三月になって朱雀院へ帝が行幸され、そこで歩射ぶしゃが行われた。源氏は体調不良を理由に欠席した。

 そして夏服へ衣替えする四月、今度は飛香舎で藤花宴があった。主催はあくまで帝だが、場所が場所だけに真の主催は摂政左大臣ではあり得ず、他ならぬ弘徽殿大后に違いないことは明らかだ。本来なら、源氏は絶対に参列しなかっただろう。しかし今は違う。弘徽殿大后ある所に、あの姫君もいるかもしれないのである。

 会いたい、忘れたい、この二つの思いが源氏という一人の人間の中で激しく戦乱を繰り広げていた。会ってどうするというのではない。ただあの日の彼女の心情を聞き糺したいだけだ。そう思う気持ちが、危ない橋は渡るな、今ならひき返せるという思いに勝ったのであった。

 藤花宴は昼過ぎより始まる。南廂の氈台せんだいの上には、玉座が設けられている。そして簀子には畳が敷かれ、そこが王侯公卿の席となる。

 その王侯公卿が出座し、帝の出御を仰ぐと、いよいよ宴が始まる。そして帝の玉座の後は御簾がおろされているが、その中こそが実質上の玉座であった。摂政左大臣は簀子にいる。御簾の中にいるのは、誰もがその存在を知っている人だった。

 宴とはいっても、ほとんどが儀式だ。すぐに酒肴が供せられるが、その杯を取る順序、箸のあげおろしまですべて習慣によって定められている。夜になってからのいわは無礼講の直会なおらいとなってからが、いわば本当の宴であるとも言えよう。

 源氏はその頃にやってきた。あたりは暗くなりはじめていた。頭の中には遅参の言いわけを、綿密に作りあげている。しかし誰もが源氏の華やかさに圧倒され、摂政左大臣とて何ら文句を言わなかった。

 臣下の百官は、公式行事であるのでそれぞれの位階によって定められた色の束帯である。しかし親王に限って平常着の直衣のうしでの参列が許されている。源氏も左近中将としてではなく一世源氏としての参列なので、直衣姿だった。身分が高いほど楽な服装が許され、低い身分の者は公式の場では正装しなければならないのだ。

 束帯が多い中に直衣であるというだけで目立つのに、源氏は桜のからかんはた直衣のうし葡萄染えびぞめ下襲したがさねで、帝の御前であるからさすがに後にひきするしりはつけた冠直衣かんむりのうしだった。いわゆる大君姿で現れた源氏のあでやかさは、他の同じ姿の親王たちをも圧倒していた。

 飛香舎の御殿は、一部寝殿造りの様相がとり入れられており、西側の一部が西廊として突き出ていて藤棚のある庭を囲っている。その庭で楽人による楽の演奏の真っ最中だった。

 源氏の隣は、異母兄の兵部卿の宮がいた。その宮がそっと源氏に耳うちをしてくる。

「素晴らしい格好いでたちですな。何もかもあなたにあってはかないませんよ」

 少し酒の匂いが漂う。皆、かなりできあがっているらしい。源氏ははにかんだような含み笑いを見せた。

「庭の藤の花でさえ、色あせて見えまするぞ」

 兵部卿宮はそう言うが、庭の藤棚から下がる紫色のいくつもの房はすっかり暗くなった宵闇の中で篝火かがりびの炎の光をあびて、ひときわ光彩を放っていた。

 すぐそばにいる摂政も、その子息であり源氏の舅である宰相中将も上機嫌のようで、互いに歓談している。藤の花の盛りは彼らの一族の盛りに通じるのだろう。この宴がここ飛香舎――藤壷で行われたのも、そのような意味があるのかもしれない。そして自分も、その一族とは無縁の存在ではない。無縁であっては存在し得ないと源氏は思いながらも、勧められる杯を干していた。

「時に藤ばかりではございませんぞ」

 兵部卿宮は、さらにそう囁いてきた。

「桜も二本ばかり」

「桜?」

 いくらなんでも、こんな委節まで残っている桜はあるまい。

「――ほかの散りなむのちぞ咲かまし――とでも言われたのでしょうかねえ。ほら、あちらに」

 兵部卿宮が指さしたのは、東廂の御簾で仕切られた中だった。源氏はすぐにその意を察した。

 遅咲きの桜が二本――二十歳を過ぎて女性の元服である遅い裳着もぎをした自分の異母姉の二人をさしているのだろう。

 遅い裳着は、内親王として生涯の独身を宣告したようなものだ。

「あの東廂の間はもともと孫廂でしたのに、姉君方の裳着のために新たな孫廂ができて、あらためて磨きつくろわれた所ですしな」

 兵部卿宮に言われてそちらを見てみると、中で灯をともしているせいで、御簾越しとはいえ何となく様子が分かる。そうとう多くの女人がそこにいて、夜だというのに楽舞を見物するために格子も下ろさずにいるらしい。

「姉君方も、今日はあそこに」

 兵部卿宮はそう言うが、その部屋には姉の女一宮、女三宮の二人しかいないわけではないことは明らかだ。

「他は女房たちでござろうか」

 源氏ははやる胸をおさえ、何気ないふりをして尋ねてみた。

「いや。高家の姫君方もずいぶんおいでとか」

 あの中にいる……源氏の直勘だった。あの二の君が……それを思うと、急に源氏は落ち着きがなくなった。そもそもそれを期待して来たのではなかったのか……そう自分を言い聞かせてなんとかその場は心を鎮めようと務めた。

