源氏は坊城邸を辞すと、その足で九条邸に向かった。女二宮と違って三宮はまだ裳着前の童形なので、御簾なしで直に会える。

 やはり女三宮も泣いていた。いや、源氏の顔を見たら急に泣き出したといってもいい。童形の墨染めの汗衫かざみという姿には全く似つかわしくなく、その腹部は臨月であることを十分に主張していた。

「お気分はいかがですかな」

「源大納言様……」

 宮は源氏の直衣の袖をとらえて放さず、それで涙をふいていたりする。源氏はのびつつあるその黒髪を、そっとなでた。なりは童形でも、どきっとするほど大人だ。同じ年の自分の娘よりも、はるかに女であった。そればかりでなく、先ほど訪ねた姉の女二宮よりも、明らかに女として成長している。しかし体ばかり大人でも、心はやはり姉よりもはるかに子供であった。

「この間、お兄さまがいらしたんです」

 思ったとおりであった。少将は山に登る前に、ここには来ていたようだ。

「入ってこないで庭に突っ立ってるから、どうして入ってこないのって聞いたら、お兄様、泣いてたんです。急いで行かなくちゃならない所があるって、それだけ言って……」

 またもや女三宮は泣き出した。源氏さえもが、目頭が熱くなってきた。

「私、尼になる!」

 突然宮が言うので、源氏は思わずその顔を見てしまった。

「尼って、髪を切って?」

「ええ、お兄様の奥様からも、お文を頂きました、北の方様も尼になりたいって」

「え?」

 先ほど女二宮は、全くそのようなことは言っていなかった。考えて見れば、その「お兄さま」の「奥様」が自分の実の姉であることは、この子供はまだ知らないのだ。その女二宮が出家をというのは、無理もないことかもしれない。しかし、間もなく子を生む女三宮まで尼になってしまうとは……。

「それで、私も尼になりたので、一緒になりましょうってお返事を書きました。尼になってもお兄さまとは同じ山には入れないけれど、せめて麓まで行ってでも。でも、それも難しいんですって」

 ずっと女三宮は目を伏せて、そして時々鼻をすすりながらしゃべっている。源氏はそんな体を、そっと抱きしめてあげた。温室の中で育てたような自分の娘とは違って、この宮は同じ年なのになんと世の中の辛酸をなめてきたことか。

「……いずくにも かくあさましき 浮き世かは あなおぼつかな だれに問はまし……」

「それは?」

「お兄様の奥様のお歌です」

 心の絶叫が聞こえるようなこの歌に、宮はすっかり共鳴してしまったのであろう、完全に暗誦してしまっている。そして宮も、自分の歌を口にする。


  なぞもかく 生ける世を経て 物を思ふ 

    するがの富士の けぶり絶えせぬ


「そんなふうには考えないで。若い人がそんなことで尼になったら、必ずあとで後悔しますよ」

 源氏はたしなめてはいたが、もしここで女三宮が本当に尼になってくれたら、すべてが丸く解決すると心の片隅でふと思ってしまった。

 だがもう一度その黒髪をなでているうち、この黒髪をばっさり切ってしまうのはやはり惜しいと思った。

 それだけでなく、亡き朱雀院のお言葉が胸に響いてくる。今際いまわきわに三人の皇女ひめみこを頼むと院は言われ、自分はそれを引き受けたのだ。

 女一宮は東宮妃となるべく、何不自由なく育っている。先日の女房歌合の州浜も、左右のそれぞれを藤壺中宮と女一宮に帝から下げ渡された。

 しかし、そのほかの女二宮と三宮の、託された三皇女の二人までをも若い身空で尼にしてしまったら、朱雀院に何の面目が立とう……源氏はそう思いながらも、西宮邸に戻ってすぐに源氏は西ノ対に渡った。

 対の上に少将の突然の出家や兄を慕っていた愛宮も尼になりたがっていることなどを告げると、やはり妻は目を吊り上げた。

「いけません! あんな幼い子が尼になんて! 本当なら私がなりたいと思っていたのに、それさえ殿はお許し下さらなかった。ましてや、あんな幼い方が……。仮にとはいえ、愛宮は私の妹なのですから、私は許しません」

 そう言って対の上は、女房に紙と硯を持ってこさせた。

「どうするんだ?」

「愛宮に、ふみを書きます」

 対の上は、すらすらと紙の上に筆を滑らせていた。

「何を書いてるんだい?」

 源氏がのぞいて見ると、かなり長い手紙であった。


――最近、いかがお過ごしですか。いろいろとたてこんでまして、お便りも差し上げられませんでした。どんなにか物思いにふけっておられることかと存じます。比叡山やまからは、何か音沙汰はありますか? 女の身では行くに行かれない所ですものね。不吉にも尼になろうなんておっしゃっているって、本当ですか? 決してそんなふうにはお考えになってはいけません――。


