月がかわり梅雨期に入っても、今年はなかなか入梅の気配がなかった。雨というものは降り過ぎても始末に因る。そこで農時に適宜な雨を祈るらめ、大極殿に僧百人を招いて三日間大般若経を読ませるということがあった。次いで奈良東大寺の講堂の落慶とその本尊の新仏の開眼供養があり、その時は僧は千人集まった。

 その頃になると、源氏の妻の腹も妊娠の姿が顕著になってきた。今や源氏はほぼ小野宮邸の西ノ対に常住している。そのことは二条の対ノ姫の諒承はとってあった。さすがに成長した様子を見せ、彼女はわりきって承諾してくれた。

 着帯の儀も滞りなく行われた。習慣どおり、源氏自らが妻の腹に岩田帯を巻いた。なにしろはじめてのことなので緊張したが、儀式習俗に貪欲な彼は、ことの次第をしっかりとあとで記録することを忘れなかった。

 その日からというもの、毎日西ノ対に僧の加持の声が響くようになった。室内が護摩木を焚く匂いが充満したのは、宮中ばかりではなかったのである。

 その宮中でのもっぱらの話題は、西海の海賊だった。

 今は玄蕃頭げんばのかみと地位はそう高くはないが、源氏の父院の代の勅撰和歌集の選者でもあり歌人としては当代その名を知らぬ人もないような男が、前任は土佐守で受領として任国に赴いていたけれど、この春にその土佐守の任を終えて帰京してきた。その帰途の海路の海賊の恐怖を彼が語るのが、彼の歌人としての名声ゆえに宮中に広がっていた。

 瀬戸内はかなり海賊が横行しているようで、一向に平定される気配はなさそうだとのことである。


 夏も盛り頃、朝廷ではまたもや諸神社に海賊平定の祈願のための御幣を奉ずることになった。これで何度目かは分からない。ただ、そのことひとつ決まるまでに左近の陣では陣定じんのさだめが何日も続けられ、時には深夜にまで及んでいるようだ。

 そのようなわけで源氏は参議としてその座に座っている友人、宰相中将とも滅多に顔を会わせる機会がなくなった。

 妻の方は、あまり順調とは言えない状態が続いていた。僧の祈祷の中で、とこにつくことが多かったのである。なにしろはじめての経験なので、源氏は妊婦とは誰でもそのようなものかと思っていた。しかし妻に付いている年配の女房に聞くと、たいてい出産の間際までは誰でも普通に起きて生活しているものだという。源氏は自分の妻の状況が異常であることを知った。

 誰かにすがりつきたい。不安な心を訴えたい。だが適当な人はいない。二条の対ノ姫は、まだ若すぎて適宜な助言をくれるはずもなかろう。母もこの頃はめっきり弱っている。ほとんど寝たきりの状態だ。

 たまに二条邸に戻って母を見舞うと、自分の妻への不安を訴えるより、母の衰弱の方が目についてしまう。

「間に合うかねえ。孫の顔を見るまでに間に合うかねえ」

 そんなことを口癖のように言う母に、妻の状況悪化のことなどとても告げられない。なにしろ母にとって初孫となるのである。

 母を同じくする源氏の兄弟姉妹のうち長姉の女四宮は三十路を越えて今なお独身で、内親王ならよくある話だ。次姉は今の伊勢斎宮。兵部卿宮だった長兄は独り身のまますでに八年前、つまり源氏が十三歳の時に当時十八歳で他界しているし、弟の十五宮はまだ八歳である。

「母上、どうかお気をお強う。妻の身の上も、すこぶる順調でございますれは」

 今はそう言うしかない。

 思えばかわいそうな母だ。普通ならとっくに出家して、受戒したいところであろう。しかし斎宮の母という立場がそれを許さない。

 母にも頼れないとなると、あとは親友の宰相中将しかいない。宮中で会えないとなると、九条の自邸へ赴くしかなかった。

 舅には口実を作って、夕刻近くなり涼しくなってから源氏の車は小野宮邸を出た。あからさまに行き先を言えは、舅はあまりいい顔をしないのは分かっている。どうも兄弟の仲が悪いのは、あの一族の伝統らしい。

 彼らの父・摂政左大臣もその兄の故本院大臣とは、同母兄弟であったにもかかわらず犬猿の仲であったようだ。

 九条は遠かった。だが、無駄足にはならないはずだ。この日宰相中将が六日に一度の假の日であることは、宮中で確認はとっていた。

 久々に会う宰相中将は、笑顔で迎えてくれた。

「いやあ、遠いなあ」

 寝殿の廂に立って源氏は庭を眺めわたした。脇に宰相中将が立った。

「この庭を見てここも都なのだと、ほっとしたよ」

「どういう意味だい」

「だって東洞院を下がってきて七条を過ぎたあたりから民家すらまばらになって、空地も多くて草が伸び放題じゃないか。こんなさびれた所も都の中かと疑っていたんだよ」

「そんな、君」

 宰相中将も笑った。

「西ノ京へ行ってみたまえ。もっとひどいよ。都城の中が田んぼになっていたりするんだからねえ」

「そのような場所には、てんで用がないのでね」

 二人は声をあげて笑った。空は暮れなずんでいて、東寺の塔が赤くなりはじめた空に影を浮かびあがらせているのが間近に見える。東・北・西と三方を山に囲まれている都だが、ここは唯一山のない方角の南にいちばん近い所だ。左右の山も遠のいている。

