それからしばらく宿直とのいが続き、源氏は二条邸へ戻れなかった。

 宮中は今年の新嘗祭に向けて動きだしている。また、源氏の父院が九月に崩御されて以来御忌月とて九月の重陽ちょうようの宴は廃止されていたが、この年は冬の十月になってから一ケ月遅れで菊花宴が執り行われた。場所は宮中三殿のいちばん北、最も後宮に近い承香殿の東廂で、源氏は久々に帝の龍顔を拝した。一天万乗の君とはいえ今まではとにかく少年だったが、いよいよその帝にも青年の面影が拝せられるようになった。

 ようやく源氏は二条に戻り、早速にも西ノ対に渡った。

 姫は伏せているわけではなかったが、源氏が部屋に入るとつんと横を向いてしまう。話しかけようとすると、わざとらしく女房の名を呼んでともに遊ぶことを促すのだ。

 これでは前の妻と同じだと、源氏は頭をかかえる思いだった。

「ふだんは今までと変わらす、明るい姫様なのですよ」

 乳母の少納言が、気の毒そうな顔をして近づいてきた。

「それでは源氏の君様が、かえっておかわいそうで。本当に申しわけございません」

「いいさ、あなたのせいじゃあない。私はよっぽどついていないと見える。これもきっと前世で私がしでかしたことの報いなのだろうね」

 苦笑いをして、源氏は退散するしかなかった。

 姫は亡くなった前の妻とは従姉妹、やはり血は争えなしのだろうかとも思う。しかし姫は違う、ということを彼は信じたかった。あれほど心配りができ、思いやりのある姫だったのだ。源氏はふとはじめて姫をこの屋敷へ迎えた時、怯えてすねる姫を手こずりながらもなだめたのを思い出していた。


 本格的な冬のさ中となると、いよいよ新嘗祭だ。それが終わると都には雪が降りはじめたりする。

 その頃に新嘗祭も終わってひと息ついているであろうはずの宰相中将の九条邸を、源氏は訪ねた。この日ばかりはただの世間話をするための訪問ではない。ある意を決し、それを胸に秘めて源氏は車に揺られていたのである。

 突然の源氏の来訪と久方ぶりの対面に、寝殿の南面で宰相中将は相好を崩していた。

「つくづくここは遠いね」

 源氏はつぶやいて、庭の木立を眺めていた。それでも僻地なりに、庭には趣興がこらされている。

「車の中でも寒くてね。君はよくここから毎日通っているものだ」

「四条より北には、なかなか手ごろな場所がなかったんだ。次男坊の辛さだよ」

 宰相中将はひとしきり笑ったあと、自ら源氏に酌を勧めた。

「この間の新嘗祭だけどね、またちょっともめたよ」

「何?」

 手酌で自分の杯に酒を注ぐと、宰相中将は苦笑とともに話しはじめた。

「誰が警蹕けいひちを唱えるかでね」

 警蹕とは帝の出御の時、それを知らせる「ウォ-シー、ウォ-シー」という声である。これはふつう近衛大将の役となっている。

「大将が不在だったらどうするか、なんだよ。問題は」

「それは中将の役と心得ているけど」

「そうだろう。ところが大納言が警蹕を鳴らそうとしたんだよ。昔、故本院大臣が宰相中将だった時に大将が不在で、その時警蹕を鳴らしたのがあの河原左大臣だったから、役が違うといってもめたことがあったんだ。みんな故実を知らないから、同じことでもめるんだよ」

