もう誰しもが寝静まった深夜であった。夜になると風も冷たくなり、冬が近いことが肌で感じられた。一年中で、虫の声がいちばんけたたましい時期だ。

 いつになく疲れていた源氏は、早めに床に入っていた。西宮邸における源氏の居間は寝殿であっても、寝るときはたいてい西ノ対に渡る。そこが夫婦の寝室になっているからだ。

 宮中では昨日から僧四十人が集められて、紫宸殿で読経が始まっていた。季節も秋が深まり冬になっていくと、宮中は新嘗祭に向けて動き出す。更衣ころもがえの日も近い。

 そんな多忙な毎日に疲れてこの日も源氏はとろけるように眠りに入ったが、夜半に急に目がさめた。妻は眠っている。仕方なく闇を見つめて、日々の公務のことを源氏は考えていた。宮中での多忙さにあくせくしているうちに、ゆっくりと老いは進んでいく。一歩一歩、死に近づいている。友は一足先に、源氏をおいて逝ってしまった。妻はまだ喪服だが、源氏にとって舅でもある友の喪は明け、とっくに平服に戻っていた。

 そのとき、廊下を駆けてくる足音がした。それも一人や二人ではない。源氏は身構えた。このような夜更けに、異常である。次の瞬間、源氏は跳ね起きた。賊の侵入かと、枕もとの太刀を握った。同時に、妻戸を激しく叩く音がした。

「一大事でございます!」

 聞きなれた家司の声であった。

「何事かね」

「北の方の空が、真っ赤でございます」

 源氏は立ち上がって、小袖のまま烏帽子だけつけて廂の間に出た。そしてそのまま西ノ対の北の簀子に出ると、確かに北の方角の空は真っ赤に焦げ、黒煙が立ち上がっているのが見えた。

「あれは、内裏の方角ではないか!」

 源氏は同じように簀子に集まってきた家司をかき分け、一度寝殿に戻ったあと、もっとよく見える北ノ対へとまわった。

 煙は一筋ではなく、太い束であった。相当広い範囲が燃えていることになる。空ばかりでなく、地表に噴き上げる炎も見えるくらいだ。

 源氏が慌てて寝殿に戻ると、すでに灯火はともされていた。

「参内する! 仕度をッ!」

 源氏が叫ぶと、たちまち着付けの女房たちが参上した。

「参内する。束帯だ。いや、束帯では間に合わない。直衣でいい!」

 束帯だと、着付けに四半時しはんときはかかってしまう。直衣とてそう早いわけではないが、束帯よりはましだ。緊急事態だから構わないであろう。狩衣ならあっという間に着られるが、いくら緊急事態でも狩衣で参内ははばかられる。

あこめはよい。指貫さしぬきを!」

 女房たちは十分急いでいるようであったが、それでも源氏はじれったかった。

「早くしてくれ」

 源氏はほとんどそればかりを、言い続けていた。

 さすがに頭だけは冠をかぶり、源氏は引かせてきた馬にまたがった。従者は松明を持つものを含めて二、三人だ。そのまま朱雀大路を一気に北上し、供たちは全速力で走って源氏の馬を追った。

 行く手に立ちふさがる朱雀門の向こうでは、ますます火の手が広く燃え上がっていた。内裏が火災であることは、もはや間違いない。大路に面して庶民の家が門口を開くことは許されていないので大路は到って静かだが、小路は何事かと飛び出した人々で一杯であった。

 朱雀門は、こんなときでも開かれていない。仕方なく大宮にまわって、陽明門の方へと源氏は向かった。幸い、ひとつ手前の待賢門が開いていた。源氏は馬を従者に預け、松明を受け取ると中へと走りこんでいった。中では宿直とのいしていた官人が、大騒ぎして右往左往している。源氏はとにかく内裏の方へ向かって、ひたすら走った。それでも木靴では思うように速さが出ない。

 やっと建礼門の前に出た、この頃ようやく半月が東山の上に顔を出したが、もはや何の用にも立たない。松明さえいらないほど、火災の炎であたりは照らされている。その建礼門の中が、紅蓮の炎なのだ。中にはとても入れそうにもない。

 源氏は走りまわっている官人を、一人つかまえた。

「帝はッ! 帝はいずこにおわしますぞ」

 さあ――という表情で首をかしげ、その若い官人は走り去った。自分の部署の処置で忙しいのであろうが、帝のご安否に「さあ」とは、それでも官人かと源氏は叫びたかった。

 とにかく源氏は走りまわり、

うえーッ!」

 と、叫んでいた。

うえは中院の神嘉殿にお渡りですぞ」

 だれかが遠くで叫び返してくれた。源氏は内裏の西の、中和殿の方へと急いだ。宮城門の脇の諸門をくぐって一気に中院の門に入ると、ちょうど息を切らせて入りこんできた老人の新右大臣と鉢合わせする形となった。

