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祭り当日まで、中一日あいていた。とは言っても近衛府による警固は解けたわけではないので、源氏が宮中を抜け出すのは容易ではなかったが、中納言の命という名目で彼は車を六条へ向かって進めた。
これは舅の命によるのだと、源氏は車の中で何度も自分に言いきかせた。
それにしても、まさかこのような形で再び六条へ向かう日が来るなどとは、源氏には全く思いもよらないことだった。
六条が近づくにつれ胸が高鳴り、じっと座っていられない程になった。しかし、舅に向かって自分から言いだした以上、途中で引き返すことはできない。
車の御簾越しに、六条の屋敷の屋根が見えてきた。思えは五年ぶり程になろうか。それでも景色に充分見覚えはあった。
ただ、あの頃は荒れ果てていた屋敷も、今は立派に普請されている。これも自分の財によってなのだと思うと、源氏は妙な気持ちになった。もちろんそのようなことは、舅は何も知るまい。
対面したら何からきりだそうか、どんな会話をしたら、そしてどんな態度をとったらいいのか……。また向こうも、どんなことを言ってくるだろうか……。源氏の頭の中にはめくるめくいろんな状況が想定されては流れていった。これは運命のいたずらか、それとも前世の契りが浅からぬということなのか。しかしいずれにせよ、今の自分の立場は舅中納言の命を受けての小野宮家の一員としての陳謝の使いなのだと源氏はもう一度自分に言いきかせ、その分だけ少しは心が落ち着いた。
気の毒――網代車を見た時の思いが甦った。しかし、むしろ御息所の方が被害者であることを知った今は、あの時の高慢な思いは源氏の中で完全に砕けていた。今はただ、頭を床にこすりつけるだけだ。そう思いながら、源氏は惟光をまず邸内へ入らせた。
戻ってくるまでの間、彼の精神状態は破裂寸前で息もできないくらいだった。しきりに気を落ち着かせようとする。御息所の御簾の前にかしこまり「小野宮家の総代としてまかりこしました」と言上する自分の姿を、頭の中に思い描いていた。
やがて惟光が門より出てくる姿が、車の物見窓から見えた。
いよいよだ。惟光はすぐに牛飼いに指図して、車は門内へと入っていくだろう。五年ぶりのこの屋敷の門内へだ。
「申し上げます」
惟光はなぜか車の脇に来て、源氏を呼んだ。
「おう」
源氏は車の前の御簾を押して、その脇から首だけ出した。
「どうした?」
「実は、ご気分がすぐれずに伏せっておられるとのことで、お目通りはかなわぬとか」
「え?」
源氏は一瞬たじろいだ。強いてあがっていくわけにもいくまい。「文」という一文字が、源氏の頭をよぎった。ところがまるで先手を打つように、惟光は口を開いた。
「お文も御無用にとのことでございます」
源氏は言葉を失った。やはり御息所はかなりの衝撃を受けているらしい。もはやものすごい圧力が、門内から発せられているのを感じる。それに抵抗しようとすれは、車ごと木葉みじんになりそうだ。
「そなた、何と申し出でたのだ? 小野宮家の者と申したか、それとも私の名で申したか」
「両方でございますが。小野宮家総代として光源氏の君様が参上なさいました、と」
「そうか」
病であるというのは、あれだけの衝撃を打けたのだからあるいは嘘ではないかもしれない。しかし先手打って文も無用というのは、あからさまな来訪の拒絶である。小野宮家の総代と言ったのに断られたのなら、やはり今回の事件を怨恨に思っているのであろうし、源氏の名で来訪を告げたのなら自分に対する私怨ということになる。
しかし両方告げたと言うなら、どちらの理由での拒絶かわかうない。あるいは両方かもしれない。御息所とて騒動の相手が小野宮家の娘で、源氏の妻であることは知っていよう。
「源氏の君様。何か申し様が悪しうございましたか?」
源氏が何か考えこんでいるようなので、惟光は心配そうな顔つきをした。
「いや。とにかく車を帰してくれ」
今はそうするしかなかった。
源氏はひとつため息をついた。肩すかしをくらった気分だった。あれ程高鳴っていた胸も、次第に平静に戻りつつあった。
結局はこうなのだ。前世の因縁浅からぬと思ったのも結局は思いすごしかと思うと、またもやため息が出た。しかし内心半分は、ほっとしたというのも嘘ではなかった。
さすがに舅へは本当のことは復命できなかった。そうすれは波風をさらに立たせることになるという判断は充分にできる。対面して謝罪し、すべてがうまくまとまったと、舅へは言っておいた。