 平静の不満を、宰相中将はすべてぶちまけたかったらしい。

「あ、すまん」

 源氏の杯が空になったのを見て、宰相中将はまた酒を注いでくれた。今度は源氏が返杯をした。

「ところで君も大変だったな。何かと淋しいことだろう」

「ああ。でもやっと喪服も脱げて、少し心も落ち着いた気がするよ」

「これでもう大っぴらに、夜な夜な通い歩きができるってもんだな」

「そんなことはしない。君とは違う」

 源氏はひとしきり笑った。宰相中将も笑っていた。

「ああ、そういえば君は、自分の屋敷の西ノ対に姫君をかこっていたね。すっかり忘れていたけれど、あの姫君はまだいるのかい?」

 源氏は急に真顔になった。

「実は」

「何だ、急にあらたまって」

「そのわが二条邸の西ノ対の姫なんだが」

「ああ、やっぱり本当だったのか。どこの姫なんだ?」

「ちょっと待って。順を追って話すから」

 源氏は杯を置いて、目を伏せた。

「実は、妻の喪も明けたから言うが、その姫と先日、婚儀を行った」

「え? 先日? なぜ? だってすっと君の屋敷にいたんだろう? あ、今まではただの愛人だったってことか?」

「いや、違うんだ。聞いてくれよ。実はな、その姫は、裳着の儀がまだなんだ」

「え? なんだって?」

 話がよくのみこめないようで、宰相中将も杯を置いた。

「今まで裳着すらできない、そんな身分の低い姫だったのか」

「いや、そうじゃない。姫は今度の正月で十三になる」

「十さぁぁぁぁぁん?! じゃ、じゃあ」

「そう。昔、君が姫のことで僕をからかった頃は、まだ十にも満たない子供だったんだよ」

「どうして、そんな子供を。まさか子供の頂から好みの女に育てあげて、そして……なんて考えてたのかい? そうだとしたら、悠長な計画だよなあ。気が遠くなりそうだ」

「そういうことでもないんだ。で、話というのはここからだ」

 また源氏は居を正した。

「その姫の裳着の腰結いを、君に頼みたいんだ」

「ええッ! なぜ? なぜ私なんだ?」

「君とはじめて会った頃だったんだよ、姫と出会ったのも」

「ああ、懐かしいな。北山の花吹雪の中だったな。でも、ただそれだけの理由で?」

「君はあの時、行く方不明の娘御を捜しに来たんだったよな」

「よく覚えているなあ」

「いいかい。これから言うことに、ちょっと口をはさまないで最後まで聞いてほしいんだ」

 源氏はむしろ無表情で、淡々と対の姫の素性、尼君の死、自分の屋敷へひきとった話をした。次第に宰相中将は、口をぽかんと開けだした。

 源氏が話し終えても、宰相中将はしばらく言葉が出ないようだった。

「なんと、不思議な話を……」

「今まで隠していて悪かった。しかし、姫を手放したくはなかったんだ。許してくれ」

 源氏は頭を下げた。宰相中将は慌てて、

「頭を上げてくれ」

 と、言った。

「許す許さないなんてことじゃない。僕の方が君に礼を言わなければいけないんじゃないか? このとおり」

 今度は宰相中将が頭を下げた。そして再び頭を上げた時、源氏は宰相中将の目頭に光るものを見た。あわてて宰相中将は、その両目をおさえていた。

 源氏が何か言いかけたが、宰相中将は黙ってそれを手で制した。

「ちょっと、ちょっと待ってくれ」

 そしてそのまま目頭を押さえ、うつむいていた。感慨にふけっているという様子で、そのままかなりの時間が経過した。

 そして静かに顔をあげ、泣きはらしたような目で源氏を見た。

「ごめん。続けてくれ」

「姫の喪着の腰結いの役、引き受けてくれるね」

「もちろんだ。とっくにあきらめていた三の君と、また会えるなんて夢みたいだ。ありがとう。君が守っていてくれたんだね」

「私を怒らないのかい?」

「怒るものか。あの時私はさんざん尼君や乳母に三の君を引き取る旨を申し入れたけれど、断固渡してはくれなかった。君が私の代わりに引き取ってくれなかったら、尼君が亡くなった後あの乳母はどこかに隠してしまっただろうけれど、乳母と姫君だけで生きていけるわけないじゃないか。君は恩人だよ、それに、もし私が引き取っていたとしても、三の君をこの九条邸に住まわせるのは無理だった」

 そう言ったあと宰相中将はまだ少し何か言いかけたが、あとは涙につまって言葉にならなかった。


 暦博士に最も吉日を選ばせて、源氏は姫の裳着の日を定めた。

「姫が晴れて大人となる儀礼なんだ。場所はここじゃない」

 この日も源氏が来ると姫は立って席をはずそうとしたが、源氏は姫の小袿こうちぎの袖をとらえた。

「九条のお屋敷だ。姫の本当の父君のお屋敷なんだ」

「え?」

 小さく叫んで、姫はやっと源氏を見た。しばらく目が合ったが、すぐに姫はまた顔をそむけた。

「九条宰相殿の三の君と世間に公にして、裳着を行うよ。腰結いは君の父君だ。そして君が私の妻であることも皆に知らせる。私の妻と発表する以上、その血筋もきちんと公表しないとね。でも父君が分かっても君は私の妻だから、これからもここで暮らすのだけど」

