11

 新しい生活が始まった。

 宮中へ行かないと世の動きがまるで分からなかったが、それでもいいと源氏は思った。このまま時の流れにとり残されても、新妻と二人で過ごせるのならそれでもいいと思っていたのだ。

 自邸に閉じ篭もっていても、世の動きは別として明らかに分かるのは季節の移り変わりだった。もう春も盛りを迎えようとしている。

 源氏にとって新妻との日々はそれはそれで楽しいもので、宮中などへ行かなくても退屈することは全くなかった。妻といってもまだ十三.少なからず子供の部分が残っていて、その部分への相手が源氏の楽しみとなっていた。囲碁、貝合わせなどで遊ぶ時は以前の、「少女とお兄さま」の関係に戻ってしまう。

 そんな新妻が、源氏にとってすべての存在であるといえば噂になった。少なくとも女性は妻がすべてだ。小野宮の二の君も六条御息所も、もはや過去の人だ。

 今の源氏にとってもうひとつ気になる存在といえは、わが子であった。

 時折寝殿で一人になった時、源氏は指折り数えてみる。わが子ももう六ケ月ぐらいになっているはずだ。数えることはできる。しかし実際にわが子がどのように成長しているかは、全く分からない。時折乳母より子の成長を記すふみは来るが、具体的なことは何ら書かれてはいなかった。

 源氏は満開の桜に誘われて、ふと外出したくなった。外出ついでにも、源氏は車を小野宮邸へと向かわせた。

 もう切れたつもりでいる小野宮邸との縁だが、わが子がいる以上、それだけが首の皮一枚となってどうしようもなくつながっている。

 まるで新しく通う女の元へその親を気兼ねしながら向かうような気持ちで、源氏は小野宮邸の門をくぐった。

 かつての舅の中納言は在宅だった。素通りするわけにもいかず、まずは寝殿へと案内を請うた。

 中納言は南廂の中央の座にいた。源氏が目を疑ったのは、源氏の座は簀子に置かれた円座だったのだ。以前なら身舎の奥で、二人は対面したものだった。

 中納言は源氏が挨拶しても、にこりともしなかった。

「庭も花の盛りで、この方がよう見えますしな」

 その言葉の表面は、とても信ずるに足らない。あまりにも露骨な仕打ちに、源氏は返す言葉が見つからなかった。なぜだ?という疑問だけが、源氏の頭の中にあふれていた。

「九条殿の婿になられたとか」

 静かに中納言は言った。その言葉の真に失意と源氏に対する冷たさが充分に感じられた。源氏は顔を上げた。少なくとも先程までの不審は消えた。この仕打ちの理由はそれだったのだ。正月には以前と何ら中納言の態度が変わらなかったのは、きっとまだその時は耳に入っていなかったのだろう。

 中納言の不機嫌さは、その内容によるだけではなさそうだ。自分には全く何も知らされずに、あとになってから事態を知ったという、そんな不快感も充分に混ざっている様子だった。

「水臭うございませぬかな」

 源氏は何と言ったらよいか分からす、ただ黙っていた。それがまた中納言の不快さをつのらせたようだ。中納言はすくっと立ちあがると、壁代の几帳のうしろの身舎の中へと入っていってしまった。

 しばらく源氏はそのままでいたが、一向に中納言が再び出てくる気配はなかった。ひとりとり残されていても仕方がないので、彼はわが子のいる西ノ対へ行くことにした。

「お帰りなさいませ」

 女房たちの態度は、以前とは何も変わらなかった。中には歓喜にうちふるえている者すらいる。これで重苦しかった源氏の心も、少しだけ晴れた。

「どうですか、若は」

「はい、こちらに」

 年配の女房に促されて源氏が西ノ対へ入ると、半年前の自分に戻ったような錯覚が彼を襲った。調度は先の妻が生きていた頃そのままになっていた。若が子は畳の上に座っており、しきりに両手を叩き台わせる仕草をしていた。

「ほう、もう座るのか」

 源氏が寄ると、畳の下の床で乳母は礼をした。

「はい。ようやくおすわりができるようになられましたけれど、まだ這いだしたりはなさいませんので、その分は楽でございます」

「そうか、そうか」

 源氏はこの邸に来てからのはじめての笑みを浮かべ、わが子を抱きあげた。

「今日は泣かないな」

「はい。今、お目覚めになりましたばかりですし、ちょうどお乳もさしあげましたところですから、ご機嫌もよろしいようで」

 源氏は腕の中の小さな命が、いとおしくてならなかった。思えはこの子は、母もなく育つのである。

「そなた、若とともにわが二条邸へ」

「は?」

 源氏は乳母に言いかけてやめた。それはわが子を抱いて、ふと思ったことだった。

 もはや中納言とは決裂した。小野宮邸との縁も切れた。あとはこの子さえ二条邸に迎えれば……。今ではまるで人質に出しているようなものだ。

 しかし、それは実現が難しいことを思い合わせると、源氏は口をつぐんでしまった。まず、中納言が納得しまい。中納言にとっても若はかわいい孫で、亡き娘の忘れ形見なのだ。それに二条邸は確かに東の対が空いてはいるが、まだ若い新妻に心労をかけることにもなろう。

