6
暦の上では秋とはいっても、まだまだ残暑は厳しかった。
妻の産み月なのである。小野宮邸だけでなく、自邸の二条邸でも源氏は修法を行った。もはや母に隠すこともできなかった。妻の里以外での修法は、異常事態を物語るもの以外の何者でもない。もっとも源氏は二条邸にたまに戻るのも、その修法の指図のためだ。母にも西ノ対の姫にも会っている暇はなかった。
この日も束の間の時間を割いて、宮中から二条邸へ直行した。僧や験者への禄について、惟光から相談を受けていたからである。
ところが二条邸へ着き、まだ束帯のままでいる時に小野宮邸より急使があった。妻の容態が悪化したのだという。源氏は束帯のまま、駆けつけた。
僧たちの祈祷の声はいちだん高く、それにも負けないくらいの妻のうなり声が渡廊を歩くうちからもう聞こえてきた。妻のそばには、舅の中納言がついていた。
妻は汗まみれになってうなり、苦しそうに
舅の隣に座り、源氏は舅と顔を見合わせた。舅とて蒼白な顔つきになっていた。二人ともしばらく無言だった。
「
やっと源氏は、震える声で言った。
「さっきから行っております。もう、いくつも物の怪があらわれましたが、まだ続きそうで」
「そんなにたくさんの物の怪が?」
部屋の隅には
「私はこの君の乳母でございました。この君を案ずるあまり、成仏もできすに漂っておるのでございます」
また鳴咽が始まる。この鳴咽とて憑依霊がさせている霊動なのである。
「案ずる心は分かるが、それが執着というもの。一切の執着を絶った時、煩悩から脱することができるぞ。人の肉身に
験者のさとしに、乳母の霊は回心したようである。すぐに依り座しから離脱した。
「物の怪は離れたのでは?」
源氏は、舅に耳打ちした。
「いや、先程からこの繰り返しだ」
たしかに目の前の妻の苦しみは、一向に変わらない。
「御霊の申すことは、鵜呑みにはできぬからな」
源氏は生まれてはじめて見る目の前で繰り広げられている霊の世界の実在の証のような現象に、戦慄を禁じ得なかった。いつか藤壷の宮が語っていた目に見えない世界の暗躍がいかにこの世にはたらきかけているかという話を、源氏は今まさに体験しているのだ。
また次の御霊が依り座しに
「苦しい、苦しい!」
依り座しは、胸をかきむしり始めた。
「修法が苦しい……ウツ、くやしい。くやしい。この
「御霊様の御怨みは、いつ頃のことか」
験者は落ち着いている。
「五百年。わしは五百年も幽界で、復讐の機会を伺っておった。この期に及んで、邪魔だてするでない」
「五百年も前の怨みと、申されるか」
「そうよ」
「今、あなたがいらっしゃる所は?」
「熱い! 熱い! 全身が火で焼かれる!」
「それはそなたの怨みの念が炎という形に化して、そなた自身を焼きたるぞ。それをサ卜れ。この
験者はさらに声をあげ、呪文をとなえた。霊は両腕を頭上で振るという激しい霊動を見せたが、やがて離脱していったようだった。
それでも妻のもだえは続いていた。そのまま深夜に及んだが、幾分小康状態になったので験者には休んでもらうことにした。僧たちの祈祷は交替で、昼夜を分かたず行われた。
退出
「そうとう執の強い物の怪が
「そんな!」
「そこをなんとか、頼む!」
中納言は突然、験者に向かってひれ伏した。験者は因ったような顔つきで、
「も、もったいない。そのようなことはなさらないで下さい。お任せあれ。御心配なく」
と、言って退出していった。
源氏は、九条邸で宰相中将から聞いた言葉が気になっていた。
怨霊といえば、親玉格は何といっても火雷天神である。しかし妻は故本院大臣の娘を母とはしておらず、雷公の怨みの
