第5章 夕霧

 まじめ堅物であるという評判の高かった左兵衛佐――源氏の長男も、このところせっせと女二宮のもとに通っているらしい。表向きは山に入った親友に代わって、その残された妻の後見をするということになっている。

 しかし、その真意は……源氏は自分の息子のことであるにもかかわらず、それを測りかねていた。まさか、浮ついた心からではないのか……そのことを言ったとき、息子は血相を変えて否定した。あるいは、信じてもいいのかもしれないとも思う。息子とはいっても、ほとんどともに暮らしたことはない。そして今や自分とは別の存在である一人の男として、息子は源氏に相対している。

 そのうち年も明け、一連の正月の行事に明け暮れているうちに、源氏の中で長男への関心は薄らいでいった。同じ子であっても西宮邸で同居する次男と姫、そして今ではだれもが源氏の三男だと信じ込んでいる薫の三人への関心の方が高い。長男はすでに宰相中将の婿だが、ほかの三人の未来はこれから源氏自身が作ってやらねばならないのだ。

 月末になると、ようやく世も人々も正月気分が抜けて落ち着いてくる。たいていはその頃を狙って、帝ご自身が主催する内宴が開かれる。正月の行事における公卿たちの労をねぎらう、いわば帝の私宴である。しかしこの年はそれは延び延びとなり、実際に開かれたのは次の二月も下旬になってからであった。

 まだ真新しい仁寿殿で宴は始まった。私宴とはいっても最初は詩会で、その詩講までは形式ばった儀式である。この日の詩題は「風柳散軽糸」であった。

 詩講が終わり、仁寿殿の西庭、すなわち清涼殿の前庭で内教坊の舞が奏された。そしてそれから膳が運ばれ、やっと人々も酒を口にしてくつろげる場となる。

 私宴であるだけにいざ酒が出れば無礼講に近くなり、源氏も召しによって帝の御座近くにはべっていた。

「宮中もだいぶもとのように、華やいできましたでしょう」

 帝の仰せに、源氏も相槌を打っていた。

「はい。いかにも」

 帝はにこやかにお笑いになって、清涼殿の前の梅の木を指さされた。内宴が遅れたこともあって今は紅梅の盛りであり、その程近くに新しく植えられたばかりの呉竹の緑と対照をなしていた。

「同じ場所に、梅の木を植えましたよ。昔、顔から火が出るほどの恥ずかしい思いをした前土佐守の屋敷の梅の木を思い出しますが、今度は山からのものですよ」

 そんな帝の話に源氏も昔を思い出し、懐かしい気分になった。帝もやはり昔を思い出されているのか、にこやかに笑んでおられる。この日上機嫌の帝は、今や三十七歳の男盛りであらせられた。

「さ、兄君。一献」

「これは、これは」

 帝御自らの酌に、源氏は恐縮しながらも杯を差し出した。こんなことは一年に一度のこの内宴のときくらいしかない。

 帝が上機嫌なのは理由があって、この場にいるだれもがその理由を知っていた。帝にまた新たなお子ができるのである。しかも、源氏が後見となっている承香殿の斎宮女御からだ。

 その知らせを聞いたとき、源氏は持仏の前で手を合わせていた。六条御息所に孫ができることになる。一度は対の上の命までも奪いかけた執念深き女人であるが、この新宮誕生の事実で少しでも心が安らいで成仏の助けとなってくれたらと思うのであった。

 できれば、女御子であったらいいと源氏は思っていた。新たな皇子が誕生すれば、また面倒なことにならないとも限らない。すでに故前右大臣は亡いにしても、その息子たちは今や頭角を現しつつあるところだ。そして源氏自身も中宮大夫である。

 新しく生まれる皇子の母の女御の後見人として、いらぬ後宮のしのぎあいに加わりたくはない。そのためには、女御子であることがいちばんだ。皇女でも源氏がその母親の後見なら、その末までしっかりと見てあげることができる。

「失礼つかまつります」

 そこで帝と源氏の間に、真っ赤な顔をして宰相中将が割って入った。皆の座も乱れた頃である。

「申し上げます」

 帝も源氏も同時に、故前右大臣の遺児に顔を向けた。

「私めにも、初孫が生まれることとなりました」

 宰相中将は源氏に向かって、にっこりと笑ってうなずいた。その笑顔にはやはり、どことなく故前右大臣の面影があった。だがこの男も、間もなく四十の賀が騒がれる頃にさしかかろうとしている。源氏にとってこの親友の長男は妻の兄なのだから年は下でも義兄ということになるが、何よりも今は自分の長男の舅である。そしてその初孫とは……

「大納言様の御孫でもございます」

 宰相中将に言われて、源氏ははっきりとそのことを悟った。宰相中将の娘――すなわち源氏の長男左兵衛佐の妻が懐妊したのである。

「そうか」

 源氏の顔にも笑みがさし、そのまま宰相中将に酌をした。源氏はこれで、名実ともに老人となるわけである。それが今はこそばゆくもある。生まれてくる源氏の初孫は、亡き親友にとっては初曾孫となる。

「いやっ、めでたい!」

 帝の大声が、殿舎内に響きわたった。

「めでたいぞ、今日は」

 今までそれぞれにほかの歓談をしていた公卿たちも、一斉に玉座とその周辺に視線を集めた。

「我が天皇朝廷すめらがみかどと、九条家の弥栄いやさか言祝ことほげ」

 今の左大臣を「一苦しき二」としのいでいた故前右大臣の流れをくむ九条家の吉事である。左大臣家の方はその長男は夭折し、跡をとるべき次男は宰相中将と同じ三十九歳だが、まだ右大弁にすぎなかった。宰相中将は一上いちのかみの座は自分にという期待をこめてか、帝のお呼びかけに「おう」と力強く答えた。宴はさらに盛り上がっていった。

 ところが当然のこととして、苦虫をかみつぶしたような顔をしている人々もいた。老い顔にあからさまに不快感を浮かべ、隅の方で黙っていた左大臣である。一上でありながら、今のこの不遇をかみしめているようだ。さらにその弟の小一条権大納言右大将もすでに四十三歳の老齢の一歩手前にいたが、その二人はただ不快感を表しているだけでなく、刺すような目つきで源氏を見ていた。

 それを源氏は見てしまい、すべてが冷めてしまった。そして彼の頭をよぎったのは遠い昔に味わった威圧感で、亡き弘徽殿大后のあののしかかるようなどす黒い重圧と同じであった。


 源氏はさっそく二条邸に赴き、長男の左兵衛佐に祝い事を言った。長男は浮かない顔をしていた。

「どうも実感が湧かないのですが」

「そうかもしれぬな。私など二十二の時におまえが生まれたのだけど、おまえはもうすぐ三十みそじになろうというその年まで子なしだったのだからな」

 源氏は息子と向かい合って座り、笑っていた。春たけなわの風が、庭の方から吹き込んでくる。だが、源氏のその笑顔の裏には厳しい表情が隠されていた。

 分からない……と、源氏は思った。目の前にいる長男が、である。やはり女二宮のことを思って、妻の懐妊を手放しで喜んでいないのか……それとも、まさか……源氏は少しだけ、空恐ろしくなった。この息子には油断できないと感じた。何しろこの息子は、今の源氏にとって最大の政敵である左大臣の外孫なのだ。

 源氏はまた、親子の確執を微かに感じてしまった。

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