源氏はそのまま、小野宮邸西ノ対に逗留を続けた。

 妻の他界による服喪は三ケ月。そのはじめの一ケ月間は、公務も特別休暇がもらえるので出仕しなくてよい。舅の場合は庶子の喪なので一ケ月、休暇も十日間だけである。

 親よりも夫としての自分の方が喪の期間も長いし、従って喪服の色も濃いのである。それが、もし自分が死んだのなら妻にとって服喪は一年で、さらに濃い色の喪服を着たであろうことを考えると、源氏は今さらながら妻に対して申しわけなく思う。

 若君は健やかに成長しているが、その期日ごとの産養うぶやしないも母の喪中なのでごく慎ましやかに行われた。舅は早速しかるべき乳母をつけた。これからも若君は小野宮邸で養育されることになる。

 源氏は毎日を亡き妻の菩提のための念仏に明け暮れ、時には女房を相手にして語ったりする。たいていの話題は亡き人の思い出話だ。それもあまりいい思い出はない。そのことが源氏には悔やんでも余りあることだった。

「もう何もかも捨てて、仏事に専念してみたいと思ったりするのだよ」

 秋も深まりゆく庭の草を見つめ、年配の女房にこんな愚痴ばかり言う日が続いた。

「何をおっしゃいます。まだお若い身空みそらで。源氏の君様はこれからの方ではございませんか」

「若もおることだし、そうもできないことは分かっているのだが…分かっているだけになおさら辛いのだ」

 ついつい涙がちになってしまう。夜になるともうこの間までの昼間の蝉の声にかわって、虫の声が庭じゅうで一響きわたっていた。

 彼が出家できない理由――それは若君だけではなかった。

 源氏は二条の対の姫君には、手紙だけを書いた。せめて四十九日まではと思うので、それまで辛抱してはしいと。そしてその手紙の返事はへたな慰めの言葉ではなく、ふけてゆく秋の風情にことよせて、怨みとはならない程度の自分への慕情がさらりと書いてあった。

 思えばあの姫と、ふみをかわしたのは初めてであったような気がする。そうする必要もない程に、いつも身近にいたのだ。

 その手紙の筆跡といい内容といい、全く一人前の女性のそれだった。

 妻を亡くした悲しみはそれとして、しばらく会っていない対の姫が懐かしく思われた。離れているだけに、今までは決して持ったことのない感情が沸いてきているようで、しかも妻の死んだ日が遠くなるにつれて、ほんの少しずつそれは大きくなっていっているようだ。

 もはや妙齢の女性への恋慕のようにさえ思われるが、今の自分は妻の菩提を弔う身と源氏はその感情が湧くたびに自粛していた。

 喪中なので、あまりあちらこちらに文を書くこともはばかられたので、二条邸の他には藤壷の宮にだけ、消息を遣わした。返事は当たり障りのない哀悼の言葉と歌が、そこには書かれていた。

 

 休暇の三十日が過ぎ、久々に彼は巻纓けんえいの冠で宮中に出仕した。会う人会う人が、悔やみの言葉を言ってくれる。それが時には虚々しくもあったし、冷たく感じたりもした。

 三十日間の空白が、自分を異邦人にしてしまったのではないかとも思う。この宮中で、果たしてこれから自分の地位は、どうなっていくのであろうかと、ふと考えてしまう。

 いくら一世源氏とはいえ、その権威のよりどころである父院はもうおられず、母の実家もないに等しい。舅はいつまでも小野宮家の一員と言ってはくれたが、そのかすがいである妻がいない以上、頼りにならない言葉だった。

 今、自分は天涯孤独で、宮中という大海に放り出されたのだ。まだ実感としては感じてはいないが、そうであるという予想が冷めた頭に理屈として居座っている。

 しかし宮中は妻が健在であった頃と何の変わりもなく、そして源氏が欠勤していた間も何ごともなかったかのように、旧態然としてゆっくりと時間を流していた。源氏の私事など、大きな宮中はおかまいなしなのだ。むしろ季節の方が、彼に早く妻を忘れさせるようにとでもいうのか、早く移り変わっていくように源氏には感じられた。