むしろ雷公という考えを裏がえせば……妻が怨みをかうべき人――今も生きているが一人いる。その人の父親は他ならぬ故本院大臣。もしかして本院大臣の御霊か、妻を苦しめているのは……。
六条御息所の存在を知らない人々の間でも、源氏とは全く別の経緯でそのことに思いあたる人がいたらしく、源氏の考えと同じ噂が流れだした。
小野宮家の一の君を苦しめているのは、故本院大臣の御霊ではないかと……。彼女だけが、故本院大臣の娘を母としていない。その娘が皇親源氏に嫁いだのが気に入らないのではと囁かれた。
「まさか。伯父御は雷公の御霊に、御霊となって祟るのを叱りつけた人ですぞ」
舅はそう言って、源氏の前で噂を否定した。
「しかし、かの車争いの御息所は本院大臣の…」
「それは、源氏の君様がすべて、解決して下さったのでは?」
舅にはそういうことになっている。しかし事実はそうではない。源氏はますますそのことが気になりだした。もし噂通りだとしたら、妻を苦しめているのは間接的に自分であるということになってしまう。
源氏は供に惟光だけをつけて、ひどくやつした車で再度六条を訪れた。
今度は案内を請わず、いきなり車を乗りつけた。この邸の家人も女房も、もとはといえば二条邸から源氏が遣わした者も多い。無下に咎められるはずもない。
取り次ぎの女房は戻ってくると、直接源氏の車へ。
「お会いになるともなさらないとも、とにかくぼんやりなさっていまして。ま、他ならぬ源氏の君様ですから、差し支えないと思いますが」
と、言上した。実際、源氏はこの邸の経済面の庇護者なのである。
通されて、身舎の御簾の前の廂の円座の上に源氏は座った。
「小野宮家総代で参りました。先日の祭りの日には、われらが家人がとんだ狼藉を働きましたこと、心痛の至りに存じます」
しばらく返事はなかった。しかし中に御息所がいることは、気配で分かる。
「あなたの北ノ方様は、
やっと戻ってきた言葉は、かすかに聞きとれるほどのか細い声だった。源氏は不吉な気になった。
まるで
「たいしたことはございません」
弱々しい声の御息所をはばかって、源氏はそう言った。
「ただ、わが舅などがあまりに大げさに心配しますので、お噂もお耳に入ったのでしょう。なにとぞ私に免じまして、先日のことは水に流して頂きたく……」
源氏は深く頭を下げた。また、しばらく返事はなかった。秋風だけが廂の上をわたっていった。
「五年……」
やっと聞こえてきた細い声は、そんな言葉だった。すぐに、すすり泣きの声が御簾の中からした。
源氏はとにかく当惑していた。しばらくなすすべもなくすすり泣きの声を聞きながらうつむいていたが、ふと思い当たることがあった。しかしそれを実行するには、用意がなかった。
源氏は渡廊の方を見て、そこへ控えている惟光に口ぶりだけで相図をした。惟光はすぐに察し、自分の
源氏は笛を吹きはじめた。五年ぶりの笛である。
御簾の中の泣き声は、いちだんと高くなった。それでも消えいりそうな、弱々しい声だった。
ひとしきり吹いたあとも泣き声は続いていた。もはや昔のように、御簾を上げてその中に入ることは源氏にはできなかった。
暇乞いをして渡廊を歩く源氏の背を、いつまでも泣き声は追っているようだった。
妻が苦しみだすのは、決まって夜中だった。昼間は噂のように平静をとり戻している。夜中にしか活動できない御霊のようだ。それがほとんど毎晩であった。だからといって宮仕えを休むこともできず、源氏は出仕中はうつろな目をしている毎日だった。
源氏はある夜、再び験者の
「こんな執念深い御霊は初めてじゃ」
験者はそうつぶやいて、さらに高らかに呪文を唱えた。
「苦しい」
妻の口がわずかに動いた。何かを訴えようとしている。
「ゆるめて下さい。源氏の君様に申し上げることがあります。お願い、ゆるめて」
