第6章 逆気(さかき)
1
斎宮の下向が近づくにつれ、母一人娘一人の暮らしだった六条御息所にとってどんなに心細く感じられるだろうと、ふと源氏は思いやってしまう。
あの
だがそのうち事件自体も時の流れとともに風化し、人びとの過去の記憶になっていった。もう一年以上も前のことなのだ。あのあと御息所とは、たった一度
その忘れかけていた存在が今、彼女の娘が斎宮に
時に秋もすっかり深まりつつあった。
「恐れながら申し上げます」
寝殿の源氏の居間で、政所別当の惟光が畏まった。
「実は六条の御方の
「ん?」
源氏の眉が動いた。
「御
源氏の心は空白になった。何と答えたらよいか分からない。辞す理由は分からないでもないが、それならもっと早く言ってきて
「それで、どうした?」
「まあ、先方からの申し出ですから無理に続けるというわけにもいかず、一応承諾は致しましたが…」
「それでよい」
吐き捨てるように源氏はつぶやいた。御息所への援助が亡き父の遺詔であるなら、それはもう充分果たした気がする。娘が斎宮となり、完全にひとり身になる御息所がこれからどうするのかというのも気にはならないではなかった。だが今、援助を打ち切ることで彼女とはやっと縁が切れることになる。
「いやあ、ようございました」
惟光も安堵の顔をした。彼はどうも源氏とは別のことを考えているらしい。
「実は苦しかったのですよ。誠に申し上げにくいことなんですが、光の君様の位封と荘園だけではどうにも……。これで六条への後見がなくなりますと、けっこう助かりますんで」
惟光はただの政所別当ではなく源氏の
源氏は思わす苦笑した。
「まあ、よきに計らってくれ。家政のことはすべておまえたちに任せてあるから」
「はあ」
惟光は頭を下げた。
彼が去ったあと、源氏は一人で南庭を臨む
昼下がり。日もかなり柔らかくなり、庭の木々も色づきはじめている。
衰退に向かう自然、日々に弱まりゆく陽光、短くなる明るい時間、それらが今の自分を象徴しているようでならない。まだ二十三歳という若さにはおよそふさわしくない思いだが、仕方がない。
目を左の方へやると、釣殿へ続く細殿越しに東山がそんな自分を見下ろしている。あの山だけは自分が生まれ、そして今に到るまでを変わることなく無言で見つめ続けていてくれた。
源氏はまたひとつ、ため息をついた。
母の喪に伴う
今や宮中の人事権は摂政太政大臣ではなく、弘徽殿大后にあるということくらい彼には分かっている。そしてこの年齢になって、薄々分かりかけてきたことがほかにもあった。
自分がなぜ賜姓源氏となり、皇族を離れて臣下に降されたのか……。
父は煩わしい皇位継承の争いに巻き込まれずに、また冗官に甘んじることもなく、自由な臣下の身として帝の後見をせよという意図で自分を臣下に降したと、生前そう語っておられた。幼い自分は、それを真に受けた。
しかし大人になった今は、父院のお言葉の裏が見えてしまう。別にそれで父を恨んだり、畏敬の念が消えてしまった訳ではなく、ただ冷静に彼の頭は理解していた。
今さっき、惟光が二条邸の経済的窮状をほのめかした。自分の臣籍降下の真因も経済的理由からだったのだ。
親王は何もしなくても親王であるというだけで公卿なみの位田、そして公卿の三倍近くの食封が給せられる。これらが宮廷費からまかなわれるので、父のように大勢の親王を持てば宮廷費ばかりでなく国家財政さえ破綻することになってしまう。
いわば源氏賜姓は、親王の口減らしなのだ。臣下に降れば、職に応じての官人としての給与が支給されるだけで、宮廷費は傷むことはなくなる。そのようなことは大蔵卿を務めた源氏だから百も承知で、自分の過去についても冷静に受け止めることができた。
しかし、そのほかにも今になって知り得たことがあった。父は渤海国使に同行してきた