 そこまで書いて対の上は一度目をあげ、最後に歌を書き付けてその歌を口にした。


  うらみこし そむかまほしき 世なりとも 

    みるめかづかぬ あまになるなよ


 その日のうちに、女三宮からの返し文は来た。十一歳にしては見事な筆跡で、故前右大臣の行き届いた手ほどきのほどが察せられた。こちらも長い手紙であった。


――お手紙、とてもうれしく拝見しました。こちらからお手紙さし上げたかったのですが、お忙しい中を姉上様からお手紙くださってとてもうれしく思います。お姉さまのところにも参りたいとは存じますけれど、毎日物思いにふけっております。比叡山やまからは手紙は来ますけれど、お姿をお見せしないのは、お兄様はもう浮世へは帰るまいというお心からでしょうか。私も尼になりたいと思いますけれど、この世への未練も断ち切れず、まだ決心がつきかねております――


 そして最後に、歌もあった。


  あまならで それにもしほは たるれども

    うきめかづく とまたはなるべき


 二人でそれを読みながら、二人ともため息をつく源氏と対の上であった。源氏にとってはようやく人生にも落ち着きを感じ、静かに余生を楽しもうと思っていた矢先であったのに、静かどころか今また彼を懊悩の底に突き落とすような出来事が昨年から今年にかけて自分を次々に襲ってくるのを感じていた。

 とにかく、女三宮を何とかしなければならない。そして今や何とかできるのは唯一真実を知る自分しかないと源氏は思うのだが、何をどうしたらいいのかとなると全く考えが浮かばなかった。

 対の上もまだ何も知らない。女三宮が懐妊していることすら、まだ話してはいなかった。話せば衝撃は大きいだろう。自分の異母弟と仮の妹の間でのことだ。


 源氏は苦しんだ。宮中に出仕しても、そこには異様な雰囲気が漂っている。左大臣がじわじわと、その実権を伸ばしていたのだ。

 今までの宮中は右大臣一辺倒で、源氏もその温室の中にいた。今や温室の外に放り出された源氏は、この年になって世間の寒風にさらされようとしている。かろうじて帝と中宮のお蔭で微妙な均衡が取られ、表面上だけは平穏な状況となっているが、毎日参内するたびに少なくとも一日一度は針でちくちくと身を刺されるような思いを味わせられて帰宅する源氏であった。


 そのうち、梅雨は経ないで一気に夏になってしまった。雨が全く降らず、今年の水不足米不足もますます深刻化しそうである。ところが源氏にとってもっと深刻なのが、女三宮の出産であった。すでにいつ生まれてもおかしくない状況になっている。このまま主のいない坊城邸で出産したら、すべてが明るみに出てしまう。とにかく何とかしなくてはならない。

 そのうち宮中で、山に登って出家した右少将に綿物を送ろうという話が、少将の姉である中宮を中心として持ち上がった。実際にはそのようなことはあるまいが、比叡山の上は夏でも寒かろうと人々は思っていたようだ。比叡山という別世界に対する人々の、特に女の認識はその程度のものだったのである。

 その話が西宮邸にも持ち込まれ、対の上も一着送ることになり、西ノ対には女房たちが集められて華やいだ雰囲気になった。何しろ彼女らは、黙って手を動かしたりはしない。ああでもないこうでもないと時にはおしゃべりの方に夢中となり手のほうは留守となって、本当に縫っているのかどうだか疑わしくもなる。さらには、どこを縫い違えただの左右が合わないなどと大騒ぎで、どっと笑い声が上がったりした。

 源氏もこのごろは宮中にいづらいので、昼ごろには早々に帰宅していたが、縫い物に遠慮して寝殿で時を過ごしていた。それでも女房たちの談笑の声はこちらにまで聞こえてくる。

