源氏はやはり、宿直とのいすることにした。

 宴も果て帰る人は帰り、内裏は本来の夜の静けさをとり戻していた。

 源氏は酔醒ましに、内裏の中を歩きまわっていた。名分はある。近衛中将としてのその職務――宮中警護の励行である。

 夜の宮中はかなり不気味だ。いつものや鬼が出てもおかしくない。もし源氏が酔っていない素面しらふだったら、とても恐ろしくて夜の宮中を徘徊することなどできなかったであろう。

 手には小さな紙燭を持ってはいるが、半分欠けた月がようやく昇り、その明かりを頼りに源氏は歩いていた。花曇りで月の光もおぼろだったが、ないよりはましだ。

 彼の足は後宮へもと向いていた。しかしそれは職務外である。

 彼は酔っていた。まだ醒めていない。だが、このような時でないと、冒険はできまい。だから必要以上の場所まで、そして普段なら行くことのないところまでふらふらと立ち寄ってしまう。何かおもしろいことがあるのではという泥酔時特有の期待感が、彼についつい深夜徘徊をさせてしまっていたのだった。

 もっとも後宮といっても、帝はまだ御歳十一歳でまだ元服前でもある。入内した女御も更衣もまだ誰もいない。従って後宮はまだ成り立っておらず、源氏の亡き父院に数多あまたさぶらい給うていた女御・更衣もすべて宮中から退出している。唯一残っているのは弘徽殿大后だけだが、大后は帝と同殿だ。

 どの殿舎もぴたりとしとみはおろされ、すべての面が厚い壁となっていた。人の気配も簀子すのこを歩いている限り全くない。

 気がついてみると、彼が歩いているのは弘徽殿の東の簀子だった。大后は今は飛香舎に遷っているし、今宵は帝もおそらく大后とともにおられるだろう。

 弘徽殿は無人にも近い状態であろうことが、酔った頭でも何となく予想される。

 源氏はその妻戸を開くはずもないとは思いながらも、悪戯いたずら心から引いてみた。

 ところが、開くはずもないその扉が開いたのである。

 無用心な、と彼は思った。このような時に、男女の過ちというものは起こるものだなど妙にしたり顔で納得しながら、こっそりと中へ入ってみた。

 真暗闇だ。予想どおり人の気配は全くない。東廂の奥の塗篭ぬりごめへの枢戸くるるとも錠がされてはいなかった。

 源氏はふと息をとめた。きぬ擦れの音がする。それは向こうの方から、こちらへ近づいてくるようだ。

 殿舎の中央に走る馬道の春の夜の月に誘われて大内山をそぞろ歩きしている酔客は、自分一人ではなかったらしい。

 源氏は紙燭の灯を消した。

 その影は歌を口ずさんでいるようだった。

「――朧月夜おぼろづきよにしくものぞなき」

 古歌だ。しかしそれよりもその声が若やいだ女の声であったことが、源氏の胸をときめかせた。

 同じ歌を何度も口すさみながら、女はこちらへ近づいてくる。源氏は塗篭の中に身をひそめた。

「――照りもせず曇りもはてぬ……」

 暗闇なので姿容貌かたちは見えない。それでも声といい漂う香といい、ただの女房ではなく高貴な姫君であろうことは間違いのないようだ。

 すでに正装の唐衣からぎぬ姿ではなく、平常の小袿こうちぎ姿だ。それは姫が宮中に居住する者であることを物語っていた。

 今、姫は源氏の前を通過しようとしている。このまま息をこらしていれば、姫は源氏の存在に気づくこともなく行ってしまうであろう。また、平静の源氏ならそうさせてしまい、今夜という夜もただの月のおぼろな春の夜で終わってしまったに違いない。