人相見は少年だった源氏の高貴な幸運に恵まれた相を絶賛したが、いざ渡氏が退出しようとして後ろ姿を見せた途端、絶句して口を開けたままになったという。
「こんな滅多にない吉相をお持ちの方なのに後ろ姿には全く吉相もなく、むしろ凶相が出ておられる」
臣籍降下の理由はそんなこともあったのだとしみじみ思った時、池の鯉が一匹跳ねた。水の中で生きるという定めに逆らった鯉は、すぐにもとの水の中へと戻った。
鯉はいい。すぐに水の中へと戻れるのだから。しかし今の自分はどこに戻ればいいのか……。すべての運気が逆行している。まもなく母の服喪も明け、喪服も脱ぐ時が近づいている。今年は十一月のあとに
しかし、父母の服喪が明けても服解から復任しないなどという例は、聞いたことがない。やはり逆行する運気を感じながらも、高麗人の人相見が言った自分の後ろ姿の凶相を思わずにはいられない源氏だった。
西ノ対屋にいる対の上も変わった。今までのような無邪気さは影をひそめ、落ち着いた大人の雰囲気を源氏に感じさせるようになった。それはそれで、源氏にとって好ましいことであった。囲碁に替わり琴と笛の唱和が、夫婦の絆を固くしているようにも思われる。それでもふと源氏の心は、過去の人の方へと飛んでしまうこともしばしばだった。
すべてを清算するために、たとえ物越しにでももう一度御息所に会うべきだ。そう考えて源氏は、そっと惟光を呼んだ。
「気の利いた家司を、六条へ遣わしてくれ」
「え? 六条へ? もう用なき家では?」
「いいから。最後の区切りをつけたいのだ」
「御意」
すべてを察した惟光の計らいで六条へ遣わした
「御息所様の仰せということでかの
「そうか」
それしか源氏は言わなかった。
別にそれならそれでよかった。強いて会いたいという感情はさすがに持ってはいない。ただ、最後を確認し、また経済援助打ち切り申請の理由も聞きたかっただけだ。だが向こうから面会を拒絶されたことで、まさしく彼女は過去の人となる。それならもう会わずに流れに任せた方がいいと思って、その後源氏はあえて人を遣わさなかった。
「用なき家」
惟光は六条をそう言っていた。
「用なき者」
源氏は西ノ対で若い妻とともに過ごしながら、ふとつぶやいた。
「え?」
「君は物語など、読むかい?」
「好きですわ。でも、なかなか手に入らなくて。でも、いいの。だって、今の私の方がまるで物語の主人公のようなんですもの。だから、別に物語なんか読まなくても……」
「ええ、なぜだい?」
「だって、そうでしょう。父も母も知らなかった少女がある日突然貴公子にさらわれて、そして父上とも対面して幸せになっていく。こんなのって物語よ、絶対。そういう物語だって、実際にあるし。ほら、落窪姫とか」
妻は笑う。源氏も久しぶりに心が和んで笑みを浮かべたが、すぐにその顔に影が忍び寄ってしまう。
「君は本当に、物語の中の姫君のように幸せかい?」
「ええ、もちろん。殿は? 物語は読みます?」
「あまり読まないなあ。でも、知らないこともないよ。私もね、物語の中の
「幸せ?」
源氏は答えなかった。すっかり真顔になっていた。そして少し間を置いてから、
「在五中将の物語……」
それだけ源氏は言った。
「え?」
と、妻は聞き返す。源氏はひとつ咳払いした。
「『身をえうなきものに思ひなして』…そう、『
妻も真顔になっていた。そしてしばらくは、沈黙があった。
「殿!」
鋭い声が、妻から発せられた。
「私も、連れて行ってくれるんでしょうね!」
源氏は笑みを取り戻し、妻の身体を
いとしい人――あなたをおいてどこへ行けようか。その身のすべてを自分に委ねている。源氏はこの時、そんなことを深くかみしめていた。
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