5
源氏にとって小野宮邸という存在が、これまでになく複雑微妙なものとなってのしかかってきた。
さらにそこは妻の実家で、妻はまだそこに暮らしている。妻を二条邸に移すかあるいは源氏自身が小野宮邸に住みついて夫婦が同居するという状況には、とてつもなく及ばないのが現状だ。
ただ、契りを結んだ二の君は宮中にいて、父の邸つまりこの小野宮邸内にはいないのが救いだった。
それでも妻はあの姫の異母姉である。自然とその妻の元へは足が遠のいてしまうのも、仕方のないことだった。母が違うとはいえその妹と関係したことで、どうしてばつの悪さも感じないで妻の元へ通えよう。
ところがどうしても行かないわけにはいかなくなったのは、五月も末の頃…かなり暑くなり、梅雨明けの蒸す時節であった。
舅の宰相中将が
舅は上機嫌だった。妻であった故本院大臣の娘に対する三ケ月の喪も明け、喪服を脱いだ直後の叙階だった。前任の中納言右衛門督は亡くなったのは春の叙目のすぐ後であったし、しばらくその席は空席だった。宰相中将の喪が明けたということで、彼が早速任ぜられたのであろう。
源氏は宮中から戻るとすぐ、昼下がりに小野宮邸を訪れた。昼だと寝殿から庭越しに、稲荷明神の小山の杉林がよく見える。
「いやあ、昨年の大嘗祭といいこのあいだの桜花の宴といい、源氏の君の舞いは見事なものでございますな。先代の御時から考えましても、詩も楽も舞いもこれほどに充実した宴は久々でございましたよ」
「恐縮です」
源氏は誉められても、何の感興もなかった。もちろん嫌ではない。いや、やはり嬉しい。嬉しいが彼としては特別に繕ったこともなく、ただあるがままに自然に舞っただけだからだ。
すぐにまた酒肴が供せられる。それがひととおり終わると、舅は娘の所へと促すに決まっている。今までならそれが気が重く酒もそのせいで苦かったりしたのだが、今は妻の妹との許されぬ縁、禁断の恋に苦しんでいる。酒を勧めているのは、その姉妹の父親なのだ。源氏は今までとは別の意味で、それでいて今までと同じく苦い酒を飲むのだった。
「博士たちも、なかなか達人がそろっておりますこの頃ですからね。よき師匠におつきになったのでございましょうな」
源氏はうわの空で返答もせず、ぼんやりと自分が座している畳の前の木の床を見つめていた。
「どうしました? 源氏の君」
はっと我にかえると、慌てて彼は舅・宰相右衛門督を見た。
「あ、いえ。あの舞は格別稽古をしたわけでもないのですよ。ただちょっとかじっただけでして。それより弟御の頭中将の柳花苑こそ、見事なものであったではありませんか」
言ってしまってから源氏は失言に気づいた。宰相右衛門督が黙ってしまったからである。
「弟とはずいぶん、懇意になさっているご様子ですな」
そう吐き捨てるように言う舅の顔には、明らかに不快の色が見えた。
暗くなってから、案の定西ノ対にと促された。女房たちが一斉に「おかえりなさいまし」と言う。だが、妻の姿は見えなかった。
「奥方様は御気分がすぐれぬとかで、
長老格の女房が、すまなそうに頭を下げる。源氏は立ったまま、ため息をひとつついた。
「ほんに、申し訳ございません」
「もうよい。そなたたちが悪いのではない」
源氏は部屋の中央の、脇息のある畳の上に座った。
「下がってよい」
女房たちが下がると、西ノ対の母屋には源氏一人が残された。脇息によりかかり、もう一度ため息をついた。塗寵の中に、確かに妻はいるだろう。しかし立っていってその妻戸を明ける気には、源氏はなれなかった。
だからといって、何もしないで座っているのは退屈である。ふと部屋の中に妻の琴があるのが目にとまった。源氏は、琴をかきならすことにした。燭台の火ひとつの暗闇に、源氏の瓜弾く琴の
