第5章 葵

 世の中が変わったと、源氏の目には映った。ただ年が明けたからというだけではなさそうだ。まず変わったのは、世の中ではなく彼自身の心境だったかもしれない。

 空は晴れていても心は暗い。日増しに春めいてきてもなぜか気分は冬の中にいるようで、さらにその上、本来なら慶びであるはずのことも重荷に感じてしまう。


 舅は昨年の暮れも押し迫った頃に、中納言に就任していた。小野宮家では正月の宴を任大臣響を真似た小宴として、主人の任中納言を祝う宴を兼ねて行われた。その席で、源氏は気もそぞろだった。同じ屋敷内にあの二の君がいるはずである。花宴で契りをかわした姫が。

 あれ以来、文のやりとりすら遠のいていた。昨年は一度も会ってはいない。それだけならば、それまでの縁とその存在も源氏の中で小さくなり、やがては消えていったかもしれない。

 しかし源氏は姫のいるこの屋敷の婿なのである。

 時折妻の元に通うたびに、嫌でも意識せずにはいられない存在だった。相手が自分のことを、今はどう思っているのかも気がかりだ。自分は花橘の香に思い出でらるる人となってしまったのだろうか、それとも今でも待っているのだろうか。

 不思議な因縁で巡りあった姫であるし、危険な状況を越えて契ったのであるから、このまま終わるとも思えない源氏だった。いや、終わりにしてはなるまい。

「源氏の君様!」

 するどい舅の新中納言の声がとんできた。思えばこの日の宴で、舅がはじめて自分にかけた言葉である。寝殿の身舎もやは一族が集まっているので、源氏の存在はその何十人の中のひとりにすぎなかったが、親王扱いの一世源氏の彼はそう下座に就いていたわけでもない。

 それにしては今まで舅が自分に何も言葉をかけなかったのは妙であったし、やっとかかったと思ったらにやけた顔で自分を見ている。

「西ノ対が気になられるか」

「あ、いえ」

 新中納言はもう自分へ向けたのとは違う顔で、他の者と会談をしていた。

 源氏は誰と話すまでもなく一人で杯を重ね、庭からのがくに耳を傾けていた。

 同じ室内に舅の弟で一昨年元服した例の若者もいた。かつては小君と呼ばれていたあの少年が、今ではすっかり青年になっている。だが彼は源氏のことなどは全く無視していた。

 やがて庭に篝火かがりびが焚かれる頃となった。客は一人帰り二人帰り、その数がだんだんと減っていった。その間、舅から源氏に声をかけてくることは全くなかった。

 源氏はこの屋敷の婿なのだから、帰らなくてもいい身分である。しかし源氏はここを抜け出したかった。だが今帰れば、舅が変に思うだろう。

 今は小一条の君というらしいあの若者も、なかなか席をはずさない。この屋敷内に住んでいるのだから当たり前だ。

 もう一年以上も前のあのことを、小一条の君は自分の兄、つまり源氏の舅には何も話してはいないようだった。

 源氏は意を決して、舅の前に座った。それまで他の人と歓談していた舅の笑顔が、たちどころに消えた。目の前にいるのはもはや舅ではなく、ただの中納言だった。

「今日は西ノ対の妻のところへ、戻りたく存じまする。これにて」

「娘はやまいだ」

 源氏は一瞬言葉につまった。これまでは妻が病と称して会いたがらなくても、舅が娘をたしなめ、源氏を西ノ対に送り出してくれたものだった。

 もう舅は今まで話していた者と、源氏に横顔を見せて再び笑顔で話していた。

 帝の皇子に対する態度ではない。しかしその帝はもう世になく、今の帝は弘徽殿大后の手の中にある存在だ。

 舅はいつもこんなではない。これまではもっと愛想がよかった。今日の違和感はなんだ?

 源氏はそう思った時……まさか……と思った。小一条の君の姿を見ても、全く源氏を意識する様子もない。

 やはり思いすごしか……と思う。一年以上もたった今頃になって、二の君とのことがばれるなんていうのも不自然だ。

 とにかく源氏は黙って下がり、南廂へと出た。どうしても腑に落ちない。別に舅にことわらなくても西ノ対に行くのは自由な身なので、源氏はひとりで暗い廊を渡った。

 もし妻にもばれていたら――やはり妻である以上、申し開きをせねばなるまい。そこまでは考えられるが、その先は頭が真白になっている。このようなことで夫婦の仲が壊れたら……父亡き今、自分の庇護者は舅である新中納言だけなのに……。

 西ノ対に着いた。まずは小声で女房を呼ぶ。

「あ、源氏の君様、おかえりなさいまし」

 口ではそう言うものの、源氏の持つ紙燭に照らされたその顔には、明らかに当惑の色が浮かんでいた。

「お方様は病でございまして」

「まことであったのか」

「はい。昨日あたりからものも召しあがらす、またことごとくお戻しになりまして…」

「そうか、で、加持は」

「明日にでもと家司の殿とはからっておりました」

 どうやら嘘ではなさそうだ。

「熱は?」

「それがお熱は全くございませんでして」

 そうなると余計に心配だ。

「見舞おう」

 と、源氏は言ったが、女房はそれをとめた。

「もう休んでおられます。それに、殿が…」

 あとは女房に口を濁した。舅が……?

