10

 ふみの内容は形どおりの弔問と、遅れたことの言い訳であった。

 何も知らなければ、このような文にもあわれを感じたであろう。しかし……それに今は、めでたい席の戻りなのだ。あまりにも場違いだった。

 もう過去の人にしてしまいたい存在が、どうしてもそうならない。それでも源氏は、無闇に御息所を責める気にはなれない。車争いの事件の責任の一端は自分にもある。

 それにあの生霊のことも御息所の執念がさせたことで、御息所自身がはっきりと意識してのことではあるまい。

 妻ももしかしたら、はじめからあれだけの命である宿世だったのかもしれない。そう思うと源氏は、御息所への返事のために筆をとった。そしてその中へ、見てはならないものを見てしまったことを、ほんのわずかだけほのめかしておいた。

「これを六条へ」

 家人の一人にそう言いつけて、家人が退出してそれほど時間もたっていない頃である。激しい足音とともに北の対の方から、女房が寝殿への渡廊を駆けてきた。

「母君様の御様子が、おかしうございます」

「母上が?」

 源氏が駆けつけると、静かに母は横になっていた。眠っているわけではないようで目はあいていたが、ほとん生気のない力のぬけた目つきだった。

「母上!」

 源氏が呼びかけると、その表情に微かな反応はあった。しかし返事はもはやできないくらいに衰弱していた。

 いよいよ逝っておしまいになるのか――源氏は胸をふさがれる思いだったが、とにかく気強く加持祈祷の手配をさせていた。

 二条邸の、今度は北の対で修法が始まった。僧たちの読経の声が木魂し、護摩木を焚く炎が室内で燃えた。

 知らせを受けて同母の姉の内親王と、幼い弟親王も宮中より下がって、きた。同母の兄弟四人がそろうのは次姉が伊勢斎宮で不在だから無理だったが、三人までもが一堂に会したのは久しぶりだった。

 姉が母につききりとなり、源氏は八歳の弟宮とともに持仏にひたすら念じた。隣接する三条邸からも、藤壷の宮の名代の女房が見舞いに参上した。

 母は従四位下で禁色も許され、内宴の陪膳を務めたこともある。それに何といっても故院の御息所だったのだ。当然、宮中からも見舞いの使いが参上した。

 そういう人々の祈りも虚しく眠るように母が息をひきとったのは、夜半も過ぎてからだった。全く無言の臨終だった。

 歌人としても名を馳せ、勅選集にもその歌が採られた源氏の母の死に、二条邸は深い悲しみに包まれた。

 初孫の誕生に間に合いこそしたが一度も対面することなく、母は逝ってしまった。

 殯を過ぎ、いよいよ母は荼毘だびに付されることになった。

 同じ年の内に、自分の子を産んだ女性と自分を産んだ女性の二つの存在を、源氏は鳥辺野の煙として送らねはならなかった。そして妻の時よりは、一層濃い色の喪服を着ていた。

 母の父は従四位下の右大弁、それも母が入内の時はもう世になかった。確かな後ろ盾もないまま、故院の寵愛のみを支えに宮中で生き抜いてきた母だった。

 今は母も故院と相まみえ、久方ぶりの対面に涙しているに違いないと源氏は思い、そう思うことだけが自らを慰めていた。


 すぐに年の瀬が押し迫っていった。

 母の逝去に関して、弘徽殿大后からは何の沙汰もなかった。大后から見れば一介の更衣の死など、鼻にもかけられないのであろう。

 その大后が国母として真の実権を握っている。そんな宮中で、大后に鼻にもかけられなかった更衣より生まれた自分は今後どうなるのかと思うと、喪中であるということだけよりもさらに暗い正月を源氏は迎えることになった。

 母の死によって、源氏の一身上にも大きな変化が訪れた。実の父母の喪はただ単に一年間の服喪期間を過ごすだけではすまない。服解ぶくげといって、その官職を解任されることになっている。源氏は位階のみあって、官職のない身分になった。すなわちもはや彼は大蔵卿でも左近衛中将でもなくなったのである。

