それから三日間、源氏は自邸に篭もっていた。

 参内するにも、その内裏がないのである。公式にも三日間は政務なしとの通告があった。ただ、その間にも神鏡や宝物の太刀などの捜索は続けられた。そしてそれらは見つかった。しかも神鏡はあれほどの猛火に包まれたにもかかわらず、全く無傷であった。これこそ伊勢の大神の御神徳とだれもが感嘆し、仮の賢所かしこどころが内裏の北の縫殿寮に奉斎された。

 やがて廃務も明け、源氏たち公卿も出仕した。出仕の場所は、とりあえず朝堂院であった。もっとも本来はここが政治の場で、ひと昔前は毎朝帝が大極殿にお出ましになって、政を聴かれていたものである。今では正月と新嘗祭くらいにしか使われなくなった朝堂院だが、そこが復活したというのは、政治の形態が律令時代に復古したような感があった。紫宸殿の機能も大極殿に移され、紫宸殿で行われていた四十僧の御読経も大極殿で行われてこの日が結願であった。しかしこれとて、昔の本来の姿に戻ったのである。

 公卿たちは応天門を入ってすぐ右の、東朝集堂に参集した。何をさておいてもの急務は、内裏の復興である。朝集堂は朱塗りの柱に瓦屋根の漢風建築で、土足で入る石畳の床の上に長く敷かれた畳に、公卿たちは列座する。蔀を上げてしまえば柱だけになる内裏の和風建築と違い、ここでは入り口の扉を閉めてしまえば中はかなり薄暗くなる。だからもう朝だというのに、室内には灯火がともされていた。

 まる一日の閣議で、新しい内裏造営のことはほぼ決まった。紫宸殿と仁寿殿および承明門は修理職が、常寧殿と清涼殿は木工寮が受け持つことになった。その他の殿舎や後宮などは、諸国にそれぞれの再建費用や労力が分配された。たとえば承香殿と淑景北舎は美濃、春興殿、宜陽殿、襲芳舎は播磨といった具合である。

 一通りの閣議が終わると、それからは雑談になる。この日のその内容は、今回の火災処理において誰が功労者だったかということであった。

 やはり帝に最初にお知らせ申し上げた九条三郎の少納言と、剣璽をすぐにお運びした左中将であろうということで、大方の意見は一致した。左大臣としては故前右大臣の子息の功を認めるのには渋い顔をしていたが、事実なので致し方ない。

 このように政治が朝堂院に移されたのなら、清涼殿の機能は職御曹司に移されたといってもよかった。とりあえずはそこが、帝のご住居になっている。前から里邸の宰相中将の一条邸にいた中宮はそのままで、ほかの女御たちもまずは大内裏内の各殿舎に避難した後、各自の里邸へと下がっていった。斎宮女御もその里邸の六条邸に下がった。

 更衣ころもがえの旬の日も宴こそは慎まれたが、左右大臣以下公卿は職御曹司に参集した。そしてその数日後には造内裏行事所が設置され、内裏再建の手はずは驚く程の速さで調っていった。非常事態なので儀式的要素を持つ各書式は省略され、帝自らの下知によってことは進んでいったのである。左大臣は全く出る幕もないといった感じで、影が薄かった。

 今回の火災について、火元に関しては不思議とだれもが口を閉ざしていた。迂闊な発言は、政治生命にかかわる。なぜなら、内裏に続いて勧学院や大学寮でも火災が発生し、もはや失火ではなく故意の人災である可能性が高くなったからだ。

 そのうち、本格的な冬になってから、帝は冷泉院にお移りになった。冷泉院は東西の対の屋のそれぞれ南の、釣殿や泉殿との間にももう一つ対の屋があり、東宮も帝と同じ冷泉院のその東南ノ対にお入りになった。

 平安遷都このかたご在位中の帝が大内裏の外を御在所とするのは前代未聞のことで、これが里内裏の始まりである。これまでにも内裏の部分的な火災焼失はあったにせよ、内裏全体が焼失したのはこれも平安遷都以来のことだったからである。


 造内裏のことは一段落しても、公卿たちは忙しかった。諸国諸社への奉幣の発意に慌ただしく走りまわり、そんな中で冷泉院でも忌火の神事が行われたりした。

 それに加えて、世間ではまたもや大飢饉による餓死者の続出で、そちらの対応にも迫られた。

 新嘗祭とてやるべきであるとする意見と中止を求める意見が公卿の中で真っ二つに割れ、これも帝の御英断で神事としての新嘗祭のみ行い豊明の節会は中止することになった。

 この忙殺される日々の中で、源氏は気にはなっていたがどうしてもできずにいることがあった。それは、出家した少将に残された朱雀院女二宮のことであった。高松邸の女三宮の方はかなり落ち着いて、若君の成長も健やかだという。だが、女二宮とて亡き朱雀院に託された皇女の一人であることに変わりはない。何とか訪ねてみたかったが、今の源氏の公務ではそれもままならない。そこで源氏はふみを二条邸に遣わして、長男の左兵衛佐に自分に代わって訪ねてくれるように頼んだ。

