今までどおり明るく、くったくなく笑う姫であったが、そのところどころに源氏が妻の喪中であることへの気配りが感じられた。

「しばらく見ない間に、ずいぶんと大人になったねえ」

「またあ」

 姫は笑ったが、その目元に男をドキッとさせるものがあった。

「これは、こんな明るいうちに来て場違いだったかな。一度戻って、夜になったら出直して来ようか。姫のもとへ通う男の第一号だ。私はそして後朝きぬぎぬふみなんか……ね」

「え?」

 姫は不思議そうな顔をして、小首をかしげた。やはりまだどこか、情緒的には子供の部分が残っている。

「冗談だよ」

 今度は源氏が大笑いをする番だった。

「それはともかく、いろいろつのる話もあるんだけれどね、なにしろ忌々いまいましい身だから今日はこれで。明日は休みだから、明日また来るよ」

「え? 明日まで来ていただけないの? お兄さまと遊ぶことだけを、楽しみにしていたのに。あ、ごめんなさい。お兄さまは今そんなお気持ちじゃないのですよね」

「こいつ」

 とにかくいとおしくて、源氏はその頭をなでた。

 そうしてからはっとした。もうその動作にはふさわしくない姫なのだ。触れてはいけない禁忌に触れた気がして、胸が思わず高鳴った。

 久しぶりの二条邸で寝る夜、ふすまをかぶっても源氏はいつまでも眠れずにいた。

 衾とは漢籍などでは後の世でいう掛け布団のことだが、このころの日本には掛け布団などない。厚めの小袿こうちぎなどの着衣を掛けて寝ていたので、便宜上それを衾と呼んでいる。

 源氏はその衾の中で、目をつぶって考えた。

 姫はそろそろ裳着の頃――裳着といえば結婚を前提として行うもの。つまりもう結婚してもいい頃なのだ。いつまでも「お兄さま」ではいたくないと。ましてや、本当に「お兄さま」として義理の弟をこの邸に迎える気など微塵もない。自分が「お兄さま」ならば、義理の弟も自分なのだ。

 姫は十二歳、正月が来れば十三歳で、女性は早い人ならそろそろ結婚の年頃である。

 それに昔、初めて姫を北山の寺で見かけたとき、尼君に姫を引き取りたい旨を申し出たら、尼君は「あと四、五年してからもう一度おっしゃってください」と言っていた。今、あれからちょうど四年、来年の春になれば五年になる。

 今が時期か――しかし、今は妻の喪中。いくらなんでも世間が許さない……か? 世間だけでなく、自分の心は…??? いや、自分の心に正直になれば…。

 姫は今の自分にとって、かけがえのない存在なのだ。もはや猶予はできない。妻と夜をともにしたのは、年に何回ほどだったか。指で数えられる。それに引きかえ対の姫は、同じ邸内で春秋をともに送ってきたのだ。今までは妹という感じだった。しかし今の、少なくとも源氏の方はそう思ってはいない。

 これまでの縁を考えたら今この時期でもいいのではないかと、彼は論理を振りかざして、躊躇するもう一人の自分を徹底的に斬りつけていった。

 青年としての熱い心が燃えたぎった。自分でも恐ろしい程の力が沸いてそれが全身を満たし、ますます眠れなくなった。そんな心に斬りつけられながらも、わずかに息をつないでいたもう一人の自分は、同時に亡き妻への詫びをひそやかに入れているのであった。


 翌日、五日に一度の假の日なので、源氏は朝から西ノ対に渡った。いつもは女房相手に時を過ごしていたのであろう姫だったが、今日だけは女房たちもお役ご免だ。その中に一人、源氏の目をひいた女房がいた。往年の犬君いぬきである。

「犬君も今は、一人前の大人の女房になったね」

 源氏が言うと、姫はいたずらっぽく首をかしげた。

「だめよ。手出ししちゃ。女房といっても、私のお友達なんですから」

「こりゃ、釘を刺された」

 源氏が笑っている間に、姫は早速碁盤を出してきた。

「ねえ、久しぶりに碁を打ちましょうよ」

 仕方なく源氏がそれにつきあうと、姫は大はしゃぎで次々と石を打ってくる。

 不思議なものだった。とにかくこの姫と相対していると、あの自分を襲っていた重圧感も、祭りの日から妻の死に至るまでのすべての出来事も、宮中での自分への冷たい空気も、何もかもが白紙となって心がなごんでくるのだ。