いくら何でも腹立たしい。妻への反感が許されざる恋への炎を源氏の中で、余計に燃えあがらせた。
いつしか自分の足が貧乏ゆすりをしていることに気づいた源氏は、燭台の火を消して一人で几帳台の中に入った。しばらくは
だがもう、限界だった。帰ろうと思った。ここにはこれ以上いられない。夫が通ってきたのに、けんかをしたわけでもなく妻が塗篭から出てこない……こんな屈辱はあろうか。
だが、宰相右衛門督に帰るなどとは言えない。ここはこっそり抜け出すしかない。
静かに立ちあがり、
よしんば妻や女房たちがそれに気づいたとて、庭へ
妻の自分への仕打ちへの腹いせにという意味での行動でもあった。
月はない。手さぐりで源氏は床下を伝って寝殿の方へ行った。寝殿の格子は暑いせいかまだ下ろされておらす、御簾の中から微かな光が洩れて見えた。舅はまだ起きているようだ。そのまま寝殿の中央の階段の前を横切って、東ノ対屋へと向かう。東ノ対は格子が下ろされていた。
庭の砂砂利の上を裸足で歩くのに限界を感じた源氏は、おもむろに東の対の階段から簀子にあがった。
「まあ、小君。もう夜も更けておいでですし」
女の声だ。誰かに何かを説得しているようだ。
「嫌だ。元服したらもう、御簾の中には入れてもらえないっていうじゃないか。もう少し物語などしたいんだ」
男の子の声がした。東ノ対には人がいる。もちろんいてもおかしくはないが、それが誰であるかはこれまで源氏は知らなかった。いつも東の門から入り、寝殿に行くのにこの東ノ対の簀子は通っていた。だが、この建物に誰が住んでいるのか、今まで気にも留めなかった。
「そんな、わがままを申されずに」
「ぼくより年上だからって、そんないばらなくたっていいじゃないか」
「いばってはおりませんよ」
「ぼくは年下だけど、叔父なんだぞ」
源氏はふと意識を止めた。
舅に男子は三人いて、十五歳の太郎君も、そして次郎君もまだ元服前の童形である。三郎君はまだ幼児だ。だから次郎君あたりがこの東ノ対に住んでいて、女房にたしなめられているのかと最初は思った。
だが、少年は女に向かって自分が叔父だとか言っている。つまり相手の女は女房ではない。
しかもその声に、源氏は明らかに聞きおぼえがあった。いや、聞き覚えどころかここ数日胸を焦がして恋い続けた人の声を聞き間違えるはずはない。
源氏はそっと格子を少し上げてのぞいてみた。
少年がひとり、喪服の姫の前でだだをこねている。
間違いなくあの二の君だ。宮中から下がって来ていたのだ。源氏の胸は潰れんばかりに、鼓動が激しく波打った。
少年は年の頃十三ぐらいだろうか。姫に自分が叔父だと言っていたから、宰相右衛門督の子ではない。母方の叔父なら故本院大臣の子――それはあり得ない。本院大臣が亡くなったのは二十四年前だ。父方の叔父だったら左大臣の息子、舅の宰相右衛門督や頭中将の弟――これなら可能性はある。
「分かったよ。もう、来ないよ」
ちょうど自分が元服前に、藤壺の宮にたしなめられていた様子と同じだった。そんなことを回顧していた次の瞬間に、妻戸が激しく開かれた。
まずい――!
源氏は慌てて簀子から飛び降りた。
「誰かいるのか!」
少年のかん高い声が追ってきた。源氏は急いでで庭の闇の中に姿を消した。しかし、間違いなく見られてしまったに違いない。
今の童は?――と、源氏は姫に尋ねたかった。しかし今は具合が悪い。誰かが垣間見ていたなどという少年の報告を受けて、姫の父である自分の舅が来たりしたらおしまいである。なにしろ入内予定の姫だから、親としても神経をとがらせているであろう。とにかく今日は、ひとまず退散の源氏であった。
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