蝉時雨がけたたましく降る中、源氏の車はゆっくりと三条大路を東へと向かっていた。源氏の座る向かい側には喪服の少女が、大きなお腹を目立たせて源氏と向き合って座っている。

 車の中は蒸す。源氏は扇を開いて、少女に涼を送っていた。

「まだ遠いのですかあ?」

「もうすぐですよ、宮」

 相変わらず子供気が抜けず、それでいて体だけは一人前に成熟した女三宮は、あどけない表情で汗をぬぐい、

「暑い」

 と、ひと言だけ言った。まだまだ残暑が厳しい。今年は雨不足のせいで、飢饉になることはもはや確実であった。

 この日をあらかじめぼくし、源氏は女三宮に前もって高松邸への遷行を告げた時、

「また、引っ越しですかあ」

 と、宮は言った。

 これで女三宮の引っ越しは五回目となる。まずは生まれた母親の王女御の里邸から朱雀院へ、それから二条院、九条邸、坊城邸と移り、そして今度の高松邸である。高松邸は寝殿が源氏のもので、全体的にも源氏の屋敷ではあるが、現在住んでいるのは明石の上とその母の尼君で、いわば女世帯である。

 高松邸は西洞院に面した西側が正門で、そこから入って西ノ対まで、女三宮は源氏に従って扇で顔を隠して進んだ。ところが実際には、今の彼女にはもっと隠さなければならない体の一部があったが、目立つそれを隠すのはできない相談であった。

 ここではあくまで朱雀院女三宮ではなく、故前右大臣の五の君愛宮として迎えられることになっている。明石の上は西ノ対の端近にまで出て、愛宮を迎えた。二人は西宮邸での女楽で、一度顔を合わせている。同じ年の娘を持つ母親としてはじめはにこやかに宮を迎えていたが、その腹部を見るにつけやるせなさそうに目頭を押さえた。対の上と同様明石の上にも、源氏はすでにすべてを打ち明けていた。だから明石の上も自分の娘と同じ年のこの宮の身の上に、思わず切なくなってしまったのであろう。

「西宮邸の調度はしつらえてありますから、どうぞお心ゆたに」

「ありがとう」

 女三宮は、ここでも表情一つ変えなかった。西ノ対の女房は、宮が坊城邸からすべてそのままつれてきた。乳母もともにいる。さらには多くの猫たちも、ともにこの高松邸へと渡ってきた。

「面倒をかけるが、頼む」

 源氏は宮が西ノ対に落ち着いたあと北の対に渡り、明石の上に言った。

「姫を取り上げてしまっている形になっている今、その代わりにといえば語弊があるが……」

「いいえ。私、喜んでおりますのよ。寂しかったこのお屋敷も、明るくなるでしょう」

「寂しかったというのは、最近ご無沙汰の私へのあてつけかな?」

「そんな……。もうそんなことでがたがた言う年ではないではありませんか、お互いに」

 二人して声をあげて笑いながら、源氏は相変わらずの明石の上の強さを思った。そして、この人に預けておけば大丈夫と感じて、心強かった。

 過去に辛酸をなめた日々を、この女性は送っている。西宮邸の対の上も幼少の頃は北山の寺に預けられていた。源氏は自分が皇子として、そして皇親源氏として何ひとつ不自由なく育てられてきただけに、薄幸だった女性の一人一人を安定した幸福へ導くのが自分の使命なのかなという気さえしてしまう。もしそうなら、女三宮もここで必ず幸福になるはずである。

「裳着もこの屋敷ですることになるだろうから、よろしく頼む」

「ええ、お任せください」

 だが、女三宮は裳着の前に大行事がある。出産だ。出産して、その子は源氏と対の上の子ということにしてしまえば、あとは盛大に裳着を行ってしかるべき婿を探すこともできよう。

 だが、あくまで出産が先だ。そしてそれはこの屋敷の塀の中でひっそりと、極秘に行われなければならない。

 源氏は寝殿にこの屋敷の政所のすべての家司、そして女房を集めさせた。そしてこの屋敷で行われるであろう出産の儀について一切を告げ、そのすべてについて固く口外を禁じた。そして、生まれてくる子は自分と西宮邸の対の上の子とすること、本当の父親は事情があって今では仏門に入り父親と名乗れない状況であることなども、併せて告げておいた。

