三月のついたちは日食があり、政務は休みとなった。その直後のことである。夜になって二条邸の家司違が大騒ぎをはじめた。

「何ごとかね」

 源氏は寝殿の南廂まで出ると、惟光がすぐにやってきた。

「源氏の君様。どうぞ泉殿へ」

 見てみると、泉殿の方に多くの紙燭の火が見える。女房たちも多勢集まって騒いでいるようだ。

うしとらの空が真っ赤です」

 息をきってそう報告するものもある。とにかく寝殿の南廂からだと、大屋根の陰となってその方角の空は見えないので、源氏は庭に降りた。振り向きつつも池の畔まで来るにつれ、本当に焦げるような赤く染まった夜空が、大屋根の向こうに姿を現しはじめた。

「火事か?」

 源氏はつぶやいたが、近場の火事ではないようだ。なぜなら燃えているのは山の上だ。

「なんたること」

 火そのものは比叡山の山頂ともいうべき四明ケ岳の向こう側なので見えないが、かなり大きな火災のようで、空の赤さが充分にそれを証明していた。源氏は思わずその東北の方角に向かって、手を合わせていた。

 翌日の宮中は、そのことでごったがえしていた。何しろ都の中で比叡山が見えない場所はないから、昨日の火災を目撃していない人はいないはずだ。

 王城の鎮護であり門の鎮めである延暦寺は、一乗止観院の薬師堂、文殊堂、経蔵はじめ四十余宇が灰塵に帰したという。ただ、諸仏は皆で運びだし無事だったということだ。

 左近衛府に、宰相中将が訪ねてきた。

「いやあ、大変なことになったな」

 朱塗り柱の政庁に足を入れるなり、宰相中将は言った。床も石畳なので舎内は冷んやりとしている。

 源氏は石の床に二畳だけ敷かれた畳の上に小机を前にして座っていたが、宰相中将を見あげる気力もなく返事も心ここにないような様子だった。

「昨年の東大寺の塔といい叡山といい、これは……」

「さよう、不吉の前兆だな」

 源氏は正面を見掘えたままだった。宰相中将はくつを脱ぎ、源氏と同じ畳の上に上がって源氏の脇に座った。

「どうしたんだ?」

 源氏の問いに、宰相中将は源氏の横顔を見た。

「いや、あまりにも内裏がごったがえしているので、息ぬきに抜けだして来たのさ」

 そうは言っても、状況はここでも変わっていない。二人の前にはおびただしい近衛舎人がいて、慌ただしく動きまわっている。

「せっかく子が授かったというのに、不吉の前兆だ」

「あ、そうだってね。聞いたよ、いや、おめでとう」

「ああ」

 顔が輝いたのは宰相中将だけだった。

「子供はいいものだよ。本当にかわいい」

 続けて宰相中将はいろいろしゃべっていたが、源氏は相槌を打つだけであまり聞いていなかった。新しい生命の誕生がせっかく心の闇を吹き払ってくれたと思ったのも束の間、叡山焼亡という事件が源氏の精神にまたもや暗い隠を落とした。

 ふと宰相中将の言葉を聞いて思いついたので、彼ははじめて宰相中将を見た。

「子供はいいって言ったけど、行く方不明だとしても?」

 一瞬、宰相中将の言葉がとまった。

「三の君か」

 あとは何も言わす、宰相中将はため息をひとつついた。


 源氏が小野宮邸へ通う足も、回数が多くなった。宰相中将が「これで名実ともに君は、小野宮家の一員になってしまうのだな」と少し残念そうに言っていたりしたのを、源氏は小野宮邸へ向かう車の中でふと思い出したりした。

 舅の中納言の源氏に対する態度は、自分の娘が妊娠してからは元に戻っていた。慶事を前に一切を御破算にしてくれたようだ。ただ、いったい何をご破算にしたのかは、源氏にはまだ謎であった。

 妻も源氏の語りかけに少しずつ笑顔で応えてくれるようになり、言葉数も次第に多くなっていった。

 あの比叡山の火災の夜のことなども話題になったし、生まれるべき子供の将来のことにまでも話の内容は至ったりもした。

 このまま小野宮邸の西ノ対に源氏が住みついたとしても、それは世間的にも全く構わないことだったのだが、源氏にそれをさせ得ない二つの理由があった。

 一つは同じ屋敷の東ノ対である。同じ屋敷といっても同じ屋根の下ではないし、よほど互いが互いを訪ねて行かない限り顔を合わせることはない。だが、やはり意識してしまう。

 もうひとつは二条邸の西ノ対だ。

 源氏は今でもただでさえ二条邸へ戻ることが少ないと思い、たまに帰ると必ず西ノ対へ渡った。

「ずいぶん髪も長くなったね」

 そう言われて微笑む姫は、もはや幼女ではなかった。

「あまり来ないんで、すねねてるんじゃないかって心配でね」

「まあ、もう子供扱いしないで下さい。だって、お兄さまは赤ちゃんがお生まれになるんでしょう? お生まれになったら、見せて下さいね」

「そうだね。それより、あなたもそろそろ裳着…」

 ふと源氏は言葉を切った。裳着は婿として定まった相手を公にすることでもある。

 この姫も、やがて婿を迎えるのか。その婿に対して自分は舅と名乗るには、年齢が姫と近すぎる。

「裳着がすんだら、お婿さん選びでしょう。でも、お兄さま、お兄さまが私のお婿さんなんでしょう?」

「え?」

 源氏はいきなり真顔になって聞き返した。

「だって、乳母の少納言がそう言ってましたのよ」

「そうか」

 やっと源氏は笑みを洩らした。やはりまだ子供なのだ。まわりの人の言い分を、何の邪気もなく信じているだけなのだ。

 源氏は久しぶりに、少しだけほのぼのとした気分を味わった。


 この年は四月一日の更衣ころもがえが済んでから夜に霜が降りるなど、全く異常気象以外の何ものでもなかった。そしてまた少し大きめの地震があった。

 日増しに成長する二条邸の西ノ対の姫、そして小野宮邸の妻の腹中で確実に育っているであろうわが子、そんな明るい未来の象徴に囲まれながらも、なぜか気分の晴れない源氏だった。