源氏がそばに寄り、その顔をのぞきこんだ。
「何を、何をゆるめるんだ?」
「人払いを」
源氏が目で相図をすると、女房たちはさっと几帳の外へ出ていった。験者も同じだった。隣室では高らかに、修法の法華経を読む声が響いている。
「さあ、二人だけだよ」
源氏は嫌な予感がした。まさか遺言でも言うつもりなのか。すると、もうだめだということなのかと、妻を抱きあげる手は震えていた。その腹部が盛りあがっているのが、いっそう悲愴感をさそう。
源氏は妻の手をとった。
「あまり、悲しいことは言わないでくれよ」
妻の苦しみも、今は少し落ち着いているようだ。
源氏はこみあげそうになる涙を、必死でおさえた。今ここで自分が泣けば、不吉な予感を肯定してしまうことになる。
「気をしっかり持つんだ。がんはらなくちゃいけないよ。生まれてくる私たちの子供のためにもね。それに万が一のことがあったって、夫婦の縁は切れるものじゃあない。来世でまた必ず会えるんだから、気を落とさないで」
「そうじゃないんですよ」
妻は目を閉じていた。その口ぶりが、いつもの妻とは違う。眉間にしわをよせて、目を閉じながら妻の口は動いた。
「修法が苦しいので、とめてほしいんですよ。苦しい。こんなふうに魂があくがれ出て、あなたにお会いするなんて」
衝撃のあまり、源氏は寸前妻を抱く手を放してしまうところだった。抱いているのは妻であって妻ではない。そういえば妻は自分のことを「殿」とは呼ぶが、「源氏の君様」と呼ぶことはまずない。今や妻は完全に浮霊状態となっていた。
なんと霊は依り座しではなく、妻に
「わが妻にお憑かりなのはいかなる御霊か! 名乗りたまえ!」
あまりの大声に、女房たちも几帳のすきまからそっと中を伺った。験者がすぐにとんできた。また呪文を唱え始める。妻の顔は苦痛にゆらぎあえぎ声を発したが、それは明らかに妻の声ではなかった。
その声の下で、かすかに口が聞いた。
「五年……五年ぶりのお笛、かたじけのう」
「まさか……」
こんなことがと、源氏はただ呆然としてしまった。頭の中が真っ白になった。
もはや源氏には御霊が誰かと重ねて聞く必要もなかった。
妻に憑依したまま最後まで離れなかった御霊は、六条御息所の魂だったのだ。しかし御息所は生きている――すなわち
妻が苦しむのが夜中だけだったのも、御息所が眠ってからのことだったからなのだ。御息所は眠ったあと、あまりの執念に霊体と幽体がその肉体を離脱し、源氏の妻に憑依して霊障を起こしていたのだった。
幽体と肉体の間に霊波線がつながっている限り、その幽体が肉体から離れても彼女は死んだことにはならない。朝になるとまた霊・幽体は御息所の肉体に戻って彼女は目覚める。
それにしても、妻に憑依した御息所の霊が依り座しに移らずに直接に妻の中で浮霊したということは、御息所の執の深さを物語るものであった。
源氏は恐ろしさに、全身が震えていた。あの車争いの事件とて、相手が自分の妻でなかったら御息所はこうまで執念を燃やしたかどうか…。あの事件はきっかけにすぎなかった。
「五年…」と言っていた、御息所の言葉を思い出す。
今度は源氏が鳴咽をはじめた。本当に済まないと思った。
まず妻に対して、そして妻をこのような目に遭わせざるを得ないところまで追い詰められた御息所に対して……。
そして追い詰めたのは、自分なのだ。妻と御息所の両方への罪の意識と悔恨の涙が、あとからあとから源氏の頬を濡らした。
翌日、妻は嘘のように平静になっていた。
「物の怪はその正体を現されると、障りをやめることもございます」
験者はそう言上し、中納言から莫大な禄をもらって下がっていった。しかし出産はまだなので、僧たちの加持は続いている。
