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東宮はすでに十二歳になっていた。元服にはまだ間がある。だが同じ年の源氏のちい姫にとってはそろそろ裳着の年齢となる。そのようなことを気にしているうちに、宮中では帝の五の宮の著袴の儀が行われた。五の宮は中宮腹としては三番目の男皇子で、このとき三歳になっていた。二番目の男皇子である四の宮も、すでに八歳であった。
そんなある日の夕暮れ、長男の左兵衛佐が西宮邸を訪ねてきた。しかも西門から入ってきたというので、源氏は西ノ対まで出迎えることにした。久々の親子の対面である。かつてはかなり父の源氏に反発していた長男だが成長とともに落ち着き、今では父ともすっかり打ち解けている。
ところが西ノ対の簀子で、左兵衛佐は足止めを食らっていた。異母の弟や妹たちがまとわりついて離さないのである。
「兄上、遊びましょう。また弓の引き方を教えてください」
「まあ。兄上は私と貝合わせよねえ」
左右から袖を引かれて苦笑している長男に、源氏は笑いながら近づいていった。
「あ、父上」
佐兵衛佐はすぐにかしこまろうとしたが、それでも弟妹たち離さない。
「すいぶん人気があるね。年も離れているのに」
弟妹との年齢差は一回り半もある。だが、それだけになついているのかもしれない。異母の兄弟がこんなに睦まじいのは、世間では珍しい。異母兄弟は源氏と帝のような皇族ならいざ知らず臣下では左大臣と故前右大臣のように政敵にさえなりかねない場合があり、また異母姉妹とは裳着が終わったら御簾越しでしか対面できなくなる。
「次郎。姫。騒がしいじゃないかね。二人とももう十を越えて小さな子供ではないのだから、そうまとわりついて兄君を困らせないように。宮中の兵衛の次官を、君たちは随身にしようというのかね。恐れ多い」
源氏の言葉に、左兵衛佐も笑っていた。
「しばらく見ないうちに、二人とも大きくなりましたね。特に姫などは、もうそろそろ婿など取らねば」
「左兵衛佐」
源氏の顔が、少し曇った。
「ここは官人の席としてはふさわしくないから、
それだけ言うと、ほんの少しだけ不機嫌そうに源氏は歩いて行ってしまう。左兵衛佐は戸惑った、弟妹たちはまだ離れそうもなかった。
そのとき、
「父上」
と、源氏を呼び止めた。
「もしや、このお子が……?」
「新しい弟だよ」
立ち止まってこちらを見た源氏の顔からは、不機嫌さは消えていた。
「これが薫の君……。なんと美しい」
左兵衛佐がこの薫を見るのは、これが初めてのはずである。その左兵衛佐がしきりに手招きすると、もはや物につかまらなくても歩けるようになっていた薫は頼りなさそうな足取りで兄に近づき、そのまま抱き上げられた。
「よい香りがしますね。笑ってますよ、父上」
「人見知りをしない子なんだ」
「美しいですが、父上にはあまり似ておりませんね。母親似なんでしょうな。私は対の上様を存じ上げませんから何ともいえませんが、多分そうなのでしょう」
息子のこの言葉の一つ一つが、源氏の胸に突き刺さった。息子は真顔になって、じっと薫の顔を見ている。源氏は急に胸騒ぎがしてきた。
「薫はいいから、早く来なさい」
思わず息子をせかしてしまう源氏であった。
左兵衛佐は客扱いで、訪問者をもてなす寝殿の南面で父と対座した。この日の源氏は小袖と
「父上。実は昨日も、女二宮様の御もとへ参上したのですが」
「ああ、その報告かね。ま、律儀で感心だ。で、どんな様子だったかね」
「静かなお屋敷ですね。ちょうど宮様は和琴を弾いておいででした。秋の月も昇って雅やかな夜でしたから、私も父上譲りの腕をと思いまして、琵琶など借りまして想夫恋などを一曲」
「想夫恋?」
源氏は思わず息子の言葉を遮った。
「ずいぶん風流な思いをしたようだけど、君はいったい何が目的で宮様のお屋敷を訪れたんだい?」
左兵衛佐は、言葉に詰まっていた。
「想夫恋といえばそのような風情にはふさわしい曲かもしれないけど、夫に山に入られて残された妻と、夫のかつての友人との間で合わせるにはどのようなものかね」
「父上、何がおっしゃりたいんで?」
息子も少々不機嫌になったようだ。源氏は別に不機嫌にさせるつもりはなかったが、とかく若者たちのことについては神経質になってしまう。
「はじめにお世話して差し上げようと思ったその志を、忘れないことだ。今はいない夫君の友人としてこれからも長くお世話して差し上げようというのなら心清くお訪ねして、決して変な気持ちは起こさないように」
「父上は私が信用できないのですか?」
「おまえが信じられないというわけではない。ただ……」