 延暦寺再建のこと、西海の海賊追捕のことなどで宮中では連日陣定じんのさだめがもたれているようで、新米の参議の宰相中将はあれから姿を見せない。蔵人頭よりは楽だとは言っていたものの、やはり忙殺されているのだろう。

 源氏の左近衛府は、別の件で多忙をきわめていた賀茂の祭りが近づいているのである。そのような行事の警固も、近衛府の役職だ。参列者の人選、舎人の配置など案件を作り、上司の左大将である右大臣へ上呈するのが左近衛府を今実質上とりしきっている源氏の仕事だった。

 右近衛府の方では宰相中将は参議の職務に徹し、近衛府の実務は権中将に任せているらしい。こちらはそうはいかないのだ。

 祭りといえは華やいだものとして、庶民までもが楽しみにしている。しかし当事者としてはそれどころではない。それでもめったにない晴れの日の空気は、自分のこの鬱屈した心を文字どおり少しでも晴らしてくれるのではと、源氏はひそかに期待していた。

 斎院御禊ごけいには自分も参列するので、翌日の本祭にはぜひ二条の西ノ対の姫とともにとも、ひそかに源氏は思っていた。

 昨年は全く思いもよらなかったことだ。なぜなら昨年までは、彼女はまだ幼女だったからである。

 そして自分の暗い気持ちを思う時、同じような心持ちでいるのではないかと、ふと妻のことを源氏は思った。叡山の火災、異常気象、そして地震、これらが心情に暗い影を落としたのは自分ばかりではあるまい。そう思うと源氏はその日の出仕が終わるとそのまま、昼過ぎから小野宮邸に束帯姿のまま直行した。

 東ノ対を通る時、その中を意識する癖はまだぬけてはいなかった。しかしいつも東ノ対は御簾が降ろされ、中に人の気配すら感じないのである。もしや舅の計らいで、かの姫君は宮中の弘徽殿大后の元へ置かれているのかもしれない。

 でももうどうでもいいと、今の源氏は思うのだ。真っ先にと彼の足は西ノ対へ向かう。

 妻は伏せていた。

「今日少々、気分がすぐれませんで」

 以前の妻なら、それを口実に断固として源氏と会うのを拒んだはずだ。今は夫の来訪に女房の手を借りて、無理にでも起きようとする。

 源氏は息をのんだ。昼間見ることは今までなかったからかもしれないが、自分の妻がこれほど美しい女だとは知らなかった。あるいは初出産に対する気構えが、彼女の女としての美貌に磨きをかけたのかもしれない。

「気が重くなることの多い昨今だしね、気を晴らすためにもあなたも祭り見物などなさったらいかがですか」

 思いもよらなかったことという顔を、妻は見せた。

「祭り?」

「そうなさいましょ」

 そばの女房の顔の方が、代わって輝いた。

「御禊の日は殿も晴れ装束で御参列なさるとか。そうですよね、殿」

「ああ」

 源氏はうなずく。

「北ノ方様として、背の君の晴れ姿をご覧になれば、お気持ちも一気によろしくおなりになって、お腹のお子様にもきっとよろしいことかと」

 源氏ははにかんで微笑しているだけの妻を見た。

 彼も笑みを投げた。

「実は私が幼いころから親しくしてくださっている藤壺の宮様が桟敷を設けるので、ぜひそなたもともにと申し出て下さっておるのだが」

「そうなさいまし。お方様」

 女房も強いて勧めるが、妻は小さく首を横に振った。

「お気持ちは嬉しいのですけど、藤壷の宮様といえば先帝の皇女様で、故院のであらせられたお方でしょう? そのような方と御いっしょなど、恐れ多くて…でも、お勧め下さったお気持ちは頂いて、出かけることにしましょう。お腹の赤子ややも落ち着いておりまする」

「それがよい」

 思えはこの小野宮邸から一歩も出たことがないかもしれない妻の、初めての外出になる。気分にもたらす影響もいいに決まっていると、源氏は納得した。

 その時、無気味な低音が響いた。

「地震!」

 と、女房が叫ぶのと同時に、柱のきしむ音が激しく響きわたった。

「こりゃ大きいぞ!」

 源氏は立ちあがり、妻の元へ寄った。几帳が音とともに倒れる。燭台も倒れたが幸い昼なので、火は灯ってはいなかった。上げてあった半蔀はじとみの格子の留め金がはずれ、何枚かの格子は爆音とともに勝手に降ろされた。

 地震はすぐにやんだ。

 気がつくと源氏は、妻に覆いかぶさるようにしてその身とその中のわが子を守っていた。全く無意識の行為だった。揺れが収まっても源氏の胸は高鳴っており、また妻も同じであるようだった。

「恐かった」

「いやあ、大きかったけど、そんなたいした地震じゃなくてよかった。火も出なかったし」

「でも、これで済むでしょうか。もっと大きな地震の前ぶれでは?」

 源氏の顔を見あげる妻の顔は、少し汗ばんでいた。まだ折り重なっている二人は、そのまま手と手をしっかりと握りあった。

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