閏月が入って春が延びた分だけ、源氏にとっては結局は多忙な日々が増えたことになった。本来のまつりごとは早朝に行われて昼には退出できるものだが、この頃は夜になってから里内裏に参内しなければならないこともあった。社会全体が夜型になっていて、暗くなってからの閣議も珍しくない。薪や灯火の油の節約のための夜の閣議は控えるという風潮も、いつしか空文化していた。

 この日も夜になってから源氏が呼び出されて冷泉院に「参内」すると、宇佐宮への奉幣の告文を書くようにという帝の仰せが蔵人より伝えられた。奉幣使のことはすでに陣定めで決められていたことであったが、告文の作文はあまりにも急な話であった。さっそく西ノ対に一室を賜って、源氏は作文を始めた。

 静かな夜であった。だが殿舎の中では宿直の舎人たちが談笑していて、いつまでも寝そうになかった。奉幣の内容は昨年の内裏火災のことで、そのための神宝奉献である。源氏がやっと草案を完成させたのは子の刻ですでに真夜中であるため、奏上は翌日ということになった。

 もういいかげんにしてほしいなと不平をこぼしながらも、源氏は深夜なので遠い西宮邸に戻る気はせず、比較的近い高松邸に帰ることにした。

 翌日、奉幣文の草案の奏上が行われたのは昼前で、直ちに奉幣使の派遣となった。源氏はそれで、久しぶりに昼に退出することができた。

 だが数日後には、冷泉院の釣殿での藤花の宴と休む暇もない。当日は池のある邸での宴という利点を生かして、池に龍頭鷁首の船が一艘ずつ浮かべられ、楽人がそれに乗り込んで音楽が奏でられることになった。また、童舞もあった。公卿の合奏では左大臣が筝、源氏がお決まりの琵琶で、治部卿宰相が笙を吹き、宰相右衛門督が笛だった。

 楽の公卿の座の数を見て一つ足りないと思った源氏だが、すぐにそれでいいのだということに気がつくとやたら悲しくなった。琵琶に合わせられる前右大臣の和琴は、もうないのである。糸を弾きながらもひと撥ごとに、源氏はやるせなさを感じていた。


 先に遣わした宇佐使は途中備後国で心身の不調を訴え、そのまま帰洛してきてしまった。冷泉院ではそのことの吉凶を陰陽師に占わせたりして大騒ぎになったが、そんな騒ぎをよそに新内裏の建築は順調に進んでいた。

 紫宸殿などのように焼け跡から額が拾われたものはそのまま使ったが、残らなかったものに関しては新たに額を作らねばならなかった。

 大内裏の諸門の額は東側と西側の諸門が嵯峨の帝の御宸筆、南の三つの門と応天門は弘法大師、北の三つの門は橘秀才の揮毫である。今回の新内裏の諸門諸殿舎の額も、それら三筆といわれた人々に匹敵するくらいの名人の筆にかからねばならない。

 そこで白羽の矢が当たったのが、かつて西海の海賊の乱のときに征南海海賊使であった宰相太宰大弐の弟である内蔵権頭であった。かつての宮中詩合のときに、左右の詩を清書したのも彼である。まずはさっそく、承明門から額が献じられた。

 そして、季節は夏になる。

 いよいよ前右大臣の一周忌で、閏月が入ったので実際は十三ヵ月目になってしまったが、それでも源氏はもうそんなになるのかと歳月の速さを実感した。

 法要は娘である中宮の主催で、比叡山横川よかわの楞厳院法華三昧堂で行われることになった。故人自らが建立寄進した御堂である。

 中宮がその地を選んだのはそればかりではなく、横川には中宮の異母弟が二人も禅師として入っている。そのうちの一人が例の前右少将であった。

 実際に山に登るのは、中宮大夫である源氏が中宮の名代としてということになった。それを聞いたとき、源氏は複雑な心境になった。山では嫌でも右少将と顔を合わせることになろうが、いったいどんな顔をして会えばいいのだろうかと思ったのである。向こうも源氏の顔を見たら、せっかく仏道修行に精進しているであろう道心が乱されるのではないかとも心配した。彼は自分の子が生まれたことも知っているのか知らずにいるのか……しかし今は、その子は源氏の子ということになっている。

 そ知らぬ振りをしていようと、八瀬に向かう車の中で源氏は考えていた。

 だが行列がいざ山道に入ると、源氏はそのことよりもかつて前右大臣とともにこの山道を分け入った時の記憶で頭の中は一杯になった。あの日は暗いうちに都を出発し、このあたりで夜が明けたと輿の中から樹木の香りのする気を吸いながら源氏はふと考えた。その同じ道をこのような形で再び登ることになろうとは、源氏はあの時は少しも思っていなかった。

 あの時は山を登りきった所で、近江坂本の方から登ってきた右大臣と合流し、ともに峰伝いに横川に向かったのであった。今は坂本から上ってくる別の行列はない。輿を止めて源氏は、山の上に立ってみた。琵琶湖が一望のもとに見える。よく晴れた夏の空を反映して、湖水は青く輝いていた。そして背後を振り返ると、そこには都の盆地が広がっている。五十年近く自分が泣いたり笑ったり時には怒ったりしながらも暮らしてきた生活の場のすべてが、今や完全に視界の中に収まっている。ここから見る景色は五十年前も今も、ほとんど変わらないであろう。しかしその中で息づく人々は、そして時代は何と変わってしまったことか……・。源氏はもう一度、坂本の方を見た。待っている人はその方角からは、いつまでも登ってきそうな気配はなかった。