 いずれ時が来たらと、源氏は思わざるを得ない。

 西ノ対はわが子という存在でなごやかな場所であったにせよ、全体的に居心地の悪いこの小野宮邸に源氏は長居したくもなくて早々に帰宅した。


 宮中ではとっくに除目も終わっていよう。宮廷官人なら誰しも一喜一憂し、あちらこちらで泣き笑い劇が見られる頃だ。しかし今年は源氏にとって、全く縁のない世界の出来事になっていた。

 止まっている源氏にとっての時間の中にも、それでも時折は情報が入ってきた。官職がないからといって、別に塾居しているわけではない。行事の時だけは彼も参内する。そのような時に情報が入って来るがすべての話が頭の上を飛び、まさしく彼は万葉集の伝える水江みずのえの浦島の子が常世より帰り来た時の気分であった。

 春も終わりの頃の宮中の話題は、東山の向こうにある故院の勅願寺の造塔のことであった。その心柱の大津からの運搬のことなど、話は彼の知らないところでかなり具体化しているようだ。

 入る情報は源氏の身辺に関するものもあった。そのひとつとして、姉の伊勢斎宮の退下があった。母の喪に遭ったのだからそれは当然のことで、夏には都へと戻ってきた。そして内親王ではあったが源氏の二条邸へ入った。最初はいていた東ノ対に入ったが、母のいた北ノ対が母の死による死穢のための床板の張り替えが終わると、その北ノ対に遷った。そんな折、九条の宰相中将が二条邸を訪れた。

「宮中では会えないからね。見舞いに来たよ」

 南面みなみおもてで源氏と対座し、宰相中将は相好を崩していた。立場上舅であるのに、彼は全くそのような風は吹かせない。

「どうだね、宮中は?」

「どうだもこうだもないよ」

 酒肴が運ばれた。精一杯のもてなしを源氏は家司に命じておいた。久々の朋友の来訪が、とにかく源氏には嬉しかったのだ。

「あんまり無理しないでくれ。君は官職がないのだから」

「みくびってもらっては困る」

 宰相中将は源氏の財政のことを言ったのだろう。しかし源氏は笑っていた。りょうで規定されている季禄などはもはや形骸化していた。それは服解ぶくげまでは大蔵卿を兼ねていた彼が、いちばんよく知っている。

 そして職分田、職封は今や停止になっている。それでも正四位下という位はそのままなので、位封からの収入はあるし、彼とて一応荘園は持っている。さらには源氏はただの正四位下ではなく、皇親源氏なのだ。これまでの貯えとてある。

「政所は何も不足は言ってはいないよ」

 そう言ってもう一度、彼は笑った。

「まあ、毎日が假日だと思って、気楽に暮らしているさ」

 源氏は宰相中将に杯を勧めた。

「それならばいいんだが」

「それよりさっき、宮中がどうもこうもないって言ってだけど」

「ああ、そうだよ」

 話が途中だったのを、宰相中将は思い出しように語り始めた。

「私はこの春の除目でね、伊予権守を兼任することになったのだけどね」

「そうだったのかい。それは知らなかった。いや、おめでとう」

「いや、それが、めでたくはないんだ」

「え?」

 源氏も杯を干して、それを台の上に置いた。

「どういうことかい」

「海賊だよ」

「そう言えばおととしあたりから」

「だから君は、水江の浦島の子だっていうんだ。今やその海賊の頭目の名も、はっきりと挙がっているんだ。この前なんかついに、大元法まで修せられたんだぜ」

「大元法?」

 よっぽどの国家一大事の時でないと修せられることはない修法だ。それが海賊の難を払うために修せられたとなると、今や海賊はよっぽどの一大事となっていることになる。まさしく源氏は浦島の子だった。

「それがね君、その海賊の頭目が本拠を据えているのは、私が権守となった伊予国の日振島ひぶりじまなんだよ。よりによってねえ。全くとんだくじを引いてしまったものだ」

「じゃあ、伊予守は?」

「近々変わるそうだよ、臨時にね。そしてその新しい伊予守は受領としてだけでなく、追捕使として海賊討伐に遣わされるそうだ。だからその間の都での伊予国の事務は、私がしなけれはならないんだ」

