3
なんとか気候も夏めいてきて、いよいよ祭りの頃が近くなったことが感じられる。そして都じゅうの人々も、浮かれだしてくる頃だ。
ここのところ天気がよい日が多い。
ところが源氏の近衛府は祭りの準備に大わらわで、浮かれているどころではない。地震のあと二条の西ノ対の姫が気がかりだったが、その二条邸にすら戻れず、宮中や近衛府に
祭りに先立つ斎王の御禊は、祭りの二日前の
源氏の気分は相変わらず重い。このような重い気持ちのまま祭りを迎えてもよいのかと思ったりもするが、祭りによって少しでも気分が晴れればという期待もないではなかった。とにかく今は政務に没頭することで、気を紛らわせるしかない。
そのうちすぐに、御禊の日はやってきた。よい天気であった。
左近衛中将である源氏が祭使である。紫宸殿の南庭に集まった人びとは、皆その冠に一様に葵の飾りをつけた。紫宸殿には帝がお出ましになり、一同を天覧される。そして行列は祭使の源氏を先頭に、内蔵使、検非違使の使、女使の典侍の順に内裏を出発し陽明門から大内裏の外へ出る。そのまま大宮大路を上がり、一条大路で待機し、斎院から来る斎王の行列を待つことになっている。今の斎王は源氏の異母姉、故院の女三宮である。源氏が中将になる前は、この行列はもっと長かったらしい。中宮使と東宮使が加わっていたからだ。今は帝はお若くて中宮はおられず、また東宮も定まってはいないのだ。
一条大路の両脇は、ものすごい人の山となっていた。檜皮葺きの屋根を持つ桟敷もあちこちに見えるが、人混みに埋もれている。桟敷のない所には貴人の物見車がすっと連なり、その間のわずかな隙間を人々が埋め尽くしているのだ。
中には三日も前から場所をとっていた者もいるという。都じゅうの人々――そればかりではない――遥かな遠国からもこの祭り見物のために上洛して来ている者も、かなりいるということだ。
源氏はさらに北へ続く大宮大路の方へ目をやった。まだその方から、こちらへ来る行列は来そうもなかった。
行列を止めてしばらく待っていると、近衛将監の一人が源氏の馬の脇に駆けてきた。源氏が今日の警護の近衛舎人を統括させている男だ。
「源氏の中将様! 源氏の中将様!」
「何事ですか」
馬上から源氏は、自分よりは十は年上であろう部下を見おろした。
「大騒ぎが起こっておりまして」
「大騒ぎ?」
「物見車二つが場所争いで、その郎党どもが乱闘致しております」
「物見車の車争いか」
源氏は少しはっとした顔をした。
「毎年のことではありませんか。毎年必ず二件や三件は起こることですよ。それにそのようなことの始末は、任せてあるはずです。今日は私は左近中将ではなくて、祭りの祭使なのですよ」
「いえ、それが……」
まだ肩で息をしながら畏まっている将監の顔が、少し言いにくそうにゆがんだ。
「やんごとなき方の車とでも申すのですか?」
源氏の方から尋ねてみた。祭りの日の車争いは日常茶飯事でも、それが高貴な人の車の郎党同士ということになると少し面倒だ。彼がまだ童形の頃に同じこの祭りで、ある車争い事件が起きた。二つの車の
しかしいずれにせよ、今は祭使の務めに専念するしかない。
「それが中将殿」
意を決したように、将監は顔を上げた。
「車争いの車の主は摂政左大臣様の御孫娘、すなわち小野宮中納言様の娘御でございまして」
「何ッ!」
源氏は目を見開いた。
「ど、どの娘御ですかッ!」
まだ、わが妻と決まったわけではない。しかし自分は、妻にこの御禊見物を勧めており、妻もそれを受けていたはずだ。
「中将殿……」
将監はさらに源氏を見て、因ったような顔つきで言葉を捜していた。それがすべてを物語っていた。
「わが妻、一の君か」
源氏はつぶやいた。ため息がひとつ洩れた。
「で、相手は」
「それが網代車ではありますが、どのような方かはいまだ……」
「まずはそれを調べて下され」
その時、同じ祭使である少将が、源氏へ馬を近づけて来た。
「中将殿、見えられましたぞ」
大宮大路の北の方から、斎王の行列が下がってくるのが見えだしていた。源氏は下知を下し、斎王を迎える体勢に入った。