 酔いが源氏に、腕を伸ばさせた。

 歌がとまった。あとは空白の頭で源氏は、女体を塗篭の中にひきこんでいた。女が着ていた小袿だけが脱げて木の床に落ちた。

「な、何をなさいます。あなたはいったい。誰か、誰かある!」

 源氏は慌てて戸を閉めた。塗篭の中は戸を閉めれば、そこは暗黒の闇の世界だ。

 はちきれんばかりに源氏の胸は高鳴っている。もうあとへは引き返せない。

「どうか、お静かに。乱暴は致しませんから」

 姫の抗う力が、少しだけ弱まった。源氏の口ぶり、束帯や香などから、夜盗の類ではないということだけは分かったのであろう。

「あまりにも無体ではありませぬか。人も呼びまするぞ」

 凛としたその声は、まぎれもなく高貴な姫君のものだった。

「人を呼びましても、私だと知れは誰も文句は言わないでしょうね。朧月夜おぼろづきよにこうして出会えたのも、おほろけならぬ前世の因縁なのでしょう」

 何も考えていないのに、言うことだけは口をついて出るから不思議だ。とたんに姫の動作がぴたりととまった。暗闇に慣れてきた目をこらすと、姫はしきりに源氏の顔を見つめているようである。

「あなた様は、もしかして」

 姫の声も、急にか細いものになった。

「光源氏の君様」

 正体がはれている。ところがもっと驚いたことに、次の瞬間姫の方から源氏の胸の中にとびこんできたのであった。

 ただでさえ酔っている源氏は、姫の香りにますます酔った。姫君は抵抗するどころか完全に源氏にその身を委ねている。

 はじめは戸惑ったが、すぐに本能の方がそんな心をかき消した。

 手ざわりの姫の体や声から年齢も妙齢なようだし、髪も手ざわりよく、そうとう美しい姫であるという実感は間違いないように感じられた。

 一枚一枚、脱がせにかかる。はじめは自らの身を源氏に重ねた姫だったが、いざとなるとやはり恐いらしく小刻みに震えていた。それが源氏にとってはかわいく思われてならない。


 姫は処女おとめだった。しかし源氏の愛撫によく反応した。まるで人形を抱いているような妻との交歓とは、程遠いものがあった。もちろん処女であるだけに、六条御息所という熟女とのそれとも全く違った。

 源氏は腕の中の姫を、心からいとおしいと思った。しかしその名、身分さえ全く知らないのである。


 源氏の方が先に目をさました。外は薄ぼんやりと明るくなりかけている。壁に囲まれた塗篭の中でも、天井がないので朝の光は入ってくる。完全に朝になる前のまだ少し暗いうちに立ち去らねば、場所が場所だけに大変なことになる。

 源氏は腕の中の姫を起こした。

 夜明けの薄明かりの中で見る容貌は、思ったとおりの美しさであった。あどけない表情は妻よりも若いようで、まだ少女の面影を残していた。だが、さすがに自分の邸の西ノ対の姫のような子供ではない。

「もう、行かねば。あなた、名を教えてくれませんか」

 姫は静かに首を横にふった。

「お知りならない方が、よろしいかと」

「そんな。名も知らなければ、どうやってこれからお訪ねしたらいいか。まさか、これきりの縁だなんて思っておられるのではないでしょうね」

 昨夜はかなり酔ってはいたが、記憶ははっきりしている。自分から無理やり姫を抱いたのではない。最初のきっかけは自分からだったが、明らかに姫の方が自分を求めていた。源氏はそのことをはっきりと思い出した。

 姫は目を伏せた。

「ここでこうしてお別れしたら、もうお捜しになるおつもりはないとでもおっしゃるのですか」

「いや、そういうことじゃない。ただ、捜している間にとんだ邪魔が入ったりしたらと思ってね。それより、私とこういうことになったのを後悔しておられるのか」

 笑みを含んで、姫は首を横にふった。そして自分の扇を、黙って源氏にさし出した。

「ん?」

「あなた様の扇を、下さいまし」

 源氏は自分の扇を探して拾うと、姫に言われるとおりに差し出した。扇を交換して着崩れを正し、源氏がます先に出ようとした。

「では、また」

 戸を開けると、かなり薄明るくなっていた。源氏はもう一度、姫を振り返って見た。姫はすでに几帳の向こうに入ってしまっていた。床に姫の脱いだうちぎばかりが散っている。

「ん?」

 源氏はふと目をとめた。それは黒い喪服だった。昨夜は暗くて分からなかったが、姫は喪服を着ていたのだった。

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