6
六月に入って諸陵の寮舎が失火による火炎ですべて焼失するなどという事件もあって、中将としての職も多忙を極めてきた。それに加えて例年にない暑さで、源氏はうだって二条邸へ戻る毎日だった。とてもとても小野宮邸へという気は起こらない。
せめて秋風が立つ頃にとは思うが、そんな彼の気持ちを滞らせるのが自邸の西ノ対の姫君だった。
確実に成長している。ただそれだけでなく、源氏の与える教養、才芸をもどんどん吸収して、ますます生い先が自分にとっての理想の女になっていくのではないかと思えてしまうのだった。
「あ、お兄さま、今日は風が強くて手習いの紙が飛ばされてしまいまして」
源氏は西ノ対に渡りしなに源氏を見て顔をあげた姫の目を見た時、思わすときめきを感じてしまった。
敢えてそれを抑えて、源氏は姫の脇に身をかがめる。
「ずいぶん上達したね。あとは歌などを自在に書けるようになれば、一人前の姫君だよ」
「まあ、私もう一人前のつもりよ。いいわ、今度お兄さまに歌を贈って差し上げますから」
姫からそう言われても何かままごと遊びのようで思わす源氏が微笑んだ時、またもや室内を突風が駆け抜けた。
「格子を下ろしてしまえ」
源氏は女房たちに言いつけたが、暑い、暗くなるなどと口々に言って女房たちはなかなか腰をあげない。仕える女房たちが気ままにこのようなことを言うのを許しているのも、おおらかな源氏の人格から出た風潮であった。
翌日出仕すると、左近衛府全体がざわめきたっていた。
「源氏の中将様。昨日の
少将があわを喰ったように、源氏につめ寄ってきた。
「それは聞いておる」
「いや、それがですね」
瓦屋根、朱塗りの柱の殿舎の入り口での立ち話だ。ここは内裏とは違って
そんな畳に源氏は沓を脱いであがって座った。帳机がその前には置かれていた。
「
少将が源氏の脇の、石敷の上にしゃがんで囁いた。
「西の方角で兵乱がある前兆だとか申しましたそうで」
「兵乱か」
源氏はつぶやいた。
「兵乱なら、わが近衛府の職掌の範疇ではあるまい」
「それはそうですが」
源氏は目の前の、開かれている朱塗りの大扉をぼんやり見つめて思っていた。
兵乱――今、自分の心の中にも兵乱が起きているのだよ――
「西の方と言えは、海賊ですな」
少将の言葉は、源氏の耳に入っては反対の耳にぬけていた。
それどころではない。この時の源氏はある決心を固めていたのである。
今宵こそ、かの姫君の元へ忍んで行こうと。
姫は宮中から退出しているらしい。それだけに、姫の元に忍んで行くということは同時に自分の妻もいる屋敷へ忍んで行くことになる。前代未聞のこの通いの手筈を、源氏はあれこれ考えていた。
ますは
源氏はことのすべてを、惟光にだけは打ち明けた。さすがの惟光もこれにばかりは、少し渋い顔をしていた。
「どのような姫の元に通おうと、それは結構なことだとは存じますが……」
奥歯にものがはさまったように、惟光は目を伏せた。しかし彼はただの
「その姫はまずうございます。北の方様の妹御で、しかも大后様が帝へ入内させようとなさっている方なんて」
「説教は聞きとうないわ。嫌ならばよい。良清に頼むだけだ」
「ちょっと待って下さい」
制しておいて惟光は、ひとつため息をついた。
「ゆめゆめ御他言なさいませぬように」
「分かっておる」
「しかし、いったいどうやって。せめて東ノ対の女房の誰かに渡りがついているのならまだしも」
通い慣れた屋敷へ、別の姫への文使いとなる。こんな困難なことはない。
「あの邸では、私も顔がわれておりますし。こうなりましたら、投げ文しかございませぬな」
通い慣れた屋敷、顔がわれている――それらを利点にしてしまおうというのだ。源氏は扇でピシと、自分の膝を打った。
「そなたに相談してよかったよ」
さっそく源氏は歌をしたためた。ひとつは妻へ、そしてもうひとつはあの二の君へ。
もろともに 見んひともがな ひとりのみ
をればかひなき 常夏の花
あたりさわりのない歌を妻のために書いたあと、姫への文を時間をかけて源氏はしたためた。
限りなく 燃ゆる思ひの 中にだに
見えもせなくに 我いかにせん
紅の初花ぞめのとこそ」
古歌まで引用した。「思ひし心われ忘れめや」と続く歌の一節である。そのあとに実名で署名しようかとも思ったがやめた。あとあとの証拠にでもなってしまったら面倒だ。これで姫が察してくれなければそれまでだ。初めての晩、姫が名を告げてくれなかったのと同じだと源氏は思っていた。
惟光は源氏の文使いとして、小野宮邸へ入る。当然西ノ対の源氏の北の方への文使いと誰もが思うであろうし、惟光もそれを装って入りこむのである。
まずは西ノ対の女房に直接に渡すようにと
