そのまま宮中は後宴ということで華やいだ晴れの日の続きだが、帝の出御もないせいか昨日よりは全体的に落ち着いた様子だった。

 朝のうちはまだ夕辺の酒がかなり残っていて、頭は朦朧もうろうとしていた。しだいに醒めてはきたが、今度は替わって例の姫君のことが残酷にも冷静に頭の中に蘇ってきたりする。源氏は得意の琵琶を奏する役を命ぜられたが、心はうわの空だった。

 今朝別れたばかりの有明の姫君――名も素性も分からない。朧な月影のもたらした幻影か、あるいは夢の中の出来事だったのか。

 行事は「」であったが、源氏の心はすでに「」に戻っていた。何ごともなかった普通の夜が明け、今日になった。そう思いこもうとすればできたかもしれない。しかしそう思いこもうという意思を持たせない何かがある。

 現実は消えない。どうして、あのようなことになってしまったのか。今は冷静になっている自分が、昨夜の自分を責める。何もかもが酒と朧月夜のなまめかしさのせいだった。

 紫宸殿の南庭の楽人の座で琵琶にばちを当てながら、花びらの舞い散る中で源氏はため息をついた。不名誉なことに、撥をし損じた。

 源氏は一曲終わると席を立ち、ひそかに日華門から南庭の外へ出てしまった。

 喪服、とりかえた扇――これらだけが手がかりだ。いや、これらさえなければ、かえって気は楽だったかもしれない。たった一夜の、春の夜の夢であったと片付けられる。

 しかし手がかりがある。

 どんなに昨夜の出来事を疎んじる自分がいたとしても、決して忘れることなく手がかりを元に必ずまたと思う自分もいる。

 春興殿の東の簀子への階段に腰かけて、源氏はうつろな目で朱器殿の屋根を見つめていた。

 考えてみればあれほど酔っていたのだから、かなり酒臭かっただろう。それでいてあの女は自分の正体を知ったとたん、すべてを自分に委ねてきた。それなのに名を告げてはくれなかった。

 記憶は失っていないとはいっても、正直すべてのやりとりを覚えているわけではない。ところどころ記憶が欠如している部分もある。それでもあの女は、もうこれきりと思っているという感じでなかったことは確かだ。

 自分は試されているのだろうか。そう思ったりもする。そうだとすると、そのままにしてしまうというのも自尊心が許さない。愛情失格とされてしまうだろう。

 喪服――今、喪服を着ているような姫君といえば……

 まずは故前右大臣の縁者…? 

 しかし前右大臣が亡くなったのは去年の八月だから、今でも服喪しているとなると娘に限られる。もう六十歳近かった故右大臣の娘があんな若いだろうか? もちろんあり得ないことはないが、可能性は低い。

 他には故中納言右衛門督えもんのかみの縁者…?

 これも、故右大臣と同じような年齢だ。この場合は亡くなった日が近いから孫娘であったとしても服喪中だろう。

 亡くなった縁者が誰にせよ、服喪中でありながら花宴に参列するなど普通ではあり得ない。今の世であり得ないことをあり得させることのできる存在――それは弘徽殿大后しかいない。

 そういえばあの女がいたのは、弘徽殿だった。

 もしかして弘徽殿大后の縁者なのか。

 源氏は急に背箭が寒くなった。もしそうだとしたら、大変なことをしてしまったのではないかと思う。すべてが大后に報告されたら……。

 そんなことはないと、必死で彼は否定した。あの女は処女ではありながら、確実に自ら源氏の情けを求めていた。

 しかし女は魔物だ…と源氏は思う。その本心は男の源氏には分からない。やはり何としても捜し出さねばならないと、源氏は焦った。

 弘徽殿大后の縁者といっても、娘だったら父は故院だから源氏の異母姉妹ということになる。だが、今の時点で喪服を着ていなければならないような異母姉妹はいるはずがない。少なくともそのような大それた禁断の恋を犯したのではなかったようだ。

 では大后の妹? いや、弘徽殿大后や摂政左大臣の父の堀川関白は、四十四年も前に亡くなっているという。だから大后の妹だったら少なくとも四十四歳よりは上だ。――あり得ない。あの女は自分よりは年下だった。

 先ほどの前右大臣や前中納言右衛門督の縁者なら二人とも左大臣家から見れば傍系で、弘徽殿大后とかかわりのあるはずがない。

 では何者なんだ……昨夜の姫は――?

「おい。こんなところで何をしてるのかね」

 われに返って目をあげると、頭中将がいた。

「急にいなくなったから、みんな心配してたのだよ」

「ああ、すまん」

 うつろな目で、源氏は頭中将を見あげた。

「どうしたんだ、いったい。がくは間違えるし、君らしくないじゃないか。二日酔いか?」

「それもあるけど」

「それ?」

 階段に腰かけたまま、源氏は頭中将から目をそらした。

「実は」

 言いかけて、やめた。友情と同居する親友への対抗意識が、源氏がそれ以上言うのをやめさせた。

「実は……何なんだい?」

 頭中将も源氏の隣へ腰かけた。二人は同じ方向を見た。

「話は変わるんだけど、昨日の宴を喪服で参観するような姫君が、いるのかなあ?」

「あっ! そうか。春の気分に誘われてってやつだな。どこで垣間見たんだ?」

「違う、違う。喪服の裾を御簾のすきまから少し見ただけだ。このような席に服喪中の人がと、意外に思ったんでね」

「君の縁者じゃないか」

「え?」

 驚いて源氏は首をまわし、頭中将を見た。

「私の縁者?」

「君の義理の妹だよ。私の兄上の娘だからな」

「あ、そうか」

 宰相中将の娘で、故本院大臣の娘を母としている姫なら、確かに服喪中だ。とすると、妻の異母妹となる。名を明かさなかったはすだ。

「二の君か三の君か、いずれにせよ弘徽殿大后様が、本院大臣の娘が母ということで目をかけておられるからな、大后様のひとことがあれは服喪中でも宴を参観していて不思議はないだろう」

