私生活はいろいろと波風が立ってはいたが源氏の中将としての公務は順調で、ふと昨年と比較してしまう。

 去年の今ごろは大嘗祭を前にして、中将としてだけではなく悠紀国の近江国の権守として忙殺されていた頃だ。

 今年は普通の新嘗祭だから官人たちにとっては手慣れた年中行事で、去年の多忙が嘘のようであつた。

 あれから舅の自分への態度が何ら変わったということもなく、小君という少年は何も誰にも話してはいないようだった。

 それにしても十三歳とはいえ油断できない子供だと、源氏は少君のことを思っていた。自然と小野宮の二の君には、会いづらい状況が続いた。ほとぼりが冷めてからと思う。何のほとぼりか……自分の中のか? そして姫の中のか? さらには少年が黙し続けるという確証ができるまでのか?……


 新嘗祭も終わり、源氏は宮中で摂政左大臣に召された。左近の陣でだ。源氏のこのときの思いは、ついに来たかということだった。すべてが終わり、摂政左大臣の叱責が待っている。

 ところが摂政は機嫌もよく、源氏を迎えた。

「いや、実は話とは、まろのせがれの加冠が近々ござってな、源氏の君にもご参列いただけたらと思いまして。年端はいきませぬが、源氏の君様の御北の方の叔父に当たりますれば」

 一応は胸をなでおろした源氏だったが、もしやその元服する左大臣の子息とは……と思うと、胸騒ぎがするし、身が縮む思いだった。

 加冠の儀は小野宮邸で行われた。少年にとっては長兄の宰相右衛門督の屋敷の北ノ対に、今まで居住していたからだという。

 当日、参列した源氏はその若君の顔を見て、胸がつぶれる思いだった。

 自分が感じていた「もしや」が的中してしまった。紛れもなくあの日の少年だ。しかも、これからは冠をかぶり、童形ではなく自分と同等の一人前の男として自分と接していくことになるその少年を、源氏は直視できなかった。

 ところが新たな官人の仲間入りをした十三歳の彼の目は、するどく源氏を見据えていた。

 二の君の叔父と称していたあの少年はやはり左大臣の末の息子で、宰相右衛門督や頭中将の弟だった。

 その後、大饗となった。

 いつのまにかさっきまでは少年だった若君が源氏のそばに寄り、立ったまま源氏だけに聞こえる声で耳打ちをした。

「姪だけど姉と慕っていた二の君のところに、あなたはいた。しかもあなたは一の君の婿だ。ぼくはこれからもう、二の君と同じ御簾の中へ入れないのだよ。それなのにあなたは……決して誰にも言いはしませんけど、でもぼくは一生忘れない。あなたのことを」

 源氏は身を凍らせて、ただ黙っていた。若君はもう去っていってしまっている。人々は庭で催されているがくに気を取られ、誰も気づいてはいないようだった。

 かつては自分も、大人の醜さが見え始めた頃に、さんざん大人を嫌悪した。今やかの若君から見れば、自分が今度は嫌悪されるべき大人になってしまったようだ。左大臣や宰相右衛門督は自分を若者と見てくれようが、十三歳の少年から見れば醜い大人なのかもしれない。

 そのとおりだと源氏は、一人ひそかに苦笑していた。

 やがて、年が明けていった。


 正月の除目で頭中将が従四下になったが、源氏の位階は全く据え置きであった。父の威光が少しずつ遠のいていることを、嫌でも感じないわけにはいかない。一年一年と亡き人は人々から忘れ去られていく。それにひきかえ、この世でますます力を伸ばしていく人もある。

 三月に弘徽殿大后の五十賀が常寧殿で行われた。大后の兄である摂政左大臣も、いちいち御意見伺いをたてねば政治も行えぬほど大后は国母としての威力を増していっていた。

 その大后の目のかかった姫と、源氏は密通した。ただの好き者ならよい。大后がとりしきる政界の中にいる一人の男として、源氏は自分の将来に憂慮を感じないわけにはいかない。

 時には頭が心を支配してしまうこともある。あれ以来源氏と二の君の間は文通のみとなってしまっていた。

 そんな源氏の公務に疲れた心の慰めは、二条邸の西ノ対の若い姫の成長だった。日増しに大人のそぶりを見せていく。しかしそれでも彼女は源氏の娘か妹、その域を脱し得ない。


 世の中はますます騒然としてきた。夏になると、

 西海の海賊の活動が頻繁になってきたのだ。昨年の宮中の旋風つむじかぜの時の、陰陽寮の占いのとおりだった。

 西国の国府でさえ、その襲撃を免れていないという。さっそく宮中からは山陽・南海両道の十ケ国の諸神社に、海賊撃退のための臨時幣帛へいはく使を派遣することになった。

 災難は、源氏にとっては対岸の火事ともいえる海賊のことばかりではなかった。

 ちょうど梅雨明けの頃、大きな地震が一日に二度も都を襲った。都の中では築地塀が崩れたという所も何ケ所かあった。

 その翌日も、さらに翌日も、余震と思われる地震があり、そのお蔭で源氏は恐がる西ノ対の姫のために西ノ対屋ですっと寝起きすることになった。

 六月になって、もう一度一日に二度地震があったが、それはさしたる被害はなかったようだ。

 夏も秋も先例と習慣に任せて年中行事をこなしながら宮中の時間は過ぎていき、その中の歯車のひとつに源氏はなっていた。

 暦の上では冬の十月――落雪により奈良の大仏で有名な東大寺の、七重の西塔が焼失した。

 そして年の瀬も押し迫った頃、源氏の舅である宰相右衛門督は、従三位じゅさんみ中納言にせられた。舅は三十六歳。これとて異様に若い中納言の誕生であるし、先例もやはり父左大臣や本院大臣、掘川関白とその係累以外には全くなかったことであった。

 やがて時は年の瀬を迎え、海賊と地震に明け暮れた一年も幕を閉じていった。


 源氏はふと今までをふりかえる。小野宮邸内の二の君とは時折の文通、二条邸西ノ対の姫はますます成長する。妻との仲は相変わらずだ。冬の始まりに一度だけ、夫婦の関係をもったきりであった。その時も人形を抱いているようで切実に東ノ対へ行きたかったが、かろうじて思いとどまった。

 そしてもう一人、平時は全く忘却の彼方、すなわち過去の人になってしまっていたが、時として思い出す存在が源氏にはあった。

 六条御息所――二条邸の政所がまだ自動的に六条へ物資の援助は続けているはずだから、全く切れてしまったわけではない。それなのに、先方からは今や何も言ってくることはなかった。

 ふとしたはずみで御息所を思い出した時、源氏にとって御息所からの沈黙がかえって無気味に重みを加えてきたりするのだった。

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