あとは女房ではなく、姫が直接それを拾ってくれるかだ。源氏はすべてを運に任せることにした。
「文を間違えるなよ。このような時に二つの文を間違えて騒動になるなんてことが、よく物語などにはあるからな」
「え、源氏の君様は、物語なんてお読みになるんですかあ」
惟光は笑ってから、出かけていった。
夕刻前には惟光は戻り、すべてがうまくいったと言った。それまでの間、源氏は今はまだ充分引き返せると思っていた。惟光が失敗したとなると、それこそ姫との仲はこれまでという天の声だと悟りそれに従うつもりでいた。
しかし惟光は源氏の文を無事届けることに成功したと報告してきたばかりでなく、一通の文を持ち帰っていた。
「文を投げ入れて戻ろうと渡殿までまかりましたる時に、ある女房に託けられまして」
惟光がいう手紙を開いてみると、女の筆跡があった。妻のとは違う。
なかなかに 燃ゆる思ひの あればこそ
こがるるわが身も 君がまにまに
明らかに二の君への歌の返しだ。これを惟光へ渡すよう女房に託したとなると、気のきいた女房へは自分のことを打ち明けたのだろうか。そうなると話は早い。姫が信頼して打ち明けた女房なのだから安心できる人であろうし、通う手引きができたも同然だ。
暗くなってから源氏は、小野宮邸の門をくぐった。朝になったら迎えに来るように言い付けて車は返し、徒歩で中へ入った。
「姫様より伺っております」
案内に出た女房が源氏の耳元にささやいた。しかもただの女房ではなく、姫の乳母だとその女は言った。
いつになくその晩は、楽しく燃えた。魂と魂が求め合っていたのがやっと結合したかのように、二人はひとつの炎となっていた。
炎が少しずつ鎮火する中で、源氏は姫に尋ねてみた。
「あなたは入内することになっているのでは?」
禁忌にふれることにあえて跳むかのような、源氏のか細い声だった。
姫の答えはすぐにはなかった。源氏はさらに言った。
「私との関係が露顕すれは、すべてが
「おっしゃらないで」
姫の小さい声が、源氏の囁きを遮った。裸の肌を密着させて互いにぬくもりを感じながら、今度は姫が囁いた。
「何に幸せを感じるかですね。入内して、行く行くは后に……それは女の最高の幸せですけれど、頭で考えるものですね、それは。私の心が感じる幸せはそんなものじゃないんです」
「じゃあ、何?」
姫は返事のかわりに、源氏の胸の中にきつく自分をとけこませていった。
源氏はつくづく実感していた。同じ女でも、そして母こそ違え同じ種の姉妹でも、胸の中の姫はなぜこうも妻と違うのか……。
姫には存在の実感があった。
人形を抱いているようにしか思えない妻との交わりとは、まるで違うものがそこにあった。
そして大きな違いは、自分の意志の介在の有無だったのかもしれない。
それからあとも、場所が場所だけに普通の通い所のように頻繁に通うわけにはいかない。それでも文をかわすくらいは、前よりはかなり楽になった。姫の乳母がよく協力をしてくれたからのようで、また姫の父、源氏の舅の宰相右衛門督もまだ何も気ついてはいないようだった。
秋も深まり、源氏の同母姉の内親王が伊勢斎宮として下向していった。そんな頃に源氏は機会をとらえて小野宮邸の、妻のいる西ノ対ではなく東ノ対に忍んで来ていた。
日が暮れるのが早くなったなどという話題で、姫と語っていた時である。
激しく妻戸が開いた。
「二の君、おられますか。ぼくの元服の日が決まったんだ」
源氏は驚く間もなかった。いつぞや自分の姿が見られた少年だ。
童形の少年も、しはらく呆然として妻戸の入り際にたたずんでいた。
源氏の頭の中に、どう弁解したらいいか、その口実の候補がいくつか飛来していた。そのうちのひとつを選び取り得る前に、少年は叫んだ。
「あなたは一の君の婿殿の、世をときめく光源氏の君様!」
あとは言葉が続かないようで、源氏と二の君の姫とを口を開けて黙って交互に見ていた。
源氏は度胸をすえた。
「もうすぐ元服なんだってね。今、いくつにおなりで?」
「十三!」
怒鳴りつけるように言ってから、少年は音をたてて廂を駆けていった。
「小君!」
姫が呼んでも、少年が戻ってくる気配はなかった。
姫はただおどおどして座っていた。震えているようでもあった。
「今日はお帰り下さい」
「でも、久々に来れたというのに」
「あの、何も御心配なさらないで。あの子は賢い子です」
姫の言った「賢い子」の意味がよく分からないままに、仕方なく源氏は帰ることにした。今の姫の様子では、あの少年が誰なのか尋ねられる雰囲気ではなかった。
源氏が渡廊へ出ると、うるさいほどに虫が庭で楽を奏でていた。
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