そのまま宮中へは戻らず、源氏は久々に自邸の二条邸へと下がった。
その翌日が、賀茂の祭りの本祭である。この日の祭使は右近衛中将である宰相中将が務めることになっていたので、源氏にとっては
本来ならそのまま自邸で休みたいところであったし、祭りを見に行くなど御免蒙りたい思いだったが、そうはいかなかった。西ノ対の姫君との約束があった。西ノ対の姫にとって、二条邸へ来て以来の外出となる。
彼はこの姫を、自分の妻のような深窓の令嬢にはしたくなかった。
そうとう朝早く、源氏は西ノ対に渡った。姫はもう起きていた。
「早くに出発しないとね、車を立てる場所がとれないのだよ。あとから行って、騒動を起こすのも嫌だしね」
そう言う源氏の顔には、なぜか笑顔が浮かびにくかった。それでも姫は眠そうな目をこすりながらも、輝いた顔をしていた。
「いいわよ。早く行きましょう。私、ずっと楽しみにしていたんですから。今日のこと」
源氏は今さらながらに、姫の髪がのびているのを見た。ほぼ身長近くまでなっている。ここまで髪が伸びれば、いつ裳着をしてもおかしくない頃だ。ただ姫の髪は自然に伸びたままになっているので、少し手入れが必要だった。
「今日は髪をそぐのによい日ではなかったかな。少納言、惟光に言って、政所から故実にくわしい人を呼んできてくれ」
「はい」
少納言は早速、出ていった。
「この間の地震は、大丈夫だったかい?」
「大丈夫じゃなかった、もう。庭にとび出しちゃったんですよ。お兄さまはいてくれなかったし」
「悪かった、悪かった」
源氏ははじめて笑った。この姫といると、いかなる精神状態の時であっても、自然と自分に笑顔が戻ってくるから不思議だった。思えば西ノ対だけが、この屋敷で空気が違う。明るいのだ。若い女房や姫の遊び相手の娘も多くいるせいだからかもしれない。いわば二条邸の秘密の花園が、この西ノ対なのである。
「でも、最近地震が多いでしょ。少納言とも、そのうち大きいのがドカーンと来るんじゃないかなんて、話してましたのよ」
「また、そんな不吉な」
やがて家司より
「女房たちは先に出かけなさい。私は姫の髪そぎをしてからにするから」
その源氏の言葉に、乳母の少納言を残して女房たちは嬉しそうにいそいそと出ていった。
髪そぎとはのびた髪の先を、きれいに切りそろえることである。決して髪を短く切ることではない。なぜなら今姫は、一人前の大人の女性になるべく、髪を伸ばしている最中なのだ。
「またすい、ぶん多い髪の量だね。髪は長くても、額の方は短い方がいいのだよ。長くそろいすぎてるよ」
源氏の言葉とともに、はさみの音が室内に響く。
「さあ、終わった……干尋!」
源氏が叫ぶ。干尋とは髪そぎのあとに必ず言う習慣になっている言葉だ。姫はそれまで立っていた碁盤の上から、そっと降りた。
「さあ、出かけようか」
「ええ」
姫は明るくうなずいた。
やはり本祭とあって、一条大路は御禊の時以上の人出だった。物売りの声もやかましく響いている。車の中で左右に姫と向かい合って座りながら、源氏は心がなごんでいることに気がついた。本当に不思議な姫だ。いろいろと話をしているうちに、世俗の垢がすべて祓い浄められていくような気にもなってくる。
もしかしたら自分の心に暗く重圧がのしかかっていたのは、この姫と接してなかったからなのではないかとさえ思われてきた。
しかし今日という日が終わり、
だが今は目の前に、明るい姫の笑顔がある。せめて今日一日は、政務のことも何もかも忘れよう。それがたった一日の間の夢だとしても、その夢に酔おうと源氏は思った。
やがて行列が来た。今日は一条大路から
「お兄さま。来ましたよ」
二人で身を乗り出して車の前の御簾越しに見ると、一条大路の彼らの車の前に行列がさしかかった。
この日の祭使の宰相中将の、冠に葵をかざした姿もいちだんと映えて見えた。
「見て。お兄さま。きれい。あの方がお兄さまと同じ中将様なのね」
姫は目を細めて、馬上の宰相中将を見ている。源氏はそんな姫の黒い瞳を、じつと見つめた。姫が見ているのは、自分の父親なのだ。だが姫は知らない。知らないで見ている。源氏は心がしめつけられる思いだった。
やがて唐庇車の眉や軒に、葵の葉と藤の花をたらした斎王の車が通り過ぎた。
行列も、すべてが行き過ぎようとしていた。源氏の日常は、またすぐ翌日から始まるはずだ。
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