 ある日の夕刻、源氏は昼間庭を見ながら考えていたことを胸に、西ノ対に渡った。もう女房たちは帰って、対の屋には妻といつもの女房しかいなかった。

「どうだね。うまくいってるかね」

 文机に向かっている妻に声をかけると、妻は少しだけ顔をあげたが、すぐに机の上に目を落とした。

「少しだけお待ちになって」

 それから妻は筆を置いて、源氏の方を見た。

「出家したといっても若い人ですから墨染めという感じではなくて、青に染めた袖と山吹色の袿、青鈍の綾の指貫さしぬきあわせの袴を縫わせてますの」

「それは?」

 源氏は微笑みながら、文机の上の紙を見た。

「歌など添えようと思いまして」

 対の上が差し出す文には、今できたばかりであろう歌があった。


  君がため たちぬひたれば 露ぞそふ

    都の野辺の 苔のきぬには


 源氏はそれを返し、目を伏せた。大きく息をついてから、妻を見た。妻はもう一度、自分の書いた歌を見ている。その横顔を、源氏はじっと見た。

「どうしたのです? 気持ち悪い」

 妻は笑ったが、源氏はまじめな顔のままだった。

「実は女三宮、いや愛宮を、私が引き取ろうかと思ってね」

「まあ」

 妻の顔は、さっと輝いた。

「私も気になってましたのよ。尼になるなんて言ってましたから何とか思いとどまらせようとしましたけど、でもこのまま一人でずっと暮らさせるのもおかわいそうで。何しろ仮にとはいえ、一応私の妹ですもの」

「実はその愛宮のことなんだけど、亡き右大臣が愛宮のことである決心をしていてね」

「父上が?」

「私は、その遺志を継ごうと思うんだよ」

「引き取るのは、私も賛成。あの斎宮女御様と同じで、宮は本当は殿の姪御ですものね」

「右大臣はね」

 明るい対の上とは対照的に、源氏は重くため息をついた。

「右大臣はね……実を言うとね……右大臣の遺志とはね……愛宮と養女の縁組みを解消して内親王の女三宮に戻して、あらためて内親王降嫁という形で宮を自分の妻にしようと思っていたんだよ」

「え、ちょっと待って。今、なんて?」

「君の父上が、愛宮を妻にしようと……」

 とっくに対の上の顔から、笑みは消えていた。

「それって、どういうことです? 父上が……信じられない」

「最後まで聞いてくれ。それには、わけがあるんだ。実は……」

 源氏はまだ室内にいる女房を気遣って、対の上にだけ聞こえるように声を落とした。

「女三宮は、懐妊しているんだ。しかも、もうそろそろ生まれる」

「ええッ! えーッ! だって、宮はまだ……。あのう、まさか父上が……」

「いや、それは違う!」

 源氏はきっぱりと言ったが、対の上はそれでも詰め寄ってきた。

「では誰? 誰なのですか? その生まれてくる子供の父親は」

 源氏は目を伏せた。ほんの少しの沈黙のあと、意を決したように目をあげた。

「言わない方が、いいのかもしれない」

「いいえ。言ってください。ご存知なんですね」

「驚かないかい」

「ええ」

「山の上の……禅師だ」

「そんなッ!」

 しばらくはぽかんと口を開けていた対の上だったが、すぐの文机の上に泣き崩れた。

「そんな、恐ろしいことが……。だって、愛宮とは仮にとはいえ兄妹でしょ! しかも、まるで本当の兄妹のように仲良かったのに……」

 泣きはらした目で、しばらくしてから対の上は顔をあげた。

「許せない。あんな人が、私の弟だなんて、恥ずかしい」

 そして今自分が書いたばかりの歌を、対の上はつかもうとした。だが、源氏が瞬時にそれを取り上げることの方が早かった。

「せっかくの歌を、破くのかい」

「だって!」

「いいかい。君の父上は本当のことを知っても、自分の息子を決して叱りも責めもしなかったんだよ。それどころか、ただただ申し訳ないっていって泣いてたんだ。その父上の気持ちを汲むべきだよ。姉である君がここで事を荒立てたら、父上のお心が台無しになってしまうじゃないか」

「父上……」

 対の上は、また声をあげて泣いた、その背中に、源氏はそっと手を置いた。

「少将が悪いんじゃないんだ。もちろん愛宮が悪いわけでもない。実は右大臣が病床にあるとき、物の怪が現れてね。私もその場に居合わせたんだけど、すべてが物の怪のなせる業だったと白状したんだよ」

