第4章 横笛
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故前右大臣が亡くなったことに対する憂いは年が明けても続き、その死を悼む声は収まらなかった。
彼が生前宮中においてどれだけ存在感を持っていたかを物語る状況であるが、源氏とてまだ心にぽっかりと穴のあいた感覚を拭い去りきれずに日々を送っていた。若い頃よりほとんど同じ空気を吸ってきた仲なのだ。ことあるごとに思い出すことも多い相手であるが、その彼と語り合い、時には反目したこともあった思い出深い内裏さえ、今やすべて灰燼に帰してしまったのである。
春になると、内裏の焼け跡では盛んに槌音が響くようになった。物資の搬入で大内裏の中の大路はにぎわい、明るい希望を人々に持たせた。
故前右大臣の死してもなおの人気も、源氏にとっては力となった。左大臣と現在の右大臣が同じ側に属する人である以上、何から何まで前右大臣の在世中のようにいくという訳にはいかないが、その左右大臣ともすでに老人である。源氏には前右大臣が残していってくれた影響力が陰の支えであったし、その子息たちが長男の宰相中将をはじめ皆一線で活躍しているのも頼もしいことである。
前右大臣の根強い人気に左右大臣や小一条大納言が歯ぎしりしているのとは裏腹に、源氏にはさらに今や働き盛りであらせられる帝という強い味方があった。
中宮は前右大臣の娘であり、源氏の妻の西ノ対の上もその姉で、やはり前右大臣の娘なのである。
前右大臣=源氏のラインに代って今や帝=中宮=源氏のラインが左大臣=小一条大納言に拮抗し、微妙な均衡を保っているというのが今の状態であった。
二月には、ようやく内裏の跡地に新しい殿舎の柱が立ち並ぶようになった。今、内裏は不死鳥のごとく蘇りつつある。国庫にもまだまだ非常時のための貯えはあったし、また負担を諸国に分配したのは少なくとも朝廷にとっては正解であった。しかもそれは臣下の閣議を帝がご裁可あそばされたのではなく、あくまで帝からのご英断であった。
続いて、改元が行われた。この年は辛酉の革令の年であり、そこへ昨年の内裏の火災のこともあっての改元であったが、そもそもこれまでの年号が火の神、陽神の御名をそのまま年号にしたもので、火災に関しては忌むべき年号だったのである。新年号は火に関して忌むべき字を避けることに神経が注がれて、やがて発表されたが、それが吉か凶か分からぬうちにその月の末には西南の方角にまるで野火の気のような
春も深まり、世の中がどうなっていようとお構いなしに、今年も一斉に花が咲いた。帝のおわします冷泉院の釣殿に帝は出御され、その庭で花宴も開かれた。さすがに内裏の中でのそれよりも規模は縮小されたが、この日ばかりは公卿たちも日ごろの憂さを晴らすことができたようだ。
冷泉院は四町を占める大邸宅だから、広さは内裏と変わらないのだ。ただ、建物がひしめき合っていた内裏と違い、庭が広い。桜の花びらが池を埋めて漂いながら光り、池のない内裏での宴では味わうことのできない風情であった。中島には文章生が召されて探韻、献文、講師などが行われ、詩の題は勅題で「流鶯遠和琴」であり、引き続いて笙歌の興もあった。
さらに射場で射令も行われ、どんな非常事態であろうとも先例と年中行事に対する公卿たちの飽くなき執念がこれらを実現させたともいえた。当日は春宮帯刀や左右の近衛府の官人が弓を射たが、帝の命で源氏が改番を仰せつかった。
そうこうして月日が流れていくうちに春も終わりに近づいたが、今年は閏月が入って春もひと月だけ長引いた。そんなある夜、源氏は思いもかけない夢を見た。
源氏は公人で、何よりも公務が優先だ。だからといって私邸のことを顧みずにいてよい訳ではないのだが、ついつい公事にばかり気を取られていた。そんな時に、亡き弟である朱雀院が夢枕にお立ちになったのである。
「兄君を信頼してお願いしておきました姫宮たちのこと……、一宮はまだしも二宮は背に先立たれたのと同じような身となり、そして三宮は」
夢の中の朱雀院は目を伏せた。源氏はそこではっとした。その瞬間に目が覚めた。それからもずっと心に残っているような夢であった。
朱雀院は神
翌日は公務が重なってとても昼で退出できるような状況ではなかったが、それでも源氏は強引に口実を作って宮中を昼過ぎには出た。そしてその足で、高松邸へと向かった。ここも源氏の屋敷なのだから、寝殿ではたちまち女房が束帯から直衣に着替えさせてくれる。しかも、いつ源氏が来てもいいように衣にはきちんと香がたきこめられてあった。