「大変だな。で、その海賊って?」

「その先祖が私の一族と同族なんだよ。なんとその父は、私の父上の摂政左大臣の従弟にあたるというからな、まいったよ。かつて伊予掾いよのじょうとして任国に行ったはいいけど、そのまま任果てても任国にいついて海賊になってしまったんだとさ」

 すべてが自分とはかかわりのない世界の話だと、源氏は痛感していた。だからだんだん興奮してくる宰相中将とは別に、源氏は冷めていた。そんな源氏の様子に、宰相中将も興奮を抑えた。

「君はげっそりやせているんじゃないかと思ってたけどね、案外肥えてるね」

 源氏は苦笑を洩らし、また杯を干してから宰相中将へ一杯勧めた。

「楽な生活をしているものでね」

「娘は、三の君は元気かい?」

「無邪気なものだよ。私は三国一の妻をもらったよ」

「二人きりの時を過ごせるのも、この服解のお蔭だな。でも今夜ばかりは、遠慮してもらうよ。たとえ君が夫であってもね」

「え?」

「私は今日は、西ノ対に泊まっていくよ。私にとってもいなくなっていた娘なんだ。もう抱きしめてともに寝るには大きすぎるし、君の妻なんだからそれはできないけど、せめて語り合って同じ屋根の下で休みたいからね」

「どうぞ、舅殿」

 二人の声がすっかり暗くなった南庭まで一響いていた。


 翌日、まだ昼前に、源氏は西ノ対へ渡った。

「殿、昨夜はどちらかよそへお渡りで?」

「え?」

 あまりにきつい顔で対の上は言うので、源氏は思わず足を止めた。

「だって、昨夜は父上が来られただろう?」

「え?」

 今度は対の上の方が、怪訝な顔をした。

「父上は来られなかったのか?」

「ええ。私ずっと、殿のお渡りを待ってましたのよ。それなのに」

「ちょっと、待てよ」

 源氏はすぐに寝殿に戻り、昨夜宰相中将を案内した女房を探させた。

「宰相中将は男の通いではなく父が娘を訪ねるのだから、案内はいらぬと仰せになりまして」

 女房はそれでも自分が粗相したということを隠せないように、全身を震わせていた。

「それで?」

「はい。北の対屋の方へ行かれるのです。そちらは違うと申し上げたのですが、娘は源氏の君様の妻なのだから北の対だろうってすかすかと。もう何も申し上げる暇もなく」

「分かった」

 源氏は女房を下がらせたあと、ひそかに苦笑した。

「あいつめ」

 北の対には姉がいる。宰相中将はそのことは知らなかったであろうし、妻が、つまり自分の娘が北の対にいると思いこんでいたのも無理はないだろう。北の対はたいてい奥方の住居となっているものだからだ。

 ところが違うと気づけば、すぐにきびすを返して西の対へ行くはずだ。娘の実際の住居は女房に確かめればすぐに分かるはずだ。それが西の対には行っていない。まさかあの真夜中にその足で退出したわけでもあるまい。事実家司に調べさせたら、宰相中将は朝にこの屋敷を出たという。

「やりおったな」

 それでも源氏は不快感はなかった。むしろ爽快だった。すべては宰相中将の勘違いがもたらしたなりゆきだ。源氏は昨夜の北の対での出来事を想像した。姉は慌てふためいたであろう。しかしやつは間違いを幸いにと、姉を口説いて言いくるめたに違いない。

 これでいいと、源氏は思った。姉は斎宮になる前に、故本院大臣の子息に懸想されていた。あんな本妻と子もいる中年男より、宰相中将の方がいい。内親王の慣例どおり一生独身で終わったら、姉がかわいそうだ。それにこれでますます宰相中将との縁が深くなる。源氏は祝福したい気持ちでいっぱいだった。

 しかし、彼は後朝きぬぎぬの文をよこしただろうか、姉は返しをするだろうか、そしてきちんと三日間通ってくれるだろうか。源氏はそんなことに気をもんだが、どうにもできることではない。

 それでも三日後に源氏は宰相中将のくつを抱いて寝て、露顕ところあらわしの儀も執り行われる手筈となった。

 ただ、普通だったらこれで宰相中将は晴れて源氏の家の婿となるのだが、源氏の姉は内親王だ。そう簡単にはいかない。宰相中将と源氏の姉の結婚は内親王の降嫁ということになり、それには勅許が必要となる。