 数日たって、左兵衛佐が自ら西宮邸を訪ねてきた。この日も源氏は閣議が続き、帰宅したのは暗くなってからだったので、息子を待たせる形になってしまった。

「行ってくれたか」

 直衣に着替えてから、源氏は寝殿にて息子に対座した。

「はい。二度ばかり」

「二度もかね。宮様とはお会いできたかい」

「お会いくださったのは、乳母殿でした」

 源氏は自分のあごに手をやった。源氏のときは御簾越しでも、宮は会ってくれた。長男とは乳母を応対に出すとは、何か変な警戒をしているのではないかと勘ぐってしまう。長男は出家した彼女の夫とは、親友であったのだ。

「で、乳母殿は何と?」

「やはり、宮様を捨てて山に入った人への愚痴ばかり申しておりました。この私が、今後できる限りの援助をさせていただくと申し上げてはおきましたが」

「本当か。できるのか」

「見くびられては困ります」

 息子があまりにむきになるので、源氏は思わず笑った。

「分かった。任せる」

「あのお屋敷は、紅葉が盛りでした。その真っ赤な楓に柏の木が枝をからめまして、まるで仲のよい夫婦のような風情でしたのに……少将は、なぜ……」

 左兵衛佐は目を伏せた。

「柏木と楓か」

 源氏はふとつぶやいた。それから眉がピクリと動き、しげしげと息子の顔を見た。柏木と楓――息子はこれらをただ少将と女二宮になぞらえただけだろうか……もっと深い意味があるのではないのか……。

「これからも、行ってくれるか」

「はい」

 息子の顔は、急に光った。柏木――それは兵衛府の官人の別称である。だから柏木と聞いて連想するのは近衛府の少将ではなく兵衛府の佐である息子の方である。柏木と楓……まさか息子と女二宮……? ばかばかしいと源氏はすぐに自分の中で否定して、話題を変えた。

「ときに、我が孫はまだかな?」

「それは……」

 再び息子は、顔を伏せた。

「ここのところ一条邸には中宮様がおわしますれば、私ごときがのこのこ伺うのも……」

「伺うのではない、帰るのだよ。あちらでは女房たちからもお帰りなさいましと迎えられるだろう?」

「はあ」

 ふと源氏は、息子は宰相中将の息女であるその妻とうまくいっていないのではないかと、またもや勘ぐってしまった。自分自身のことがしみじみと思い出される。

「面目だけは、つぶさないでくれよ」

 自分でそう言ってしまってから、源氏はまたさらに自分自身のことを思い出していた。それは、若かった頃に自分が母親から言われた言葉であった。息子もその頃の自分と似ている。息子の舅は故前右大臣の長男の宰相中将であり、つまりは今の左大臣家の血を引く息子が九条家の一員となっている訳だ。

 だが、前右大臣も亡き今、九条家の一員であることがかえって息子に対する政治的風当たりを強くしているかもしれない。その点が、若い頃の源氏とは違う。しかも今の息子はもう二十七で、源氏が今の左大臣家の婿になったときよりも十歳近く年上だ。だから、その分だけ分別もあるはずだろうとも思うが、だが源氏の中で待てよという声もする。

 逆を思えば、源氏が今の息子の年にはもう須磨、明石の流謫を終えて参議になっていた。息子はそのような人生の屈折を経験していない。それが恐くもあった。さらに、自分が参議になった年齢で息子はまだ左兵衛佐――賜姓源氏は代が降るごとに身分は低くなっていくと聞いていたし、そもそも加冠ですぐ五位にしなかった父としての源氏のとった措置も関係してくるとはいえ、これではいくら何でもとため息が出てしまう源氏であった。

 息子といえば、源氏の三男ということになった高松邸の若君はまだ這いだしはしないものの、足を投げ出して座ることはできるようになった。ほんの微かだが、下の方の歯が二本ばかり生えてきたような気もする。そろそろ人見知りが始まる頃だが、それでもたまにしか顔を見せない源氏なのに源氏にはよくなついていた。名前を呼べば分かるようだ。

 だが成長するにつれて、さらに右少将に似てくる。それだけが源氏にとって気がかりであったし、また悲しくもあった。あのようなことをしでかしたとはいえ、右少将はやはり同腹の姉の子、源氏にとって血のつながっている甥なのである。


(つづく)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る