 源氏はそれ以上、抗うことはできなかった。


 その日以来、暗い塊が常に源氏の心にのしかかった。何もする気になれず、公務以外で外出することも全くなくなった。とにかく二条邸でふさぎこんでいた。二条邸の西ノ対の姫の顔も、しばらくは見ていない。無邪気な姫に、こんな落ちこんだ様子は見せられないと自粛していた。西ノ対の女房から、姫がしきりに会いたがっているということは何度も伝えられたが、とても渡っていく気にはなれなかった。

 いつもこのような気持ちになった時のはけ口が、源氏にはあった。母は身近すぎてはけ口にはならない。母ではなくて母のような存在――藤壷の宮の屋敷を源氏は訪ねた。角を接しているのだから外出と言える程ではないが、彼にとって正月以来、宮中へ出仕以外のはじめての外出だった。

「昨日、一昨日の地震の折は……」

 源氏がきりだしたのは、まずこんな話題だった。

「昨今、地震が多ございますね」

 御簾の中の声は、相変わらす優しそうだった。

「二日も続けてとは、何か不吉なことの前兆でなければよろしいのですが」

「はあ、何しろ一昨日は夜中でございましたから、思わず跳ね起きまして」

 源氏はそう言いながらも、自分の胸中をどう告げたらよいのか迷っていた。さすがにすべてのいきさつを、あからさまには述べ伝えられなかった。

「このところ、いささか気分も沈みがちでして」

「あなたも宮仕えの中で、いささか鬱憤がたまっておられるのでは?」

「はあ」

 この人相手にすべてを打ち明けたら、はじめは驚かれるに違いない。妻の他に通う女はいくらいてもかまわない。しかし、腹違いとはいえ妻の姉妹はまずかろう。しかも入内予定の姫である。ことの重大さにやはり源氏は言えなかった。

「今年の四月の賀茂の祭りにはぜひ桟敷を求めて、物見にと存じておりますのよ。次の新しい斎院様も拝見したくて。それで、もしおよろしければ、あなたの北ノ方様もともにと」

「はあ」

 源氏は頭を下げた。それどころではないことを告げるのは、ここでもやはりできなかった。


 その直後の春の除目で、源氏は大蔵卿となった。もちろん左中将の職はそのままである。

 大蔵卿といえは貨幣、金銀財宝、貢物も出納すいとうや保管を司る大蔵省の長官だ。しかしもはや八省の機能は形骸化していたし、その長官は名誉職である。実務はない。それでも職佃、職封は与えられ、収入は伸びることになる。

 だがそれは二条邸の政所の家司を喜ばせるだけだ。かえって実務があった方がよいと、源氏は思っていた。名誉職だと、その名目だけが重荷となってのしかかってくるのである。

 そんなことをつぶやくと、頭中将は笑った。

「なに、互いに左右の中将は元のままだし、それだけのつもりでいいじゃないか」

 源氏は頭中将と温明殿の脇の庭を歩きながら、浮かない顔でうなずいた。

「たしかにそうだが」

「いや、君は役職が増えるとそれが重荷になって、夜のそぞろ歩きもできなくなると思っているのだな」

「また、そんな。こんな純情な少年をつかまえて」

 頭中将が笑って少し逃げたが、源氏はそのままの歩調でただ苦笑いだけを前方に向けていた。

「何が少年だ。もう二十二のくせして」

 そう言って笑う頭中将も実はこの春の除目で参議に、すなわち頭中将から宰相中将になっていた。

「参議の方が楽さ。杖座に座って順番がまわってきたら意見を言えばいい。それを取り継ぎ、あっちこっち駆けまわって忙殺されていた蔵人頭の時に比べたらね」

 ゆっくりとこれまでの頭中将――今の宰相中将は源氏の脇に戻ってきた。

「しかし君も参議になって、これで上達部かんだちめの仲間入りじゃないか。しかもその若さで」

「いや、やはり上達部は三位さんみ以上だ。四位しいでも参議なら一応上達部だけど、やはり三位にならないとなあ」

 宰相中将の目は遠くを見ていた。彼はこの春で二十八になる。二十代の参議は普通はあまりない。今までの例でも彼の父の摂政左大臣が二十一の時、その兄の故本院大臣が二十二、そしてその二人の父、宰相中将にとっては祖父である故掘川関白は二十九で参議になった。近くではこれらの例しかない。

 つまりそれは皆、宰相中将の家系に限られているのだ。

 彼の兄、つまり源氏の舅の中納言でさえ参議になったのは三十二歳だった。そのことを考えた時、急に源氏の胸の中の黒いわだかまりが活動をはじめた。

 世の中が変わった――変わったといえばはっきり変わったものがあった。源氏の心の鬱憤は、そこからきている割合が大きいことは、彼自身すでに分かっていた。

 彼の心だけが今や、大きく揺れ動いているのであった。


 そんなある日、舅の中納言より使いが来た。その使いがもたらしたのは、それまでの心の闇を一瞬にして吹きとばす内容だった。

 妻が妊娠したのだという。

 早速駆けつけた源氏は、舅の笑顔に迎えられた。

 新しい生命の誕生に、すべての氷が溶解したのである。

「おめでとうござる。わが中納言就任に加え、一気に春の到来でござるな」

 中納言は源氏の手をとらんばかりに、喜んでいた。彼にとってはじめての孫なのだ。

 とにかく妻のところへと、源氏は西ノ対に渡った。

 妻は起きていた。ほんのりと頬に紅が感じられ、これからの大役を胸に秘めながらも、源氏の姿に初めて見せる微笑みを彼女は源氏へ向けたのだった。

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