 法要の前の庫裏で源氏は、中宮の名代ということで勅旨に準じた扱いを受けた。まずは座主が、そして横川の阿闍利があいさつに源氏のもとを訪れ、その頃に前右大臣の子息の宰相中将、左近少将、少納言の兄弟も到着した。次に源氏の前に現れたのは、彼らのさらに弟になる九郎禅師であった。しかし、現れたのは一人で、だれも連れていなかった。

「このたびは姉の中宮様の御計らいで、我が住んでおりますこの横川にて父の法要をさせていただけることが、何ともありがたく……」

 そんな言上よりも、源氏には気になっていることがある。

「兄の禅師は?」

「兄はもうここの横川にも、比叡のお山にもおりません」

「比叡にいない?」

「大和の国の、多武峰とうのみねに移りましてございます」

「大和……」

 源氏は前少将の禅師がいてもそ知らぬ振りをしようと決めてはいたが、やはり少し緊張していた。ところが、実際に目の前にいないとなると肩透かしを食らった気持ちになる。

 その話はそれまでとなって、修法が始まった。護摩壇に炎が上がり、僧たちの読経の声が響き始める。その炎の中に、源氏は亡き友人の面影を見た。

 ――願わくはこの三昧の力によって、まさに我が一族の栄えを伝え……

 あの日の、前右大臣の声が聞こえてきそうな気もする。

 ――頭中将、君はなぜ私をおいて、一人で先に言ってしまったんだ……

 源氏は炎に向かって、心の中で叫んでいた。だが源氏の心の叫びは、ほかにもあった。

 ――右少将よ。君はなぜこの地を去った? ここが君の父の縁故の地だからか? それほど、罪の意識にさいなまれていたのか……

 二つの叫びが心の中で交差して、源氏は思わず目頭を抑えていた。


 前少将は都の近くから去った。高松邸の女三宮は、今でも前右大臣の五の君・愛宮のままである。また、そうあり続ける必要もある。そして前少将とこの愛宮との間で起こったことは、一切がこの世から消し去られようとしていた。しかしそのためには、源氏の子ということになっている薫の君が、いつまでも高松邸にいてはまずい。そろそろ成長も落ち着いてきた頃だし、もの心がつく前に源氏と対の上がいる西宮邸に引き取らねばならない。

 そこで源氏は家司の陰陽師に吉き日をぼくさせたが、その日はあいにくの雨であった。しかも、尋常の雨ではなかった。今年の梅雨は昨年に引き続きほとんど空梅雨であったが、それでも一応は梅雨明けを告げる雷鳴が雨とともに鳴り響いたのである。これでは薫が西宮邸に移るのは延期せざるを得なかった。

 そしてその翌日の夕刻になって、西宮邸はやっと薫を迎え入れることができた。そのとき、折しも空に虹がかかった。

 薫はもはや、ものにつかまってなら立ち上がることができるようになっていた。

「何てかわいい!」

 見るなり対の上は、相好を崩して薫を抱き上げた。またしても薫は人見知りもせずに笑っていた。よほど前世からの因縁でこの子は自分たち夫婦の子となるべくして生まれてきたのだと、源氏は対の上に抱かれた薫を見て再びそう実感していた。

「私、実際にお腹を痛めた子は一人しかいないのに、こんな三人もの母親になっていいのでしょうか」

「血よりも前世の宿世は強いんだね。その糸で結ばれているんだ。でも、私の子はもう一人いるよ」

「太郎君の兵衛佐様ですね。でも私、その方とはお会いしたことありませんから」

「そういえば、そうだな」

 考えてみれば当然のことだが、なんとなく不思議でもあった。自分の妻が自分の子と会ったことがないのである。

 源氏は一つ息をついた。そして高欄に手をかけて、庭の方を見て言った。そろそろ蝉が鳴きだしてもいい頃だが、今はまだその声は聞いていない。

「君は、北ノ対に移ってくれないか」

「北ノ対に……?」

 少しだけ対の上は目を輝かせて、源氏を見た。その目を源氏はまっすぐに見た。

「いつまでも対の上などと呼んでいては、君に申し訳ない。これからは北の方と呼ばせてもらうよ」

「殿……」

 思えば夫婦になってから数十年、今まで西ノ対住まいだった方が不自然だったのである。

「君と子供たち三人では、西ノ対は狭すぎる。ほかに対の屋はいくらでもあって、空いているのだから」

「殿」

 薫を抱いたまま身を寄せるようにして、対の上は源氏の脇に立った。

 今、妻の腕の中にいる子――この子にとって対の上は実の父の異母姉で、源氏はその実の父の母方の叔父である。さらに源氏は、この子の実の母の実の父方の伯父でもある。なんだかややこしいが、この子は源氏と対の上の双方にとっても血縁がないわけではない。その子が今、二人の子として抱かれている。ここに到ってこの子が、老夫婦の絆をますます強めたともいえた。

「ちい姫の裳着も、そろそろ考えなくてはな」

「そうなるともう、ちい姫なんて呼べませんよ。子供たちも成長して、私たちも老けていくんですね」

「君と一緒にな」

 源氏はもう一度、妻の瞳を見つめた。そして微笑んだ。


 夏たけなわになって、それまで東院にいた中宮は帝と同じ冷泉院に入ることになった。ここで一組の夫婦が、同じ屋根の下で暮らすことになったのである。そして梅雨明けと同時に、またもや雨が全く降らなくなった。諸国からの解文げぶみも、水田の水の枯渇などの惨状をひしひしと訴えるものばかりであった。朝廷でもさっそく諸社に奉幣し、また祈雨の読経も行われた。その効験あってか都に激しい大雨が降ったのは、六月も末になってのことであった。

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