 そのことを指摘すると、宰相中将は大笑いをした。そして言った。

「私の父は摂政なのだよ」

 たしかにその通りだった。内親王降嫁に、大后が口を挟むとも思えなかった。


 こうしてめでたく勅許も出ることになった。ただ、正式には姉や源氏の母の喪が明けてからということになったが、宰相中将と姉はもう実質上は夫婦生活に入っている。決して退屈ではなかったがそれでも単調だった毎日に、少しは張り合いが出た。

 自分は西ノ対の妻と夜を過ごす。そしてその妻の父は、同じ邸の北の対で自分の姉と夫婦生活を夜だけ営んでいる。源氏の舅にとって源氏は小舅という、こんな奇妙な関係がおもしろいといえはおもしろく、源氏にとって刺激的であった。

 時折は寝殿で、源氏は宰相中将と酒を酌み交わす。こんな奇妙な状況が、宰相中将との歓談の機会を増やしたのも事実だ。

「時に伊予の海賊は?」

 源氏がそう尋ねたのは、秋も近くなった頃だった。

「ああ、伊予守殿は懐柔策に出られてな、首領格の何十人かは投降したよ。そして罰することもなく、本領を安堵したんだ。見事な手筈だったよ」

「で、頭目は?」

「それがねえ」

 宰相中将は、あとの言葉を濁しただけだった。


 毎日何の不足もない。退屈さもない。愛する人もいつもともにいるし、友とて会う機会が増えた。そんな日々を過ごしていても、やはり源氏はもの足りなさを感じてしまう。かつて宮中で忙殺されながらも動きまわっていた日々の記憶は、まだ彼の中で新しい。忙しいとは充実と同義語であったようにも思う。

 それに彼は若い。まだ二十三だ。官人としての魂がうずく。今の日々は楽しくもあり退屈ではないが、何かもの足りないのだ。

 そんな彼がひたすら待っていたのは、復任の沙汰だった。

 ところが一向に、何の連絡もない。ふつう母の服解くらいなら、三ケ月程で復任するはずだ。ただそれは事実上の慣習で、令の規定でも何でもないのだから、彼は文句も言えずただ待っているしかなかった。

 その頃に八条大納言と呼ばれていた按察使あぜち大納言が亡くなった。故本院大臣の長男である。初老を迎えつつあった四十七歳だったが、当然人々の口にあがったのは雷公の崇りということだった。

 そんな情報を耳にしながら秋になったのに、源氏へ復任の沙汰はなかった。ここはひとつ、摂政左大臣に掛け合おうかとも思った。

 ところがやがてその左大臣の太政大臣就任という知らせが舞いこんで来た。

 新太政大臣にとっては喜ばしいことではあるが、事情を源氏は知っている。あくまで官僚の最高位は左大臣であり、太政大臣はその上の地位ではあるが名誉職なのだ。祭り上げたのは誰か推測はつく。

 弘徽殿大后だ。国母の彼女は、今や摂政をしのぐ真の実力者なのだということを、嫌でも源氏は痛感した。

 もしや自分の復任がないのも……そこまで考えは到達してしまう。自分一人の復任など、摂政左大臣=太政大臣の匙かげんでどうにでもなるはずだ。

 そして太政大臣は明らかに、その次男の宰相中将とともに自分に目をかけてくれていた。嫌でもこれが故院の遺詔だったはずだ。それなのにその太政大臣に匙加減させない存在がある。弘徽殿大后以外にはあり得ない。しかも自分と疎遠になった中納言が、その亡き正妻の出自が故本院大臣の娘である関係上、本院大臣の遺族もひいきしている弘徽殿大后と結びついていることは想像に難くない。

 源氏は自邸の庭を歩きながら、そんなことを思ってため息をついた。少しは涼しくはなったが、まだ蝉の声はかまびすしい。

 左大臣が太政大臣に祭り上げられた以上、またその祭り上げた存在が自分に圧力をかけている以上、自分の復任は無理なのではと源氏は思った。

 池の畔にしゃがんで、石を水面へ投げてみる。かつては随身ずいじんを従え、意気揚々と宮中へ赴いた中将であった自分が違い存在のように思われた。

 

 そんな時、さらに源氏の心をかき乱す情報が、家司によってもたらされた。

 姉が退下してきてからいていた伊勢斎宮に、新任が卜定されたということだ。そしてその新斎宮は源氏の亡兄――亡くなった前皇太子の娘だという。

「え?」

 その情報を聞いた時、また源氏にとって過去の人が現在に顔を出そうとしていた。

 故前坊の娘、つまりその母親は、あの六条御息所にほかならなかった。


(つづく)

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