 全くその通りだ。すると自分は、妻の妹を抱いてしまったことになる。妻が宰相中将の一の君だ。しかし母の身分が低いゆえに、いや、正確には本院大臣の娘が母でなかったがゆえに、弘徽殿大后に入内を拒まれた。源氏は妻の妹はその存在を知っているだけで、もちろん今まで会ったこともない。

「二の君は、帝の御元服の暁には帝の御元へ入内させるおつもりらしいぜ、大后様は」

「昨日いたのは、二の君だろうか、三の君だろうか」

「そんなことまで知らんよ、それより」

 頭中将は立ちあがった。

「みんなが心配しているから、早く戻りたまえ」

 ただの世間話を終えたとしか思っていない頭中将は、すたすたと日華門の方へ歩いていってしまった。


 事態が急転回した。聞かなければよかったと、源氏は何度も思った。

 その場に座り続けていることさえ苦痛に思われたので力なく南庭へ戻ったが、再び楽人の座に着こうとはしなかった。ただ桟敷の上で、杯を重ねるだけだった。

 妻にはできない存在を抱いてしまった。妻は何人いてもよいが、すでに妻である人の姉妹は、たとえ腹違いとはいえ妻にはできない。もし舅の宰相中将に知れたら……さらにはそれが入内予定の二の君だったりしたら……さらには弘徽殿大后の耳に入ったりしたら……

 やはりとりかえしのつかないことをしてしまったのだ。

 妻が悪いのだと、またもや責任転嫁してしまう。それが醜いことだと知りつつも、妻の自分への態度に対する鬱分が爆発しての昨夜の行為だったのだと自分をなんとか正当化しようとするが、しきれるものではなかった。良心が痛む。

 まずは二の君かどうか、それをつきとめなければならない。そしていずれにせよ、もう一度本人に会って話し合わなければならない。そう思うのも、源氏の中に腑に落ちないことがあったからだ。彼女がそのような素性なら、なぜ進んで自分に抱かれたのか。そして、なぜ自分を捜してほしいというような素振そぶりを見せたのか。

 とにかく源氏は帰りたかった。気分の不調を申し出て、後宴のにぎわいをあとにした。そして陽明門から源氏は大内裏を退出し、門外に停めてあった自分の車に乗った。

 彼の混乱する心情とは別に、彼の肉体はただひたすら眠ることを欲していた。二条邸へ戻ると彼はまだ明るいにもかかわらす、さっさと御帳台の中に入ってぐつすり眠ってしまった。


 翌日も昼まで寝た。ちょうどその日は彼の、月に五日のの日(休暇)だった。寝ることだけが、すべての混乱からの逃避だった。

 昼前に彼が起きたのは、西ノ対の姫の乳母の少納言が目通りを願ってきたからだった。

「姫様がかなり、すねておいでですので」

 冗談めかして少納言は言ったが、確かにここ三日ほど西ノ対には行っていなかった。

 しかし行きたくはない。姫の顔を見るのが辛い。今はそれどころではないほどに、源氏の心の中は混乱している。

 それでも少納言がぜひにというので、しかたなく源氏は腰をあげた。

「あ、お兄さま」

 パッと姫の顔が輝いた。また文句を言われるのかと思いきや、姫は微笑んだまま一礼した。

「お兄さまも御公務お忙しいのですね」

 嫌味のない言い方に、源氏の方が驚いた。確実に姫は成長している。幼女の中に娘という花が開花しつつある。

「ご無沙汰して済まなかったね。でも、しはらく会わないうちに大人になっていくから、会わないでいる方が後の楽しみが大きいかもな」

 源氏も笑いながら、身舎もやの中へ入った。この日は人形遊びはしていないようだった。

「まあ、そんなことおっしゃるなら、私は大人になんかなりませんよ」

 しかしやはり子供だ。源氏はこのような汚れを知らない乙女が、自分の手の中にあるのが不思議だった。清らかだ。あくまでも清らかだ。ついつい昨日の姫と、そして自分と比転してしまう。本当ならこのような清らかな少女からは、自分は一歩下がって床にひたいをこすりつけなけれはならないのかもしれない。

 姫は板床に一枚だけ置かれた畳の上に座っていた。その半分を彼女は源氏のために空けたが、あえて彼は円座に座った。

「今日は、犬君は?」

「犬君、お母さまがご病気で下がってますの」

「じゃあ、退屈だったろう」

「でも、お兄さまが来て下さったから」

「今日は琴でも、教えてあげよう」

 そうして源氏は一日、姫と琴を弾いての日を過ごした。こうしている間だけ、すべての煩わしさから解放された。西ノ対の姫はそのような、不思議な存在だった。

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