 人の口に戸は立てられないかもしれないが、自分の熱意を誠意を貫くことによって人々を動かし、源氏はあえてそこに戸を立てようとした。いや、立てられると確信していた。

 源氏はその晩、そのまま高松邸の北の対に泊まった。もっとも西宮邸でも対の上ともずっとなくなっていたことなので明石の上ともただ語らい、ともに同じ褥で眠っただけであった。

 その寝る前に女三宮の裳着の話が出たついでに、西宮邸にいる明石の上の姫君の裳着についても話題になった。

「そちらは、もう少しあとだな。しかるべき相手が決まってからだよ」

 源氏はそれだけしか言わなかった。それでも明石の上は、自分の内心を十分に察してくれると思っていた。何しろ、あの亡き入道の夢の話という予言めいた遺言がある。

 だが現実世界の宮中では、源氏はそのことを全く話の端にも出せないままでいる。東宮成人の暁には、左大臣側とて必ず何か策を打ってくるはずだ。そして源氏の味方であるはずの帝も、東宮妃は朱雀院女一宮しか考えていない。そこへ自分の娘をと強硬に出たら、まずは左大臣と真っ向から対立し、また帝のご機嫌をも損ねかねない。

 そうならずに帝のお許しを頂くには……源氏にはいい考えが浮かばない。所詮、右大臣のような策士ではないのだ。ただ、自分の中宮大夫という地位、これだけは利用できそうである。

 すでに隣で寝息を立てている明石の上の体の熱さを感じながら、源氏はそんなことに思いを巡らせていた。


 源氏が高松邸へ移したのは女三宮だけではなく、源氏が故前右大臣から預かった故前右大臣の日記や遺戒、そしてその父の関白太政大臣の日記抄をもことごとく高松邸に運び、政所に管理を依頼した。

 日記はともかくもその遺戒に源氏が目を通したとき、遠い幼い日の記憶が呼び戻されて、頭がくらっとするのを覚えたくらいだった。それは「日中行事」ともいえるほど、権門の貴人としての一日の生活の規範が、これでもかというくらい細かく記されていた。そればかりでなく、日常的な戒めも多い。

 右大臣としては自分の子息たちの将来のために、こと細かにここまで言い残したのだろう。この世を去ろうとしている親の、子に対する心が伝わってくる。

 そして源氏が気がついたのは、その内容の大部分が源氏の父の故院が幼かった自分に言い残していったこととほとんど同じということであった。子を思う親の気持ちは時代を異にしても変わらないものだと、源氏はあらためて認識した。

 しかし今やその右大臣の子への言葉は、すでに声なき文字のみになってしまった。


 高松邸で女三宮が出産したという知らせが西宮邸に戻っていた源氏に届けられたのは、あれから三日後であった。間一髪で間に合ったわけである。

 男の子で、母子ともに健在だという。

 源氏はすぐに駆けつけたかったが、出産の穢れに触れると参内できなくなるので、しばらくは忍んでいた。このことは宮中でも極秘であったので、出産の触穢で欠勤というのはまずかったからだ。


 その頃、秋の除目があった。源氏はもちろん期待はしていなかったが、やはり大納言のままであった。そして予想通り、六十三歳の本院大納言が右大臣に就任し、二人の従兄弟が左右大臣に並び立った。しかし二人とも老人である。源氏にはまだお若い帝と中宮がその側にあった。

 源氏のほかのもう一人の大納言には、左大臣ら一門とは遥か奈良朝の頃の分家の傍流である民部卿中納言が昇進した。あの忌々しい民部卿大納言の死後にその民部卿の後任となった人で、ついでに前民部卿大納言の死によって公卿で最高齢となった。三位であることは源氏と同じだが、何しろ左大臣や新右大臣よりも年長の六十九歳という高齢だ。

 源氏ももう四十七歳で自分の老いを感じていたが、こういう人たちと接すると自分はまだまだ若いと自信を持つことができた。

 ほかには、左大臣側の小一条中納言が権大納言となった。右大将はそのままである。しかもこの男が東宮大夫であるということが、源氏の娘の東宮妃入内に暗い影を投げかけていた。

