秋とはいってもそれは暦の上だけのことで、実際は夏の真っ盛りであった。

 強い陽射しが照りつけ、空はどこまでもどぎつく青い。それとは対照的に白い雲が中天までせり上がっている。

 左近の陣は風通しはいいが、盆地の底の蒸し暑さはこことて例外ではなかった。公卿たちも皆、笏を扇に持ち替えて扇ぎながら列していた。小野宮左大臣は身体の不調を訴えて出席していないので、上卿は老齢の本院右大臣であった。左右大臣とも六十過ぎだが、公卿の中には民部卿大納言をはじめとして七十を超えているものが五人もいる。最年少でも宰相中将の三十九歳だから、ひところに比べていかに公卿が高齢化しているかが分かる。

 陣定は東宮の元服についてであった。先に意見を述べる参議たちの中に歯が半分ないような老人が何人もいるので、源氏まで発言の順が回ってくるまでにかなりの時間がかかった。もはや若くはない源氏にとっても、それがどうにもじれったい。それに重なるようにして、暑さが襲ってくる。源氏は何度も懐紙で汗をふき、その懐紙には白粉が汗に溶けたのがべっとりとついた。

 このような老人の中では源氏はまだ若い方であったが、それでも妙に溶け込んでしまっているのが源氏自身にも怖いと感じられた。

 議は遅々として進まず、その中で源氏の頭の中は別のことで占められていた。東宮の元服となると、当然その添伏のことも浮上してくる。源氏はまた身を揉む思いだ。そんな源氏の焦りをよそに、陣定めはまだまだ終わりそうもない。

 議は翌日に持ち越しとなって散会となり、宮中を退出して西宮邸に戻った源氏は夏物の直衣に着替えさせてから妻のいる北ノ対に渡った。夏の直衣は年齢によって色が違い、源氏はすでに壮年の藍色ではなくさらに年長のものが着する浅黄の直衣を着けていた。

 もう外は薄暗くなっていた。源氏は、妻の顔を見るなりため息をついた。

「また何かでお悩みですか?」

 大病を患ってからというもの妻はまだ本調子を取り戻してはおらず、昼でも寝込んでいることが多いと聞く。年の離れた妻ではあるが、それももう四十路に手が届く一歩手前だ。

「連日の議は東宮御元服のことだけどね、朱雀院の女一宮を東宮の添伏にという帝のお考えは相当お固いようだよ」

 そう言いながら座るや否や、源氏はもう扇を広げて風を起こしていた。そしてまた、ため息を一つつく。そのそばに妻も座った。

「そうでございましょう。中宮様も前からそのようにお考えのようでしたからね」

「しかし、我が姫は……」

 女三宮と同じ年だから、もうとっくに裳着を済ませていてもいい頃である。だが、それを東宮御元服まではと延期していたのだ。それを聞いて、妻はクスッと笑った。

「そうやって殿は悩んでばかりおられて。しかもみんなお子のことばかり」

「他人事みたいに言わないでくれよ。自分も当事者のくせに」

「でも少しは、ご自分のこともお考えになった方がよろしいのではございませんこと?」

 また妻は笑った。思わず源氏もつられて笑ってしまう。

「自分のことなんて、何を考える必要があるのかね。もう先も長くないのに」

 源氏が唯一笑顔を見せることのできる場所が、この西宮邸の北ノ対屋である。またひとしきり、源氏は扇で風を自らの顔に送った。

 長男のことで悩んでも、悩んだからとて何の解決になるわけでもない。そこで別の悩みへと逃避する。その繰り返しだ。ただ、自分で進んで別の悩みを求めているわけではなく、悩みの方からやって来てしまうのも事実である。

「女二宮様も三宮様も、決して幸福とは言えないだろう。帝のお言葉ではないが、後を託された私とて朱雀院様に顔向けができない。せめて女一宮様だけでも東宮妃となって幸せになってもらいたいという思いは、私も帝も同じだ。中宮様とて同じだろう。だから、わが姫を東宮妃にと推せば、私のこの手で女一宮様の幸せを奪ってしまうことになるだろう。三人とも幸せにならなかったとしたら、それこそ朱雀院様に何と申し開きできよう」

「では、姫には別の婿を考えますか?」

「しかしそれでは、亡き入道殿のご遺言にそむくことになる。私は板ばさみだよ」

 源氏は両手で自分の頭を少しつかんだあと、そっと妻を見た。

「君から中宮様に申し上げてくれないか。すべてがうまくおくように。ふみでもいい」

 妻はゆっくりと顔を横に振った。

「いくら中宮様が私の妹でも、女が口をはさんでいいはずのことではありませんから」

 それは理屈だった。源氏は妻を理想の女性に育てすぎた。

「こんなとき、右大臣が生きていたら……」

 昨今の源氏は、それがほとんど口癖になっていた。

「殿こそ、中宮様に直接申し上げたらいかがですか。殿は中宮大夫ではありませんか」

 妻の言うことはもっともだと源氏は思った。だが、中宮に対してはあからさまに物は言えない。妻は源氏自身と山の少将以外では女三宮の出産のいきさつを知る唯一の存在であるが、中宮を含めてその他の人々は真実を知るよしもない。だから中宮に何もかもあからさまに言うわけにはいかない。しかし源氏は、今の自分の気持ちを中宮に直接ぶつけるのは上策かもしれないとふと思った。