 それには飲むしかない……異常なほどの速さで源氏は杯を重ねていった。

 同じ宴席上の離れた所に頭中将もいたが、自分の心内を察せられるのが嫌でその日は声もかけなかった。


 源氏は酔った。ほとんど意識的に酔ったともいえる。かなり夜も更け、前庭には上戸が残って酌み交わしているほかは、参宴者は一人二人と帰っていった。

 源氏は立ちあがり、人に気づかれないように東廂の方へ行った。孫廂を歩いていると、殿方が近くに来たということで、御簾の中がざわめいている様子が分かった。

 思いきって、中へ声をかけてみた。

「かなり酔いがまわっているのですが、それでも無理やり飲まされて困っておりまして……姉君もいらっしゃるのでしたら、かくまってくださいませんか」

「それは因ります」

 予想どおりの声が戻ってくる。

「そのような、身分の低い方が申すようなことをおっしゃるものではございません」

 そう言ってくるということは、自分を誰だか分かつていることだと源氏は察した。ただの若い女房ではないようだ。こうしているだけで、室内の薫香がここにも漂ってくる。それがさらに、源氏の本能を刺激した。

 中のざわめきは収まらない。奥ゆかしいというより、今っぽいお嬢様方の集まりなのだろう。

 御簾越しにほのかに見える数々の人影を、源氏は遠慮もなく見比べていった。顔は分からないまでも、服の模様くらいならおぼろげに判別がつく。

 喪服はいた。源氏はそちらに向かって、少し声を高めて言った。

「扇を取られて、からき目を見る」

 催馬楽さいばらの石川の一節だ。本来は「扇」ではなくて「帯」で、石川の高麗人こまびとに帯を取られて因っているという詞だ。

「帯ではなくて扇? おかしな高麗人」

 喪服を着ていると思わしき人の、答えが返ってきた。分かっていない。この人ではないとすぐに判断した。

 ところが同時に、ため息が聞こえてきた。

 別の女からだ。

 源氏は御簾に顔を近づけて見ると、もう一人喪服の人がいる。しかも、御簾際に。

 源氏は御簾の間から、その人の手を握った。抗う様子は全くなかった。

「道に迷ってしまったんですよ。おぼろげに見た月の光がありはしないかと思いましてね」

 しばらく沈黙があった。源氏の他人には聞こえぬように言ったその言葉への返事は、しばらくしてから微かに洩れ聞こえてきた。

「お気持ちが本物なら、もう迷うことはございませんよ」

 聞き覚えのある声だった。嬉しさに源氏はそのあとの言動一切を喪失していた。

「弘徽殿にて、今宵」

 相手の姫の方からささやいてきた。手を放したあとは、姫は中へ戻った。

「因りましたわ。急に手を握られて。でも、人違いでした」

 この事態をまわりの人々へとりつくろうための弁明をしているのが聞こえてきた。

 楽の太鼓が激しく打ち鳴らされる以上の鼓動を、源氏は感じていた。呼吸さえ苦しい。それでも宴が果てるのを、ただひたすら待った。


 飛香舎から弘徽殿へは、殿上つたいに行くとなると今改築中の清涼殿の北廂を通り、妻戸から北廊を通るという迂回路になる。源氏の波打つ胸は、そんな遠回りには耐えられず、一度庭に降りて小門を出、地下じげつたいに弘徽殿の西の簀子に上がった。

 妻戸がわずかに開かれており、そこから二ケ月前まで自分のものだった扇がかざされている。

 再会できたならあの夜の彼女の心情を聞こう、そのために捜すのだと思っていた源氏だったが、今はそのような気持ちはどこかへ飛んでしまっていた。

 中へ入るといきなり、女は源氏の胸にとびこんできた。戸惑いもなく、源氏はそれを抱きしめていた。

「ここには、誰もおりませんの。大后様も飛香舎においでですから、ここは誰も使ってはいないんです」

 姫は、二人の今の場所の安全性をそう説明する。

「でもあなたは」

 それだけ言って、あとの一切のことを言うのを源氏はやめた。

 彼は男だった。若い男だった。

 これほど女をいとおしいと思ったことはなかったと、直接の肌のぬくもりを感じながら源氏は実感していた。


 ことが終わって源氏は、幾分我われに返っていた。女はまだ余韻の中に浸っているようだ。

「ひとつ、聞いてもいいですか?」

 源氏が姫から答えを得るまで、少し時間がかかった。

「はい」

「さっき飛香舎にいたもう一人の喪服の女性は?」

「妹です」

 ああっという感じだった。これで彼女が二の君であることは確定した。弘徽殿大后のおぼえめでたく、帝へ入内予定の二の君だ。

 もう会わぬ方がいいのか、これきりだと宣言すべきか……しかしそれは源氏の感情にとって、あまりに残酷なことだった。そんな思いが、さらにきつく女を抱きしめさせてしまう。

「私はそなたを、妻にはできぬ」

「存じております。それでもいいのです」

 二人で落ちていくところまで、落ちていくしかないのか。源氏はそこに一種の連帯感を感じ、それに陶酔していた。若い彼にとって、それが愛と同義語と思ってしまったようだ。

「もう、放さない」

 もう一度彼は女の温かい、そして柔らかい肌をきつく抱きしめた。

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