 もっともこれは形式的なもので、三ケ月程すれば復任されるのが普通だ。

 いずれにせよ無官となった彼は喪中ということもあり、元日の朝拝は欠席するつもりだったが、ちょうど雨のため朝賀は中止になったということを知らせる使いが来た。

 二日の左大臣家大饗も欠席し、翌日ごく忍んで小野宮邸を訪れた。度重なるの催促に、しかたなく重い腰を上げたのである。そしてわが子を見るという名目を、源氏はしきりに自分に言いきかせていた。

「これはこれは、ようおいで下さった」

 中納言は源氏を見ると、涙を流さんばかりだった。

「お招きに預かり、恐縮でございます」

「このたびはまた大変でしたね。いやあ、源氏の君様もなかなか喪服を脱ぐ暇もございませんな」

 心なしか中納言の様子が、力ないように源氏には見えた。そこへ乳母が若君を抱いて入ってきた。

「おお、若は息災で?」

「はい」

 乳母は大きく返事をした。

「もう這いだしますか?」

「いえいえ、まだ四ケ月ですよ。おすわりもまだです。やっと少しだけ笑うようになりましたけど」

 源氏はわが子を受けとり、その胸に抱いた。もはや猿のようではなく、かわいらしい人間の赤児となっていた。

 突然けたたましく子供は泣きだした。困ったような顔を源氏がすると、乳母は優しく若君を抱きとった。

「まだ父上が分からぬと見えますな」

 はじめて中納言は、微かに笑みを洩らした。ただでさえ湿っぽい対面に、若君がなごやかさを少しだけくれたようだ。

「西ノ対ではこれまでどおり、春の御衣おんぞを調えてございます。どうかお受け取りを」

「え? 今年もでございますか?」

「何をそう驚かれておられる。婿君の正月の御衣のあつらえは、妻の里家の役目ではございませんか。源氏の君様は今でも、わが家の大切な婿なのですから」

「恐縮です」

 源氏は頭を下げた。下げつつもいかにも自分の心境にはそぐわないと、複雑な思いにかられていた。

 その足で摂政左大臣邸へ赴いた。こちらからも招きを受けていたからだ。しかしそれはあくまで忍びであって、臨時客としてでもなかった。

 左大臣とは泉殿で対面した。左大臣がそう望んだのである。元旦、二日と雨が続いたが、この日は穏やかな初春の陽ざしがあふれていて、庭の池面も静かだった。

「いやあ、お待たせした」

 五十七歳、老いてもなお壮健の摂政左大臣は、ゆっくりと池の上の泉殿に入ってきた。源氏はひれ伏した。

「いや、このような場所でと申しましたのは、これもいささか風流かと思いまして。決して源氏の君様をお見下げしてではございませんので、どうか誤解なきよう」

 座りながら左大臣は、そう言って源氏に頭を上げるように促した。

「私とて母の喪中の身、しかも無官の散位でございます。これが身の程というもの。そのようなわけで大饗も失礼致しました」

「いやいや、実はですね、まろも今年の大饗には出なかったのですよ、病でね。ちゃんと外記げきに調べさせたら、そのような先例はありましたからね」

 宴に欠席するにしても、いちいち先例を調べてそれを盾にする。左大臣ともなるとさすがだと源氏は思った。これこそが有職ゆうそく権化こんげではなかろうか。そのような左大臣を父に持ち、故実の教命をこれから受けることになっているという宰相中将が、源氏にはうらやましくも思われた。

「時に源氏の君様も、九条の三の君を妻に迎えられ、まろとしても嬉しい限りですよ」

「恐縮です」

「これで源氏の君様は九条の婿ということで、わが左大臣家の一員であることに変わりはないことになったのですからな」

「あ」

 と、思わす源氏は声をあげてしまうところだった。後ろ盾のない源氏にとって、小野宮家と切れてしまうことはその庇護を失うことになる。それが不安ではないといえは嘘だった。ところが今や九条家の婿として、同じ左大臣一族に列することができたのだ。