 源氏は陣定から解放されたあと、かねてから申し入れていた中宮との対面がかない、弘徽殿に渡った。ここも材木の香りがする真新しい殿舎である。弘徽殿は源氏にとっていいにつけ悪いにつけ数々の思い出があるが、今の殿舎は当時のものではない。位置と形は昔と同じだが、今の建具や材木は弘徽殿大后も幼少の頃の朱雀院も、そして源氏が花の宴の夜にここで犯した罪も何も見ていないのである。

 今では中宮の御殿となっている弘徽殿で源氏は、身舎に入ることが許されていた。しかも直接に会話もできる。中宮大夫という身分ももちろんだが、中宮にとって源氏は亡き父の親友であり、また姉の夫でもあり、さらには自分の夫の兄でもある。つまり二重の意味で義兄であった。だがさすがに対面は御簾越しである。

 源氏は中宮に願うという形ではなく、朱雀院と自分の姫の外祖父との間で板ばさみになっている自分の苦悩を訴え、中宮の助言を請う立場をとった。

「そうですか。分かりました、大納言様のお立場も理解申し上げます。しかし」

 御簾の中の中宮は、少しばかり顔を背けてうつむいた様子であった。

「女一宮様とて、東宮妃になっても恐らくは幸せにはなれないでしょう」

 中宮の意外な言葉に、源氏は驚いて顔を上げた。

「女一宮様が幸せになれない?」

「大納言様は後宮での力を得んがためではなく、ほんに姫の幸せを願ってのこととおっしゃいましたが、たとえ女一宮ではなく御姫君が入内されても同じこと。お幸せにはなれぬと存じますが」

「それはいかなる仰せごとで?」

 源氏は思わず、御簾の近くに膝を進めていた。しばらく沈黙があった。中宮は御簾の中で、まだ顔を伏せたままのようだ。

「東宮は……普通の体ではありませんから……」

 やっと聞き取れるほどの、小さな声であった。それでも聞き取れた源氏は耳を疑った。東宮が病に伏せっているという話は聞いてはいない。

「普通の御体ではないとは」

「体と申しますか、実は……」

 何か奥歯に物がはさまったような中宮の言い方であった。

「それよりも、兄君様」

 中宮は顔を上げたようだ。口調も明るくなった。しかも源氏のことを大納言様ではなく、兄と呼んだ。

四宮しのみやになさいませ。四宮もじき加冠。その四宮のもとに入内させましたら」

 四宮は東宮の次に中宮から生まれた皇子で、いわば東宮の同母弟であり、中宮腹としては二番目の男御子だ。

「世が変わりましたならば、四宮は間違いなく皇太弟に立ちましょう。次期東宮と帝もお認めですから」

 四宮はまだ八歳である。源氏の姫の方が五つ年上となるが、世間ではよくあることだ。しかし……と源氏は思ってしまう。

「なぜ四宮様が次期東宮なのですか。もし今の東宮様に朱雀院女一宮様が入内されてお子をおもうけになって、それが男御子でしたら次期東宮は当然そちらになるのではと。四宮様を東宮にお決めになってしまっては、後々が面倒なことになりやしませぬか」

 中宮の答えはなく、そのことで源氏ははっと気がついた。

「あ、これは出すぎたことを申し上げました。ご容赦の程を」

「いえ、いいのです。実は女一宮様が入内されても、恐らく東宮に子は望めないでしょう」

「それほどまでに……」

 源氏はいぶかった。時々拝する東宮は元気そうで、とても病気には見えない。相変わらずの聡明ぶりを見せてくれている。

「東宮は、体ではなく実は心を……」

 中宮はそれだけ言うと、あとは黙った。これ以上突っ込んで聞くことははばかられると、源氏は直感した。

 清涼殿の方へと歩きながら、源氏は考えた。中宮が示してくれた姫の四ノ宮への入内は、確かに妙案だ。もし本当に四ノ宮が次期東宮となってやがて即位したら、故・入道の遺言はそれで実現することになる。そして女一宮も幸せになる。だが……

 女一宮は幸福にはなれないと中宮は言った。しかもその中宮の言い方では、東宮は体ではなく心を病んでいるという。物の怪にでも憑かれているというのか……そのあたりがどうも気になる。しかし、その辺の事情をその実の母親の口から聞き出すのは到底不可能であろう。

 今のところはまだ、宮中で東宮に関する噂はこれといって流れてはいない。中宮だけが知っているのか、あるいは中宮が知っているものに緘口令を敷いているのか……。東宮についている側近なら何か知っていそうなものだが、皇太子傳は左大臣、東宮大夫は小一条大納言でともに政敵であって、とても事情を聞けるような相手ではない。

 中宮の謎めいた言葉は気になるが、いずれにせよ姫は四宮にという路線で話を進めようと源氏は思った。そう思うだけ少しは気が晴れたが、帰りの車の中で我に帰った源氏は妻の言葉を思い出しておかしくなった。――少しは、ご自分のこともお考えになった方がよろしいのではございませんこと?――

 今は確かに子供たちのための自分になっていて、子供たちのために生きているといってもいいくらいだ。笑いはいつしか苦笑に変わった。もはや自分は自分自身の生涯の中でも、主役ではなくなっていることに源氏は気づいた。自分は脇役で、いつのまにか子供たちが主役になっている。次代を担う若者たちと思っていたが、すでに次代どころか当代を子供たちは担いつつある。そのことを源氏は嫌というほどかみしめていたのであった。

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