その日、摂政左大臣が自ら見舞いに来た。それを迎えるために、中納言も源氏も出仕せずに小野宮邸へいた。
妻はたいそう気分がよさそうだった。しかし、物の怪の正体が分かってしまっただけに、源氏には後味の悪い思いだった。
ただ、験者もああ言っていたことであるし、今はひと安心することにして、摂政左大臣が宮中へ戻るのとともに源氏は舅ともども出仕することにした。
その前に源氏は、ひとりで西ノ対へ渡った。妻は横にはなっているが目覚めていた。
まだあまり、言葉も発せられないようだ。それでもこれで今際の際かと思ったことを思い出すと、夢のような気持ちさえしてきた。
源氏が声をかけても妻は黙ってうなずくだけであったが、その顔には笑みさえ浮かんでいた。
「あまり話をしすぎて体に
源氏はそう妻に語りかけてから、女房に、
「お湯を差し上げて」
と、命じた。
「では、早くに戻るから。まずは自分が『よくなるんだ、元気になるんだ』って意志を持たなくちゃね」
そう言う源氏の顔を、妻はじっと見つめていた。
その熱い視線から離れ難く、源氏も妻の顔を見つめ続けていた。今、心がつながっていると、源氏は実感した。そんなにも妻と心がひとつになっているという感じがしたのは、今までになかった。
これが最後の別れだった。
源氏が宮中にいる間に、まずひとつの急使が届いた。遅くに出仕したので午後になっても源氏は宮中にいたが、そこへ急に妻が産気づいたとの知らせが届いた。
そして彼が残務を処理し、陽明門の外に停めてある自分の車まで歩いていく途中で、男児出産という次の知らせが届いた。
源氏が喜び勇んで小野宮邸に着くと、そこはまだ白装束のままの女房たちの号泣に満ちていた。
妻が出産のあとしばらくして、世を去ったのだという。
源氏は最初は耳を疑った。その衝撃と事実を受け入れるのに、かなり時間がかかった。そして何度も廊の丸柱をこぶしで叩いて、目を伏せた。
聞けば無事出産したということで、僧たちも禄をもらって引きあげた直後に妻は急に胸の苦しみを訴え、そしてそのまま逝ってしまったということだった。
隙をつかれた。
出産も無事に終えたのだからもう大丈夫と、皆が油断をしてしまった。
源氏はそのことが悔やまれてならなかった。父も夫もおらすに、ただ一人で死んでいかねはならなかった妻を思うと、ただただ不憫でならなかった。
喜びと悲しみが同時に訪れた日も、夕刻を迎えた。空にはもう数日で中秋の名月となる月が、すでに中天にあった。
妻がその形見として、今はまだ猿のようだが自分の初子を残していってくれたこと、そして乳つけの儀だけはすませてから逝ったことなどがせめてもの慰めだった。
摂政左大臣をはじめとして訪れた客は皆その来訪が、男児出産の祝いか弔問なのか、その立場に苦しんだ。これからは
しかしそのようなことは政所に任せ、源氏はただ呆然と妻の
今はまだ蘇生を願って、遺体は西ノ対に安置されている。しかしその願いも虚しいこととなった時、妻は鳥辺野の煙と消える。
そしてついにその時を迎えた後の帰り道、源氏は舅と車に同乗した。向かい合って座りながら、二人とも涙がちだった。
「なぜ生きていた時にもっと愛情を注いでやらなかったのかと、そればかりが悔やまれて」
「いや、そう御自分をお責めなさるな。あれも悪かったのだ。人一倍気位が高かったからなあ」
「いや私は、本当の彼女の心を見ようとはしなかった。やっと心が触れ合えたと思った矢先に……」
「源氏の君様」
中納言は車の中で、膝を源氏の方へ進めた。
「娘が
「ええ。若もおりますし」
源氏の君は目を伏せ、またひとしきり涙を流した。
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