「服解の間はこれまでの骨休めとお考えになって、今後の御活躍のお力を養って下され」

「はあ」

 源氏は頭を下げながらも、別のことを考えていた。対の姫は北山の寺で見つけた名もない少女で源氏はよかったのである。ただそばにいてくれるだけでよいと、今でも思っている。しかしそれだけでなく、願ってもいなかったのに宰相中将との血縁、ひいては左大臣の庇護という手土産まで持ってきてくれた。考えればこれ程の幸運はないだろう。

 だが源氏は、そのようなことは眼中におかすに、純粋に彼女を愛してきた。先妻のような政治的存在にはしたくはなかった。それだけに舞い込んだ結果としての幸運には、心から喜べる心境ではなかった。

 だいいち婚儀以来、まだ新妻とは打ち解けてはいない。


 二条邸へ戻ると、西ノ対の女房が源氏に言上するためにやってきた。

「対の上様が、お待ちでございます」

 源氏の心で、何かがはじけた。姫が自分を待っている――春が来れは雪が溶けるのは道理。その道理のとおりにことは運ぼうとしているのかと、源氏はとりもなおさず西ノ対へ行った。

 居ずまいを正して、姫は座っていた。彼女にとっても源氏の母の喪はしゅうとめの喪となるので、姫も一ケ月の喪に服するための淡い色の喪服を着ていた。

「お帰りなさいませ」

 手をついて挨拶したあと、ゆっくりと顔を姫は上げた。心配りからあからさまな笑顔は抑えてはいたが、目もとに好意の笑みを含めていた。

「ずいぶん私を嫌っていたようだけど、許してくれるのかい?」

 源氏は姫の前にしゃがみ、その顔をのぞきこんだ。

「実は私、もうとっくに許してましたのよ。殿のこと」

「殿?」

 姫に初めてそう呼ばれた。もう自分は「お兄さま」ではないのだ。そういえばさっき女房も「対の姫様」ではなく、「対の上様」と呼んでいた。

「殿が私の父上のことを世に公にして下さって、父上と会わせて下さり、そして裳着をして下さった時から。でもちょっぴり意地をはってたんです。でも……」

「とにかく、中へ入ろう」

 二人で畳の上に座った。もう日が暮れかかっている。燭台に火がともされ、格子が降ろされていった。

「お母上がお亡くなりになって、どうしてもお兄……殿をお慰めしたくって」

「そうだなあ。母上が亡くなってからは忙しくて、こちらへは全く来られなかったからなあ」

「お忙しいことは分かってましたけど、でもどうしてもお会いしたくて。無理言ってごめんなさい」

「いいんだよ。君はもう私の妻じゃないか」

「私のお祖母様が亡くなった時、殿が慰めて下さいましたものね。今度は私の番」

 やはり優しい姫だったのだ。

 姫は源氏に結び文をさし出した。


  もろともに あはれといはずは 人しれぬ

    とはず語りを われのみやせん


「あの日のお文の返しです。いつもいっしょにいて下さいね」

 源氏は何もかもが嬉しくなって、思わず姫を抱きしめた。


 この日の夕食は西ノ対で、ともにとることにした。夜になって、ひとつの衾に二人で入った。しかし以前に少女だった姫が「お兄さま」と添い寝をしていたのとは、もうわけが違う。

「もう、恐がらないかい?」

 暗闇の中で、源氏がそっと囁く。新妻がうなずいたという気配は、はっきりと感じられた。

「あの時は本当に恐かったけど、今はもう殿と心がひとつになるためだったら、私、恐くない」

「しばらくは私は官職がないからね。毎日屋敷にいるわけだから、これからは嫌という程いっしょにいられるよ」

「あきるほど、そばにいて」

 対の上は源氏の耳元で、かすかに囁きかけた。それと当時に、えも言えぬ香りが漂い、熱いほどのぬくもりが伝わってきた。ふたつの体はすぐになじんでいった。

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