという形である。もちろん源氏は、誰一人とも会話をするでもない。本当はこの須磨や明石で何日か逗留したい源氏であったが、今の彼の境遇がそれを許さない。彼は左遷とはいえ、実質上は流人なのである。
十数日の旅の末に最後は船旅となったが、その船べりから玄海灘の荒波越しに筑紫の山々が見えた。それらは源氏が見慣れた都の山々とは、全く別世界のものであった。
西に向かっているということもあって、人間界とは全く別の世界に来てしまったのではないかという思いさえして、源氏は山々を見ながら全身を硬くしていた。
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