「右大臣殿、大納言殿、参り給う」

 だれかが大声で叫んだ。帝に奏上する口ぶりだ。となると、確かにここに帝はおられることになる。果たして源氏が新右大臣とともに殿舎にはいると、そこには帝と、剣璽の箱を戴く左中将のほかに、すでに東宮も侍臣にその体を支えられて入っていた。ほかには故・右大臣の三男の少納言、小一条大納言、桃園大納言の顔ぶれがあった。

「もはや火は温明殿も焼き、南殿なでんも恐らくは……」

 源氏の姿を見て駆け寄ってきた少納言は、顔を真っ黒にしていた。

「早く参上したな」

「私は宿直とのいでしたから」

 そこへ帝が、お言葉をはさまれた。

わたしに火のことを知らせてくれたのも少納言でしたよ」

 それからも、参議などが続々と集まってきた。

「火元は?」

「宣陽門の左兵衛陣あたりかと。今、微かに東風が吹いていますし」

 少納言が源氏に答えているうち、帝はすくっと立ち上がられた。

「右大将は、消火をつかさどれ。左金吾は鈴と印鎰の取出しを奉行せよ」

「はッ」

 命ぜられた右大将小一条大納言と左衛門督桃園中納言は、帝直々のご下命に二人同時に声をそろえた。この非常時でなければ滅多にあることではない。ここにも帝のご親政のお姿の一端が現れていた。

 そこへ駆け込んできた蔵人が、帝の御前にかしこまった。

「火はすでに紫宸殿、仁寿殿はおろか、清涼殿にも移りましたようで」

「ここも危のうござる」

 右大臣が叫んだ。皆、それぞれ顔を見合わせた。

「お輿に!」

 桃園中納言に促されて、帝も畳から輿にお移りになった。再度の避難をしなければならない状況となって、輿は上げられた。

「ひとまず、太政官に」

 桃園中納言が言う。

「お待ちなさい」

 と、それを小一条大納言が制した。

「太政官では方角が悪い。職御曹司しきのみぞうしの方がいい」

「とにかく、早く!」

 と、今度は源氏が叫んだ。

 帝の御輿は宮城門を出て建礼門の前を通り、すでに鎮火しかけていた宣陽門をわき目に職御曹司へと向かった。火元には近いが、こちらは風上である。そこまで公卿たちに守られているとはいえ、地下じげの官人がうようよしている中をかき分けての帝の御輿の移動というのは前代未聞であった。すでに後宮さえもが、今は炎に包まれていた。

 源氏と老右大臣が、帝の御輿の脇に付き添った。

「ああ、わたしが不徳であるまま帝位にいるから、こんな災いに遭うのだ」

 帝は御輿の中で、何度もそうつぶやいておられた。


 そのまま公卿たちは、帝や東宮とともに職御曹司に宿直した。火は開諸門鼓が打ち鳴らされる前には鎮火したというので、公卿たちは早朝、内裏の焼け跡を検分に行った。外郭の塀は何の損傷もなかったが、建春門を入った途端、だれもが足を止めた。

「何もッ、何もないではないかッ!」

 右大臣が震える声をあげた。確かに何もなかった。残骸と墨の山の向こうに、内裏の反対側にある中和院がまる見えだ。紫宸殿もない、清涼殿もない、仁寿殿も承香殿も、そして後宮のすべての殿舎も跡形もなく焼け落ちていた。

 火は内裏を焼いただけで、その外には一切延焼はしていなかった。大極殿も八省院も無事だった。風がそう強くなかったせいか、人的損傷もほとんどなかったという。

 中宮は父の故前前右大臣の喪で宮中を退出して兄の宰相中将の一条邸にいたし、ほかの女御たちも皆無事であるようだ。

 だが、宜陽殿の宝物など貴重な文物や文書などがすべて灰になってしまったし、温明殿の神鏡さえも行方不明となった。

 惜しむらくは、新国史の草稿も焼失してしまったことである。まだ完成奏をしていない未定稿であったので、写しは一切取られていなかった。

 いったい何の型示しかと、源氏は思った。火はきれいに内裏だけを焼き尽くし、その他は無傷である。

 源氏が幼い頃を過ごした淑景舎、三条入道との思い出のある飛香舎、そして何かといわくのあった弘徽殿、再建ではあったが微かに父の匂いをかぐことのできた清涼殿など、それらはもはやこの世に存在しない。ただ、その跡地に広がっているのは、焼け跡の荒涼たる広場だけであった。

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