「そんな」

 対の上は泣くのをやめて、体を少しだけ起こしたが、視線は文机の向こうの床にあった。しばらくそのまま動かずにいた対の上の体が、小刻みに震えだした。

「恐ろしすぎる……」

「女三宮は右大臣の五の君の愛宮のまま、私が引き取る。で、高松邸に入れようと思う」

「え? こちらではなくて? 私のかわいそうな妹ですから、こちらで私が……」

 赤い目をあげた対の上の顔は見ずに、源氏は立ち上がった。

「私も実はその方がいいとは思うんだよ。しかし、ここには宮と同じ年の私の次郎がいる」

「そんな……。自分の息子が信じられないのですか?」

「右大臣とて自分の息子を信じていただろうよ。しかしその隙を、御霊につかれたんだ。息子を信じないんじゃなくて、御霊が恐いんだよ。御霊に隙を与えないためにも、宮は高松邸に入れた方がいい。あちらには明石の上がいるしね、よく面倒を見てくれるはずだ」

 確かに高松邸は、入道亡きあとの西ノ対が空いている。明石の上の母は尼になって、今では明石の上と同じ北の対に移っていた。

「ちい姫がこちらに来てから、あの人も寂しいだろ。だから姫と同じ年の宮と生まれてくる孫のようなお子を、彼女がかわいがらないはずはない。ただ、君にもひとつ頼みたいことがあるんだが」

 源氏はまた、対の上の前に座った。

「右大臣は生まれてくる子供を、自分の子として育てるつもりでいたんだ。私が彼の遺志を継ぐって言ったのは、そのことなんだよ。私も、生まれてくる子は私の子ということにしたいと思う。もちろん、私と君との子だよ。承知してくれるね」

「それは、喜んで。でも……殿と二人で静かな余生を送りたかったのに、いろいろと波風が立つんですね。でも、とんでもないことをしでかしたのは私の弟なのに、殿はお優しい」

「人を恨んでも仕方ないしな。私は御霊の怨みと執念を、嫌というほど見てきた。ここでわれわれが人を恨んでも、その念が御霊と波調が合って、そうなるとますます御霊の思う壺にはまっていく。これからは君の妹と、生まれてくる子のことを考えてあげようじゃないか」

「はい」

 源氏は対の上が弟のために書いた歌を丁寧にたたんで、対の上に渡した。

「これは、届けてあげるんだな」

「はい」

 今は従順になって、対の上はうなずいていた。


 やがて山の上から、返しの文が来た。源氏の言ったことは理屈では分かっても、それでも対の上は見る気になれないらしく、代わりに源氏が読んだ。


  そはりける 露もたえせぬ 苔のきぬ

    いとど涙に ぬれまさるかな


 もうこれで、右少将のことはいい……恩讐の彼方に消え去った存在となった……と、源氏は思った。

 だが、俗世に残されたもののために、源氏は天機を伺った。清涼殿で帝の御前に伺候し、女三宮を引き取ることを申し出たのである。

 ただし、懐妊のことや生まれてくる子のことは一切伏せておいた。山の上の少将にどんな勅勘が及ぶかもしれないからだ。

「いやあ、あの女三宮のことは、わたしにも考えがありまして」

 何もご存じない帝は、容易にお許しにならない。

「兄君はかわいき姪とおっしゃいましたが、兄君にとって姪ならわたしにとっても姪」

 たしか亡き朱雀院も、今の斎宮女御のことで同じようなことをいっておられたのを源氏は思いだした。

「しかし、うえ。早く何とかしないと、尼になってしまわれますぞ、宮は。私にしきりにそのことばかり言われていますから」

 斎宮女御のときも源氏は朱雀院に対して強気に出たが、今はもっと別の深い事情がある。本当は尼どころの騒ぎではなく、女三宮は普通の体ではないのだ。

「ちょうど中宮とも話しておりましたが、宮はわたしの姪であると同時に中宮の仮の妹ですから、やはり宮は中宮に引き取らせようと」

「いいえ」

 源氏は引かない。引けない事情がある。

「何としても、私に」

「ううん、どうしようかのう。宮中に引き取ると言っても中宮と意見が合わずに困っていたところに、今度は兄君までが……。わたしは内親王に戻して宮中に住まわせようと思っていたのだが、中宮は右大臣の五の君のままで自分の妹として里邸に引き取るという。そして今度は兄君だ」

「お悩ませ申し上げて申し訳ありませんが、朱雀院様がかの宮のことを直接お委ねなさいましたのは、はじめは私にでございました」

 遂に切り札を源氏は出した。帝はお笑いになった。

「兄上も頑固ですな。それを言われましたら、わたしは弱い、引き下がるしかありませんな。どうぞ、兄君のお心のまにまに」

 帝はまだ御本意ではなかったようだが、源氏は胸をなでおろした。これですべてはばれずに済む。昨夜一晩仏前にて誦経してから、この日内裏に向かった甲斐があったようだ。

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