 もしこの姫がいなかったらと思うと、源氏はおそらく人格が破綻していたであろう今の自分に思いあたり、背筋が寒くなる。ふと北山の寺の麓のいおりを思い出した。

 紫雲亭――今まで忘れていたそんな庵の名さえもが、なぜかこの時は頭に蘇ってきた。紫雲亭で見つけた少女――その紫のゆかりの少女が一人前の姫になって、今目の前にいる。あの時、少女をはじめて見て自分の中に衝撃が走ったのは、こうなる運命を知っていた前世記憶が呼び戻されたからに違いない。

 しかしその運命を、今の現実だけの段階に止めてはいけないのだ。

「どうしたの、お兄さま。ぼーっとして」

 姫に言われて、源氏はやっと我に返った。

「さっきから碁じゃなくって、私の顔はっかり見て。顔に何かついてる?」

「あ、ついてるよ」

「え、何?」

 あわてて顔をこする姫。

「あ、鼻がついてる」

「もう!」

 源氏の笑い声に姫の笑い声が重なって、室内に響く。なんと長い間、こんな魂の愉悦を忘れていたことかと、笑いながらも源氏は思う。今までは妹のような存在だった。今もまだそうである。だからこそこの年齢の少女の顔を、じっと見つめることすら許される。姉妹でも同腹でなければ、とても許されることではないのに、だ。

「さあ、お兄さま、打って」

 ひとつ石を、源氏は置いた。

「ねえ、姫と私の関係って、何なのかな」

「え、私って、お兄さまの妻じゃないの? そりゃ、いちばんの北ノ方様はいらっしゃったけど、でも男の人ってたくさん妻を持つものでしょう?」

 姫は自分が言っていることが分かっているのかと、源氏には疑わしかった。

「ねえねえ、囲碁もあきたから、弾碁しましょう」

 碁盤と碁石を使った、いわゆるおはじき遊びである。姫はもう、そのように碁石をふちに並べはじめていた。

「姫。もっと風流な遊びはいかがですか。琴と笛を合わせたり、歌を詠んだり」

 源氏がおどけて言うと、

「え、やだあ」

 と、姫は顔をしかめた。やはりまだまだ子供である。


 その子供であることが、源氏の思いにとって幸いした。

 夜になって、今夜こそはと思っていた源氏も、そのすべについてはなかなか思い当たらないでいたが、とにかく、

「今夜は泊まっていっていいかな」

 と、言うと、素直に姫は喜んだのである。

「お兄さまといっしょに寝られるなんて、何ケ月ぶりかしら」

 世間一般のこの年齢の女性にとって考えられもしないようなことを、この姫は平気でしようとしている。少女のうちから自分の手の中で育てたのは正解だったと、源氏には思われた。