 ついに冬の到来だ。小野宮邸は家人や女房たちの更衣ころもがえとともに、室内装飾の取り替えでざわめきたっていた。

 冬になれば妻の四十九日になる。そしてその翌日が、若君の五十日の祝いなのだ。

 四十九日の法要は多くの僧を招き、荘厳に行われた。そしてその翌日の五十日の祝いは、若君の母の四十九日も済んだことだからとて、今まで控えていた分までも盛大な祝いとなった。摂政左大臣までもが臨席してくれた。

 そしてその席で源氏は、明日二条邸に戻ると左大臣と中納言に告げた。対の姫のこと、そして病弱な母のことなど気になることはいろいろあったが、これらはもちろん全く言いもしなかった。舅は強いてとめなかったし、とめるべき理由もなかった。

「若君もおられることですからこれからも、時折は訪ねて下さいよ。女房たちの中にも、これからはここがあなた様にとってただの思い出の場所になってしまうのかと、なげいている者もおりましてな。死に別れよりも、そんなことになったらもっと悲しいお別れだなんて申しておりました」

「そんな、それはその女房の思いすごしでございますよ」

「娘とはなかなか打ち解けてもらえなかったようで、お通いも少のうございましたけど、いつかはあなた様がこの屋敷の主になるとそれを思い願っておりましたのに」

 つい祝いの席では禁物の涙を、舅の中納言は見せた。

「妻がおりました頃は、その妻に免じてという中納言様の寛大さに甘えており、ついつい御無沙汰したりしてしまいましたけれど、もう妻はおりませんので甘えてもおられません。たびたび参上せねば……」

 源氏は言葉を切った。少し政治的意図を露骨に出してしまったかなと後悔したが、舅は気にとめているふうでもなく、摂政左大臣も何も言わずにいた。

 祝いの席が湿っぽくなってしまったが、その日が舅婿の別れの日になるのではないかと源氏は思っていた。これからもたびたび参上するとは言ったものの、その実行に関しては自信が持てなかった。あえて実行すれは、本当に政治的な意図だけになってしまう気がして、それが嫌だったのだ。

 翌朝、源氏は早朝に小野宮邸を出た。この屋敷にはもう二度と来ることもないのか――いや、そんなこともあるまい。息子もいるのだから――この二つの声が源氏の中で渦巻き合っていた。


 そのまま源氏は宮中に出仕し、昼過ぎに久々の二条邸へ戻った。

 邸内は冬の調度へのとりかえも終わり、きれいに掃除されていた。母は思ったよりも弱りきって、ほとんど寝たきりの状態になっていた。

「母上。生まれましてございまする」

 母は黙ってうなずいていた。源氏が喜び勇んで報告できないということは、母とて家司か女房あたりから聞いて知っているはずだった。

「間に合ったのう」

 力なく母は言う。

「この上は母上に早く元気になって頂いて、御対面もしていただかねば」

 またもや無言でうなずく母の口もとに、わすかに微笑が見られた。

 そのまま源氏は、西ノ対へと渡った。彼の来訪を告げる先駆の声に、今までなら姫は走ってきて自分に飛びつくはずだった。

 ところが姫は、妻戸の内で手をついて自分を迎えたのだ。

「どうしたんだ。気持ち悪いなあ」

 源氏も高鳴る自分の胸を鎮めて、わざと落ち着いて、そして笑んで言った。

「だって、お兄さまは悲しい目にお遭いになりましたのですもの。私もお祖母ばあさまが亡くなった時、どんなに悲しかったかを思い出しておりましたから」

 そう言って姫は、やっと目を上げた。源氏の胸の中で、大太鼓が激しくひと打ちされた。

 その黒い瞳はもはや、少女の目ではなかった。麗わしきひとりの女性が、目の前に畏まっていたのだった。

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