それから西ノ対に渡ると、女三宮――愛宮は相変わらずおっとりとして座っていた。部屋には双六の台があり、おそらく今までは童女たちと双六に興じていたが、源氏の渡る前駆けを聞いて慌てて中止したのであろう。
「いつまでも子供でして……」
宮の乳母がいざり出てきて、源氏に愛想を作る。源氏はそれに、微かな含み笑いを見せた。
乳母の言うとおり、確かにまだまだ子供だ。だが、対の上が今の宮の年齢だった頃は、源氏が来てもお構いなしに双六を続けていたものであった。もっともあの頃は源氏自身もまだお兄様と呼ばれていた年ごろであったが、今は宮に自分をお兄様と呼ばせようとしても世間が許さないであろう。宮は自分の娘と同じ年である。
「いかがかな。お暮らしにご不便はございませんかな」
すでに宮は内親王ではないのだが、それでも源氏は畳の上の宮よりわざと一段下がって、円座の上に腰を下ろした。
「はい、お蔭様で」
そのとき源氏は、宮が微かに笑んだのを見た。宮は少女ながらも、その面影にすでに母親であることを秘めていた。一人前の大人の女の表情が、わずかながらもそこにあったのである。宮の様子を確かめると、源氏は立ち上がって乳母を呼び、宮の背後の障紙を開けて廂の間へと出た。
そこで源氏は、床に直接座った。乳母もその前に座る。
「宮の裳着のことなんだがね。もうそろそろ考えないといけないね」
「ええ。すべて大納言様にお任せいたします。あのお方は実の父君にも養いの父君にも先立たれて、今は大納言様のみが頼みの綱でございます。何とぞ、よろしうに」
床に手を突いて頼む乳母の目には、涙があふれているようであった。
裳着となると当然のこと、宮はまだ子など生んだこともない未婚の娘ということにして執り行わなければならない。もっとも、まずは姉の女一宮が先だ。女二宮だけが、降下した関係で姉に先んじてしまった形になってはいたが、女三宮の裳着は女一宮の裳着の後ということになろう。
その時、廂の間に猫が勢いよく走りこんできた。するとその猫を追うように、一人の乳児が這いだして来たのである。
「薫か? もう這うのか?」
薫に続いて出てきた薫の若い乳母が、ばつが悪そうにその場に控えた。
「申し訳ありません。一日中猫を追いまわしておられまして」
「いい友達がたくさんいていいな」
源氏は微笑んで、寄ってきた薫を抱き上げた。人見知りが激しい頃だから泣き出すかと心配したが、高く差し上げると薫はけらけらと笑っていた。
相変わらずいい香りがする。つまりは体臭だが、臭気ではないので「体香」とでもいうべきであろう。身も少し引き締まって、ますます美しい
「子の成長は早いな」
源氏は胸にその子を抱いた。それから少しためらっていたが、意を決したように源氏は赤子の顔をのぞきこんで言った。
「父だよ。そなたの父だよ」
薫はまた不意に、声を出して笑った。なぜだか急に、源氏は胸が熱くなるのを覚えた。
「申し訳ありません。とにかく何でもお口に入れようとしますから、目を離さないようにしていたつもりでしたが」
そう言って乳母は源氏から薫を受け取ろうとするが、源氏は放さなかった。
「この美しさでは、成人したら宮中で女房たち相手にひと騒動起こしそうだな。もっともそのときは、この父は生きていないだろうけど」
「また不吉なことを」
乳母をよそに、源氏は薫の顔をじっと見た。そのうち乳母が言った通り、薫は源氏の直衣の襟をつかんで口に入れようとした。
「これは何とも奇妙な色好み。食い意地が張ってますと、女房たちから陰口をたたかれますぞ」
そう言ってあやしながらさらに子供の顔を見ていると、やはり薫は笑っていた。そして成長するにつれて、さらに山の上の少将に似てくる。
違う!……と、源氏は心の中で叫んでいた。この子は自分の子だ、自分と対の上の子だ……この子が生まれたいきさつである不祥事は、確かに物の怪の
すると、腕の中の子がますますいとおしくなった。一日も早く、対の上にも会わせてやりたいとも思う。
だが、その代わりに不便なのが、この子の実の母の女三宮であった。明石の上のように分かって自分の娘を対の上の養女にしたのとは違い、女三宮はまだ何も分かっていない。子供の父親という概念が、まだ分かっていないはずだ。やがて裳着となればこの宮にも子の出産に関する男女の仕組みのことが告げ知らされるであろう。何も知らない今はまだいいが、すべてを知ったときに彼女が傷つかずに済むだろうかということを思うと、源氏の心は少なからず痛むのであった。
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