源氏の悩みは、この長男にとどまらなかった。

 ある日、帝のお召しで源氏が新しい清涼殿に伺候すると、帝が突然こうきりだされたのである。

「高松邸の女三宮は、御息災であらせられますか」

 帝や自分にとって姪であるこの宮の話題が出るたびに、源氏の胸は痛んだ。

「はあ、なんとか」

「そろそろ、裳着など考えなくてはいけませんね」

 山に入った少将の妻になるために最初に裳着を済ませた女二宮に続いて、女一宮の裳着も昨年済んだ。残っているのは女三宮だけだ。

「できれば三人ともが裳着を終えた姿を、亡き兄の院にもお見せしたかった。そして女三宮は、それを養女にした前右大臣にも見せたかったな」

 帝は少し、御直衣の袖で目頭を押さえておられた。それを見るにつけ、源氏の心はますます痛んだ。帝はまだ何もご存じない。女三宮がまだ裳着前の少女であるにもかかわらず、子をなした母親であるということもである。

 女三宮の裳着は、あくまで生娘として行わなければならない。日取りも決まり、夏を迎えてからようやくその当日を迎えた。従来は内親王ではあった女三宮だが今もまだ故前右大臣の養女のままで臣籍に降った形になっており、そのため裳着を内裏で行うのは無理で、場所は高松邸で行われた。


 当日はさわやかな晴天に恵まれ、帝も高松邸に行幸あそばされて、公卿はもとより九条家の縁者もことごとく高松邸に参集した。在世中の九条家のもので例外は山に入り今は大和の多武峰とうのみねにいる八郎前少将だけだが、その北の方の女二宮は参列していた。

 調度の御帳も御几帳も和製の装飾は全くなく、すべてが舶来の唐渡りのものであった。ほかにも納殿おさめどのの唐物も出されたがなにしろその多くは先年の内裏の火災で焼失していたので、かろうじて焼け残ったものがかき集められたという感じであった。

 腰結は、二重の意味での代理として源氏が当たった。まずは女三宮の実父で源氏にとって弟である朱雀院の代理、そして宮の養父で源氏の親友であった故前右大臣の代理である。

 腰結は宮の腰に両腕を回し、はじめは抱きしめる形になる。そのとき、源氏が感じたのは香の香りばかりでなく、一人前の女性の香りであった。少女ではなく一人の女が、源氏の腕の中にいたのである。


 裳着が終われば当然来るべきものと源氏は覚悟していたが、やはり帝が女三宮の婿君について源氏に相談してきた。それは仕方ないことで、前右大臣亡き今や帝がそのようなことを相談できるのは源氏だけなのである。

「女一宮はともかくとして、女二宮のこともありますから、せめて女三宮には幸福な人生を歩んでもらいたいのです。何しろ、兄の院が最も気にかけておられたお子ですからね」

「はあ」

 源氏は逃げ出したい気持ちだった。帝が知らずにおられることを、彼は知っている。女三宮は疵者――世間に公にできない母と子――それらは確かに不憫なことであるが、帝がそれらをご存じないことにもまた心が痛む。いっそすべてを今ここで帝に打ち明けてしまおうかとも源氏は思ったが、それによって益するものは誰もおらず、かえってすべてを不幸にしてしまうだけだと思いとどまった。

「兄君……。大納言殿。いかがなされました?」

 あまりに源氏がうつむいたまま何も言わないので、帝は妙に思われたようだ。

「あ、いえ、そのことでしたら、私も親代わりとしていろいろ考えてはおりますが……」

 今度は帝の方が、少しだけ目を伏せられた。

「内親王としての習いのままに生涯一人身であってもいとも思うのですが、あの宮の場合一応は九条家の姫となって内親王ではなくなって臣下に降っている身ですからねえ。内親王の習いを押し付けるわけにもいかないでしょう。ましてや実の父も養いの父も亡き今、しかるべき後見がなければ心もとないことになるでしょう」

「確かに私ごときものが親代わりとしてお世話していましても、何しろこの年ですから、いつ前右大臣殿と同じようになるやも知れません」

 口先では、源氏は一応帝に同調している。だが、心底では困惑しきっていた。今、前右大臣が生きていたら、そして今の自分と同じ状況になって帝から御下問を受けたら、かの親友はどのように振る舞っただろうかと源氏は考えてしまう。彼ならこの苦境を、どう切り抜けたであろう……。

「兄君。何かご妙案は?」

 そう言われても、源氏は口ごもるしかない。帝は両腕を上げて、御袍の袖を直された。

「このままにしておいても、兄君にご負担をおかけするだけですしね。だからといって、尼になんかなられたら大変です。聞けば女二宮も、しきりに尼になりたがっているとか。三人の皇女ひめみこのうちの二人までをも尼にしてしまったら、兄院に合わせる顔がない」

 この帝の思いは、源氏とて同じであった。さらに帝は、話を続けられた。

わたしもいろいろ考えたのですが、我が皇子たちはみな幼くて、婿にはふさわしくないでしょう。弟宮にもこれという人はおりませんね。名乗り出ているのもいるにはいるんですが、内親王が親王との妻になるというのもどうかと……」

 しばらくため息とともに帝は目を伏せておられたが、ふと何かがひらめいたように源氏を見据えられた。

「兄君。兄君の太郎君などは……」

「それは……」

 源氏はばつが悪そうにうなった。

「それは……滅相もないことで……」

「まだ官職は低いですが、これからどうにでもして差し上げられます」

「まだ、若うございます」

「何々、もう立派な公達ではございませんか。むしろ年が離れすぎてやしないかということの方が、気にかかる程ですが」

「しかし我が長男の左兵衛佐は今では九条家のご嫡男の婿でありますし、女三宮様は前右大臣殿のご養女でありますれば、形の上だけではございますが長男の北の方の叔母になります」

「立派な公達に少女の叔母か。では、女三宮を内親王に復すれば……」

「そうなりますと内親王降嫁ということになりますが、長男の北の方の宰相中将の娘御はどうなりましょうや」

 これには帝も口ごもられた。だが、源氏の抗弁は必死であった。だいいち、今の息子はどうも女二宮に執心のようで、そのことの可否は別としても、今このような話を持ち込んでも息子が納得するはずはないと思われる。しかし、そのことは帝には申し上げられない。

「やはり、我が長男はその器ではありません」

 そう言うのがやっとの源氏であったが、それでもきっぱりと言い放った。帝は、またもやため息をついておられた。

 源氏にとっても、女三宮という存在は頭痛の種であった。憎いわけではなくむしろ憐憫を感じている源氏だが、それがまたかえって自分を苦しめる。ましてや何も事情を知らない存在から宮のことについてあれこれ言われるのは、たとえそれが帝であっても源氏にとっては地獄の責め苦以外の何ものでもなかった。


 だが五月雨の湿った空気が盆地の底の都に漂う頃、源氏の苦悩も少しはやわらぐ時が来た。帝のご関心が、よそにそれたのである。

 斎宮女御の懐妊は順調であったが、それに加えてまたもや中宮が懐妊したのである。女御の懐妊ではなく、中宮の懐妊となると話は別で、帝はそのことばかり話題にされるようになった。

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