紫野の斎院から来る斎王とここで合流し、このあと行列は一条大路を東へ進むのである。
源氏の頭の中は、車争いの相手のことでいっぱいだった。争った相手の郎党も、こちらを摂政左大臣の孫娘の車と知らないわけはないだろう。こちらの郎党がそう告げるはずだ。それを知って相手の郎党が挑みかかってきたというからには、相手もそう身分の低い者ではあるまい。網代車というのは身をやつしてのことだろう。
相手次第では、とり返りのつかないことになる可能性もある。しかし今の源氏には、その相手がどのような身分の誰なのか、見当さえつかなかった。
やがて前から教えられていた、藤壷の宮の桟敷の前を通過した。源氏はその従者ともども、桟敷の方へ目礼した。宮の勧めるとおりに宮と同じ桟敷にいれば、妻もこのような事件にまきこまれずに済んだはずである。もっと強く勧めればよかったと今更ながらに源氏には悔やまれた。
そのうちに、明らかに小野宮邸のものと分かる車が目に入った。従者にも見覚えがあるので、妻の車に違いない。まずは胸をなでおろす思いだった。妻の車がきちんとあるということは、それほど恥ずかしめは受けずに済んだのだろう。
源氏はここでも目礼をした。その、従者はかなりの者が服装を乱しており、乱闘のすさまじさを物語っていた。
通り過ぎざまに、もう一度ふりかえってみると、車のたてこんだ奥に網代車がちらりと見えた。おそらく行列はほとんど見えないであろう位置だ。しかも
気の毒にと思ったが、時めく左大臣家の流れの姫に狼藉を働くからこのような目に遭うのだと、源氏の中にそのくらいの奢りがあったのは事実であった。
鴨川での御禊が終わると、源氏は小野宮邸へ急行した。舅の前に出るのはばつが悪くもあった。妻へ今日の祭り見物を勧めたのは自分なのだ。
すでにことは舅の耳にも入っていたが、舅は源氏を咎めるよりも、とにかく心配の面立ちをしていた。早速政所の家司と、その場に居合わせた従者の長が二人の前に呼ばれた。
庭先から従者の長が言う、ことの次第はこうであった。
――かなり遅くに邸を出たので、源氏の妻である一の君の車が一条大路に着いた頃は、もはや車を停める場所は皆無に等しかった。そこで摂政左大臣の孫で小野宮中納言の娘であり、源氏中将の北ノ方である者の車であることを告げ、場所を譲ってもらうことにした。
しかし、高貴な身分の人の車であるとその郎党が主張してあの網代車は断固どかなかったので、ふるまい酒にかなり酔っていたこちらの郎党たちが相手の車を強引にどかせたということだった――。
「それならは非は、当方にあるではないか」
中納言は苦りきった顔つきだった。譲ってもらうといえは人聞きはいいが、はじめからいた車を無理やりどかせたに相違あるまい。
「私の監督不行き届き、面目次第もございません」
従者の長はただ、頭を庭の土にこすりつけていた。
「で、相手は?」
源氏が口をはさむ。
「それが」
「やはりやんごとなき方か」
「はい。前坊の御息所様のお車とか」
「なにッ!」
源氏の胸が、はちきれそうになった。
「御匡殿別当か?」
源氏はまずは希望的観測を言った。そうであってはしいと思ったからだ。
「いえ。六条わたりにお住まいになっておられる……」
もはや源氏の目の前は、真っ暗になった。中納言も複雑な顔をしていた。同じ前坊の御息所でも、御匡殿別当なら中納言にとっては妹。一族内の争いでことが済む。ところが六条御息所は、父左大臣の懇意であった故一院法皇と
しかし、一方の源氏にとっては、それだけの存在ではない――かの六条御息所は……。
「これは丁重に、先方に謝辞を述べねばなるまい」
「中納言様!」
源氏は無意識に、横に座っている舅を見た。
「私に行かせて下さい」
「おお、そうですか」
中納言の相好が崩れ、安堵の息が洩れた。何も知らない中納言は微妙な立場にある自分ではなく、源氏が娘の夫として間に入ってくれることが最良の策と思ったようだ。
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