その先は言えなかった。かつて源氏が父院から後見を命じられた女性――六条御息所のことが脳裏をよぎった。確かに、あのときの源氏は今の息子よりもずっと若かった。しかし、御息所はずっと年上だったにもかかわらずああなってしまったのだ。女二宮は年増ではなく、若い娘である。
それに、もう一つ気がかりだったのが物の怪のことだ。物の怪ならどんな常識で考えられないことさえ、朝飯前でできてしまう。だから邪霊に隙を与えないようにも、釘を刺しておく必要があると感じたのだ。
「変な気持ちなど、起こしません!」
佐兵衛佐は、むっとしていった。
「純粋な気持ちからお世話して差し上げようと伺っているのですから、急にやめたりしたら結局色事だったのかと世間からも思われましょう」
「別にやめよとは言っていない」
「しかし、そう聞こえました。想夫恋のこともとやかくおっしゃいましたけど、私が訪ねる前から宮様は琴をお弾きになっていたのです。だいいち私はもはや二十六です。宮様はここの妹姫とほぼ同じくらいの年というではありませんか。そのような宮様に、いくら何でも……。お考えがいやしうございます」
源氏は苦笑した。かつて自分が、大人たちに抱いた憤りだ。しばらく、父子の間に沈黙が流れた。
そのうち息子の方が、膝を一歩進めた。
「実は宮の乳母殿から、これを頂きました」
左兵衛佐が懐から出したのは、一本の横笛であった。
「右少将が愛用していたものだそうで、これを私にと」
源氏はその笛を手に取り、しばらく考えていた。……薫はこれからも自他ともに自分の子と認められて成長する。本当の父も知らずに育つことになるし、また知ってほしくもない。だがせめてこの笛は薫に……本来なら実の父を思わせるものは、すべて薫の身辺から拭い去りたいと思うはずである。しかしはこの笛だけは……と、源氏はそのような気になったのである。
源氏はゆっくりと目を上げた。
「この笛は、こちらで預かるよ」
「え?」
左兵衛佐は驚いて顔を上げた。
「友の形見なのに、それを?」
「形見だなんて、彼は別にこの世からいなくなった訳ではないのだから、縁起でもない」
源氏は心の中を隠すように、わざと笑って見せた。
「この笛は私も覚えているよ。これはね、陽成院の帝の御笛で、亡くなった式部卿宮が譲り受けていた物だけど、その宮が生前に右少将のあまりの才に感動されてお授けになったものなんだよ。乳母はそんな由緒あるものとは知らないで、気軽におまえに渡したのだろうから」
「分かりました。ただ、父上。一つお伺いしてよろしいでしょうか」
「何かね」
「右少将はなぜ、急に出家を? 本当にただ、お父君の前右大臣様が亡くなったことだけが理由なのでしょうか」
「おまえこそ親友なら、何か知らないのかね」
と、源氏は内心動揺しながらも鎌をかけてみた。
「実は……」
息子は目を伏せた。源氏の動揺はますます高まった。
「彼が山に入る前に、私にもらしていたんです。自分はとんでもないことをしてしまった、してはいけないことをしてしまった……と。それで手から血が出るくらいこぶしを握り締めて、泣きながら何度も床を叩くんです。それはもう何かに取り憑かれたみたいで、普通とは思えなかったです。父上こそ、何かご存じではないですか?」
「いや、知らぬ」
源氏の動揺は、いつしか狼狽に変わっていた。しかしその狼狽を息子に悟られぬようにと、努めて平静を装った。
「私にとっても、意外なことだったよ。何がなんだか訳が分からなくてね、それでおまえに聞いたのだが」
「そうでしたか」
息子は一応は納得してくれたようなので、源氏は安心した。だが、勘の鋭い息子だ。しかも先ほどは、じっと薫の顔を見つめていた。まだまだ安心はできないと、源氏は身を引き締める思いであった。
冬になって、また時代が変わった。今では東国の兵乱といっても最近の若い者はもう直接は知らないであろうが、その兵乱のときに武蔵介で西海の海賊の追捕使であった六孫王が死んだ。
古い時代の人が去っていくのと入れ替わりに、前右大臣の三男の少納言に三番目の男の子が生まれた。
そうこうしているうちに内裏はほぼ旧態に復され、新嘗祭を迎えた。その豊明の節会のために冷泉院におられた帝は豊楽院に行幸され、その足で新造内裏に入られた。そして二日後には、すべての政務がもとのように新しい内裏に移された。
形はもとのままといってもまだ床も柱も真新しく、激しく木材の香りがする。それにしてもあれだけ何もなくなったところによくもこんなに昔どおりの殿舎が立ち並んだものだと、源氏は思わず感心してしまった。しかも何もかもが元通りであるのに、それが真新しいのだ。柏原の帝の平安建都の当時を、どこか彷彿とさせるものがあった。
暮れになって、中宮と東宮も内裏に戻った。中宮は飛香舎ではなく弘徽殿に入り、東宮は
(つづく)
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