「姫様、そんな。姫様はもう子供ではございませぬから」

 横から乳母の少納言が口をはさむ。

「そう、姫は大人なのですよ」

 意味ありげに源氏は少納言に言って、目で相図した。少納言ははっとした表情を見せた。あとはもう何も言わす、嬉しそうに引きさがっていった。

 ひとつふすまの中に二人で入って、寝物語は続く。今まではそのうち姫の方がうとうとして、そのまま二人とも眠って朝を迎えるのだった。

「ねえ、姫はもう大人なんだね」

「ええ、大人のつもりよ。大人だったら、こうしてお兄さまといっしょに寝ちゃいけないの?」

「いや、いいんだよ。大人なんだからこそ、いいんだよ」

「よかった」

 今までのように、姫は寝つきかけていた。そのぬくもりが、今の源氏にはとてつもなく熱く感じる。

「姫は、私の妻なんだね」

「そうよ。ねえ、もう眠たい」

「ちょっと待って、大人であり妻ならは、しかるべき儀式をしなければね」

「え? 儀式? 裳着のこと?」

「それもあるけど、その前にやる二人だけの儀式だよ。今日から三日間、毎晩」

「今日から? 今するの? せっかく寝たのに、また起きて?」

 少々情緒未発遠かなと、そう自分が育ててしまったことを源氏は少しだけ悔いたが、そのまま続けた。

「起きなくていいんだ。今、ここでこうやっていてできるんだよ。いいね、始めても」

「いいわよ」

 姫は寝ぼけていた。その証拠に、その言葉のすぐあとに、すでに姫は半分眠りに落ちていたのだ。

 源氏は上半身を、姫の上にかぶせた。そして頬を合わせ、そのからだをしっかりと抱きしめた。

 姫は目を明け、何も見えない闇を驚きの表情で見わたしていた。

 源氏の手がのびて、紅袴のひもを解く。小袖の中に手を入れると、充分ではないがほんの少し発達が感じられる胸があった。

「え? お兄さま、何をするの?」

「静かに。儀式っていっただろう」

 それからは源氏は無言だった。紅袴をとり、小袖の間から下半身に手を忍び込ませる。下腹部には早春の若草のような淡いものではあったが、充分に大人のしるしの手ざわりがあったので、少しだけ源氏は安心した。

「やだあ、やめてえ! お兄さま! やめて!」

 姫がいくら叫んでも、乳母はもう了解していて、他の女房を寄せさせない。それに源氏にとってここは自邸だ。声が西ノ対から外へ洩れても、全く気兼ねは不要だった。

 二人が一つになるのは姫が痛がってなかなか困難だったが、やがて一体になると姫はひたすら苦痛の泣き声をあげていた。

 ことが終わってからも、姫は一晩じゅう泣いていた。


 翌朝は源氏だけが、一人先に起きた。源氏は出仕しなけれはならない。


  年月は わが身にそへて 過ぎぬれど

    思ふ心の ゆかずもあるかな


 源氏の後朝きぬぎぬの文である。頭から衾をかぶって起きようともしない姫の枕元に、源氏はそれを結び文にしてそっと置いてから出た。

 昼過ぎに宮中から戻ると、源氏は早速西ノ対を訪れた。

「姫様はご病気でしょうか。朝から御几帳のうちから出ていらっしゃらないのですよ」

 事情があまり分かっていないらしい女房が源氏に告げたが、源氏はただ含み笑いをして何も答えなかった。

 几帳の中では、姫はまだ伏していた。

 源氏の女房とのやりとりを聞いてその来訪を知ったらしく、またもや衾を頭からかぶってしまう。

「どうしたんだい? 気分が悪いのかって、みんな心配してるよ」

 それでも返事がないので、源氏は姫の指先の抵抗をはねのけて、衾をはがした。顔を上げさせようとすると、今度は姫がその源氏の手をはねのける。

「ずいぶん嫌われてしまったね」

 それでも姫は、石となって黙していた。

「出直すとしよう。なんだか恥ずかしいからね」

 源氏はそう言って反応を待ったが、それでも石は動かない。仕方なく、源氏は自分の言葉に従うしかなかった。

 夜も更けてから、もう一度源氏は忍んできた。女房たちも今は心得て、全く姿がなかった。

 源氏は几帳の内に入った。姫はやはり伏せていた。源氏は手をついて、その衾の中へ入ろうとした。

 その時、源氏の手にふれたものがあった。今朝彼が書いた後朝の文である。結びもほどいてはいなかった。

「やはりまだ、子供だったんだね。悪かったね」

「あやまらないで」

 やっと聞きとれるくらいの声。はじめて姫の口から言葉が出た。ところが次の瞬間、姫は横になったまま源氏に背を向けた。

「分かった。今日は何もしないよ。でも、ここに泊まっていかないと儀式にはならないから、それだけはいいね」

 その時、妻戸を小さく叩く音がした。女房はいないから、仕方なく源氏は起きあがって、妻戸を少し開けた。そこには惟光がいた。源氏が自ら出てきたものだから、びっくりして惟光はかしこまったまま源氏を見あげていた。