 源氏の味方といえば、桃園権中納言が権職から正規の中納言になったことくらいだが、それでもまだ弟の小一条新権大納言に後れをとっている。

 だが、頼もしいことに、故前右大臣の長男の頭中将が参議の列に列せられて宰相中将になった。彼はすでに三十七歳で、その昇進は亡き朋友の遺児というだけでなく、彼が自分の長男の舅でもあるので源氏にも喜ばしかった。

 思えば源氏が最初の妻、すなわち今の左大臣の娘と結婚したとき、舅の左大臣はちょうど宰相中将であった。源氏の場合はその舅と不幸な関係になって今に到っているが、息子にはくれぐれもそうはなってほしくなかった。


 高松邸で生まれた若君に関してはことが極秘となっているため、産養の儀もかなり簡略化されて執り行われ、そして五十日いかの日を迎えた。もちろん、客を招いての大々的な宴は行わない。

 この日、源氏は高松邸に渡り、若君の母親の女三宮、その女三宮の実質上の養母のような形になる明石の上、そして若君の名目上の養母となる対の上もその儀に列した。すでに乳母も決められている。秘密を守れる誠意のある人でなければならなかったので、その人選は困難を極めた。

 祝いの膳も、質素なものであった。同じ屋敷の中でも、この西ノ対屋の一室以外では全く日常の生活の時間が流れる普通の日であった。

 明石の母の尼も、遅れて渡ってきた。祝いの席に尼姿など不吉だといって遠慮していたのだが、女の子ならいざ知らず男の子だから気にすることはないと源氏が呼びに行かせたのである。

 この席でも母になった女三宮は、おっとりとして無表情で座っていた。母になった喜びも自覚も、どこにもないようにしか思えない。要は子供が子供を生んだのである。

 源氏は若君がある程度育ったら乳母ともども北ノ対に移して、明石の上に育てさせようと思っていた。残酷なようではあるが、この子と女三宮は生涯母子の名乗りはできないのだ。ましてやこの子は、父親とは生涯会うことはないであろう。

 源氏は初めてその子を抱いた。これでも生まれたばかりの頃よりは、だいぶ大きくなっているはずだ。表情は全くない。時々一人笑みのような顔をするが、まだ本当に笑っているわけではない。あやせば笑うようになるのは、あとひと月くらいたってからだ。源氏の手の中の赤子は、まさしく泡のようなものであった。色は白く、発育はいいようだ。だがその顔に、源氏はふと出家した右少将の面影を見てしまった。やはり似ている。それを思うとまた切なくなって涙がこぼれそうになったが、祝いの席での涙は不吉と慌ててそれを隠そうとした。

 この子は何も知らないのである。これからも何も知らずに育っていくであろう。本当の父のことも、母のことも……。

「汝が父に似るなかれ……」

 源氏はふと腕の中の子に向かって、白楽天の詩の一節を口ずさんだりしていた。だがその思いは、すぐにかき消された……この子の父は自分なのだと、そう自らに言い聞かせたのである……自分の子として、源氏の三男としてこの子は育つ。腕の中にいるのは自分の子なのだ……そう思うと急に、源氏にはこの子がいとおしくなってきた。亡き弟の朱雀院の遺児と亡き朋友の遺児の間に生まれた子を今、自分の子として抱いていることに源氏は不思議なえにしを感じていた。

 源氏は目をあげて、そばにいた乳母を見た。

「こんな赤子にも、香を焚いているのかい?」

「いいえ。そうではないのですよ。実は生まれたときからこのお子さんは、自然といい香りを発しますので、皆で驚いておりましたところです」

「おお、それは不思議な」

「ですから、私どもはかおるの君様とお呼び申し上げているのですが」

「薫……か」

 この美しい子の幼名としては、ふさわしいかもしれない。この子の未来には何が待っているのか、源氏は気になった。策士の右大臣の血をも引き、また幼い頃より聡明さをたたえられた右少将の子でもある……違う! この子は自分の子なのだ! ……源氏は心の中で絶叫した。

 突然、子供は泣き出した。泣いているといっても赤子の場合はそれは感情ではなく、何かを訴えるだけの記号のようなものである。

 源氏はそっと赤子を乳母に返した。

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