 姫は身動きもせずに、うつむいたまま黙って立っていた。源氏は少納言を呼んだ。

「あとは頼む」

 こう言っておけば、裳着の作法は少納言が教えてくれるだろう。

 当日は摂政左大臣まで臨席してくれて、盛大な裳着だった。これで姫が宰相中将の三の君、さらには摂政左大臣の孫娘として源氏の妻となったことになる。

 小野宮邸からは誰も呼ばなかった。源氏もその気はなかったし、また宰相中将も呼ばないでくれと言った。

 二条邸の家人や女房の中にも、姫が摂政左大臣の孫娘とは今まで知らなかった者も多く、少なからぬ衝撃を与えていた。

 源氏の計らいでふつうよりも灯火を多くし、父娘が互いの顔がよく見えるような明るさの中で裳着は執り行われた。

 ただひもを結ぶというだけの、無言の父娘の対面だったが、その時姫が涙を目にためていたのを、源氏はしっかりと見ていた。

 宴となった。なにしろ多い来客である。家人と女房しかいなかった露顕ところあらわしとは大違いだ。こうでなければいけなかったのだと源氏はついつい杯を重ね、用を足しに簀子すのこへ降りた。

 戻りしなに、宰相中将が向こうから歩いてきた。

「おお、源氏の君。本当に今日は、このとおり」

 もう一度立ったまま、宰相中将は頭を下げた。彼もかなり酔っているらしい。向こうの部屋からは明かりとともに、人々の宴に興ずる声ががくに混ざって聞こえてくる。

 今日は源氏も姫とともにここに一泊して、明日姫をつれて二条邸へ戻ることになっている。姫は九条邸より、明日二条邸へ輿入れというかたちとなるのだ。

「これで私は君の婿だな。君は舅だ」

「ちょっと待ってくれ。それはたしかにそうだけど、それで堅苦しくなりたくはないからな。今までどおり、私的な場所では朋友でいようぜ」

「もちろんさ」

 二人はしっかりと、手を握りあった。

「でも、こうなってよかったよ。実は兄君がね、君の北ノ方が亡くなったあとに、かの二の君と君をって考えてたらしいんだよ」

「あの中納言殿が? そこまでして、私なんかと縁を結んでいたいのかねえ。え、ちょっと待って! 今、どの姫とって言った?」

「二の君」

「えッ!」

 あの、花宴で出会った姫ではないか。源氏は目を見開いた。

「それで? 二の君が断ったのか?」

「いや、弘徽殿大后の止めが入ったらしい。二の君は帝のもとへ入内予定なのだから、とんでもないって」

「そうか」

 源氏はため息をついた。中納言は自分とかの二の君との関係は知らないはずだ。だからこそ、能天気にそのようなことを言い出したのだと思われる。だが大后が出てきたのでは、どっちみち駄目だった。

 宰相中将は一礼して、去っていった。用を足しに行くのだろう。

 源氏は宴の席に戻りながらも、複雑な気持ちでいた。もう全く忘れていた存在と言えば嘘になる。今でも未練はある。しかし、その未練は断ち切らねばならないようだ。そしてそれは、今の彼にとって、容易なことのように思われた。

 彼女は所詮、過去の人だ。そして今の自分には新妻がいる。新しい生活は、今始まったばかりなのだ。今は新妻へのいとおしさの方が勝っている。

 小野宮の二の君との縁も切れた。そしてそれだけではなく、これで小野宮邸との縁も切れたと、源氏はふと思っていた。

 だが、小野宮邸に自分の長男がいる限り、完全に縁を切るわけにはいかなかった。そこを何とかしなければと、源氏は思っていた。


 翌日、二条邸に戻った。そのまま彼は、宮中に出仕せねばならない。そして戻ると、文が届けられていた。木の小技に結びつけられていたのは、濃い青鈍色あおにびいろの紙だった。

 見なければよかったと、源氏は思った。いまいましさが胸の中にこみあげてきた。

 文は六条御息所からだった。

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