「今日も暑かったな」

 と、源氏がつぶやいたが、今では幾分しのぎやすい風が庭面をわたり、ひぐらしの声がすさまじく響いていた。

 宰相中将に促され、源氏は身舎に入っていた。源氏のためには円座ではなく、畳が一枚用意されていた。宰相中将は主人の座を離れ、源氏と横に向かい合って座った。故実どおりにすれは年齢や身分は上でも、宰相中将は一世源氏である客人に上席を譲らねはならない。そのことを宰相中将も言いだして、

「君と僕の間だ。無礼講でいいな」

 と、自分でつけ加えて笑った。

「いいとも」

「しかし、しきたりと習慣の権化になろうといつか君と話したのに、おかしいな。でも、ま、いいにしよう。そのことだが、その故実について、そろそろ父から教命が頂けそうだ。兄もまだなのだよ。私の方から先にと父は考えておるように、私には察せられてね。その時には、ぜひ君もいっしょに勉強しょう」

「頼む」

 酒肴が運はれた。源氏はもう一度、首をひねって庭を見た。

「ここへ来るまではさびれた所に思ったけど、かえって風流を増しているかもしれないな」

「いいだろう。それに、私がここへ邸を構えたのにもわけがあってね。河原の向こうには父の建てた寺があるんだ。私は父の寺の寺守りよ」

 宰相中将は笑った。ひとしきり笑ったあと、杯を重ねながら宰相中将は源氏を見た。

「もうすぐ相撲すまい節会せちえだけどね、左近衛府の奏上は左大将である右大臣殿だよね」

「そう聞いているが」

「右近衛府の奏上は右大将ではなくって、右中将の私なんだよ。右大将按察使大納言あぜちのだいなごん殿から言われてね」

「はう、それはいよいよ君も晴れ舞台に登場ってことじゃないか」

「それが今まで左中将の奏例はあるけど、右中将が右奏を進した例がないと言っている連中もいてね」

「なるほど」

 源氏も杯を重ねた。侍女が酌を勧める。

「ところで、子供の方は?」

「そのことなんだ。今日、来たのは」

「前にも言ったけど、子供はいいよ。年齢は君とはそうかわらないけど、私にはもう六人も子供がいてね。男三、女三、まだみんな童形だけど、太郎君はそろそろかなと思うんだ」

「そろそろ?」

「加冠だよ」

「今、いくつで?」

「十二だ。みんなそれぞれの母の里にいるから、ここには一人もいないんだけど、こうなるとなんだな、妻の元へ通うというよりも子供の顔を見るために通うようなものだよ。いや、実に子供はいい」

「そうか」

「君にとっては初子だよな。私はその子の大叔父になるわけだ」

「それが、危ないんだ」

「え?」

 源氏の急に真顔になっての言葉に宰相中将も眉をひそめ、杯を持つ手をとめた。

「危ないって?」

「妻は病がちで、ほとんど休ませている」

「たしか着帯は?」

「済んだ」

「そりや、危ないなあ」

 宰相中将は小首をかしげ、少し考えこんだ。

「今この時期、母体が健やかであってこそ、母子ともに健康な出産ができるということだ。今その状況なら母体はおろか、お腹の子供にまで障りかねないからなあ。いかなる物の怪の仕業だろうか。君の北ノ方は今まで、誰かに怨みをかったことは?」

 源氏には思い当たることがあった。しかし、その相手は今も生きている。物の怪にはなりようがない。

 源氏はあえて首を横に振った。

「そうか。しかし今生ではなくて前世でということもあるし、あるいは君の北ノ方個人にではなくて一族に対する怨みの御霊ということもあるよな。とにかく祈祷だけはしっかりして早く調伏することだな」

「もちろん、ぬかりはないさ」

 源氏は一杯、杯を乾した。

「君に話して少しはすっきりしたよ。今まで誰にも訴えられなくてね。ところで話はかわるけど、君は子供は六人と言ったね」

「ああ」

「もう一人、いたんじゃないのか?」

「ああ」

 宰相中将は目を伏せた。

「いたけど、もうすっかりあきらめているよ。今ではもう、どこか別の世にいるのかもしれないしな」

「仮に生きていたとすれば、そろそろ裳着の頃では? さっき、太郎君が加冠と言っていたけど」

「そう。うちの太郎より三の君はちょっと若いくらいだな、たしか」

「もし、仮に、仮にだよ。三の君が見つかって、そして裳着ということになると君は腰結いの役を引き受けるかい?」

 一度は目を上げた宰相中将だったが、すぐにまた目を伏せた。

「もし本当に、そんなことになったら……それが実現したら……しかし、夢だな」

 宰相中将はしばらく、無言でうつむいていた。

「あの子の母親が不憫であっただけに、余計にいとおしい……」

 源氏は自分が立ちあがりそうになるのを、必死でおさえた。――実現するよ。夢じゃないんだよと、叫びたかったのを今はあえて抑えた。

 宰相中将の目尻に涙が光った。外はいつしか、もうすっかり暗くなっていた。

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