「あ、これは。もうお休みで」

「どうしたんだ。こんな夜更けに」

 それが実はまだ暗くなったばかりで、夜更けではなかったのである。

「今日は餅の日ですから、その亥の子餅をと思いまして」

「ああ、そうか。そうだったな」

 亥の子餅とは十月の亥の日の亥の刻に食べる餅のことである。この日がその亥の日に当たっていた。

「まさかその、もうお休みとは思いませんでしたので」

「それでこの対の屋に?」

「はい。源氏の君様は喪中ですからと思いまして。こちらの対の姫様にと」

「気がきくなあ」

 源氏は嬉しくなって、惟光の目の高さと同じくらいまでしゃがんだ。

「気がきくついでに頼みたいんだ。実は明日頼もうって思っていたんだが、今でいいや。この餅は、明日持ってきてくれないか」

「え?」

「今日は日がよくない。明日の暮れに、こんな大げさでなくていいから」

 源氏は微笑んだ。その微笑の中に、惟光はすべてを察したようであった。

「そうだったんですかあ。いや、まいったな。そうだったんですか。それで、明日だったら亥の子じゃなくってですけど、その子の子餅はいくつくらい?」

「この三分の一くらいでいいよ」

「分かりました」

 惟光も満面に笑みを浮かべて戻っていった。

 翌日の夜、銀杯三杯に盛られた餅が、よく訳の分かっていない若い女房によって届けられた。

「これも三日夜餅といってね。大切な儀式なんだょ」

 源氏はそう言って、無理矢理姫を起こした。あれ以来姫は、儀式という言葉を聞くと、身を固くしてしまう。それでも無言ではあったが、源氏の言うとおりにして姫は三日夜餅を食べた。

「今日は露顕ところあらわしだよ」

 手を打つと、陰で控えていた女房たちが、一斉に繰り出した。家司たちによって宴の準備がされる。

 格子も上げられて庭で篝火が焚かれ、室内も急に明るくなった。

「これで姫も、正式に私の妻になったんだ」

 源氏に囁きかけられて、一瞬だけ姫は微笑を浮かべた。しかしすぐに、元の無口に戻ってしまう。

 本当はまだ喪服のはずの源氏も仏前で手を合わせて許しを乞い、この日ばかりは喪服を脱いでいたのだった。

 新しい妻は亡き妻の従妹。それだけで許してくれそうな気がした。

 すぐに酒宴となった。宴にいるのは家人と女房だけだった。源氏の母はならわしとして参列しないし、また参列できる身体でもない。参列すべきは妻となった人の両親親族だ。しかしそれは、誰もいなかった。いようがなかった。

 姫のよそよそしさは気になるが、それでも源氏は感無量だった。

 これが本当の自分の婚儀なのだ。自分の意志での婚儀なのだ。前の妻の時は、亡き彼女には申しわけないが、何がなんだかわけが分からないうちに、大人のいうなりに執り行った。今は違う。今は自分は大人である。一世一代の晴れ舞台を、自分で演出しているのだ……。

 そう思うと、どんなに冷たくそっけなくても隣の新妻がいとおしくて、生涯をともにできる自信すら湧いてくるのだった。

 乳母の少納言が、泣きじゃくった顔で源氏の前に進み出た。

「源氏の君様の、その御名のとおりの光り輝く御ふるまいに、ただただもう……。こんなに盛大に、そして正式に姫様をめとって頂けるなんて」

「いや、そなたにも礼を言うぞ。それよりも、やはり寂しいな。これでは姫は私の妻となったとしても、後ろ盾がない。私の妻として世にも知らしむる以上、その出自を明らかにしないとな」

 思いつきではない。この三日間、源氏が考えていたことだった。

「裳着の儀もせねばな」

「あのう、姫君の御父上のことは?」

「知っているさ。その方の娘御を妻にしたと、世にも広めるぞ」

 源氏はためらいもなかった。婚儀には多分に政略的意図も含まれる。源氏はもちろんそんなことは計算には入れてはいなかったが、結果としてついてくることになる。

「源氏の君様」

 少納言は感涙ひとしおだった。

「正式の婚儀で姫様を迎えて頂いただけでなく、その出の筋もきちんとなさってくださるなんて…世にも果報な方こそ姫様ですよ。亡き尼君が、あちらでどんなに喜んでおられることか」

 ところが当の姫は表情も変えずに、ただうつむいて座っているだけだった。

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