夏になって、宮中ではさっそく賀茂の祭りの次第が議せられるようになった。

 毎年その話題が出ると、ふともうそんな季節かと思ってしまう。源氏にとって若い頃に比べ、確実に年月がたつのが早く感じられるようになっていた。今年もまた、あっという間に季節が変わりつつある。

 議は上卿の小野宮左大臣が欠席であったので、九条右大臣の天下となり、彼がすべてを取り仕切った。左大臣は弟に圧倒されてか、このところほとんど政治的意欲を欠いている。

 だが雨という天候のせいで、公卿たちの欠席も少なくなかった。

 そんな賀茂の祭りの議が続く毎日の中で、夏のもう一つの行事としての潅仏会かんぶつえも執り行われた。

 内裏では昼過ぎからそれは行われ、陣の座に待機した公卿たちはお召しによって清涼殿の孫廂に座る。そこへ導師の入場となり、参拝と仏像の潅浴が始まるのである。

 この日、源氏は宮中での儀が終わると、急いで西宮邸に戻らねばならなかった。西宮邸でも同じく潅仏会を計画していたからである。

 源氏が西宮邸に戻った時は、すでに日は没していた。準備は万端整っていて、清涼殿での時と全く同じように南殿に山形が立てられ、糸の滝、五色の水の鉢も滞りない。だが、肝腎の導師がまだ来ていないという。

 それよりも先に、客人の方が次々に訪れてきた。

 右大臣をはじめ、昼の宮中での潅仏会に参列した殿上人たちまでもが、あらためて西宮邸の潅仏会に臨んだのである。それに加えて、宮中では参列し得なかった人々も、源氏は多く招いていた。

 明石の上の車も、その両親と同乗して到着した。二条邸の長男もやって来た。

 しかし、とにかく導師が来ないことには何も始まらない。そこで、男は東ノ対、女は北ノ対で待機してもらうことにした。

 人々が退屈していないか心配であったので、源氏は東ノ対に渡った。

「いやあ、宮中より華やかですな」

「かえってこちらの方が、緊張してしまいますよ」

 殿上人たちは源氏の姿を見ると、口々に愛想でそう語りかけてきた。源氏がそれに笑みで返答しつつもふと見ると、右大臣のすぐそばには自分の長男がいた。

 何やらしきりに歓談している。息子はよほど右大臣になついているようで、ほほ笑ましいことだと源氏は思った。あの年ごろの男の子は父親以外の年長の男性の中に英雄を見つけ、やたら慕うものだ。

 本来なら自分の外祖父の左大臣にこそなついて然りであったが、長男はそうではなかった。だが、もしそうであったら源氏にとっては逆に困る。左大臣の方になつかれたりしたら後々が面倒になったであろうし、そうでなくてよかったとつくづく源氏は思った。

 やがて何人かの僧とともに導師が到着し、厳かに潅仏会が始まった。まず導師が釈尊の像に拝礼し、人々はがくの中で献花し、導師が先に仏像に五色の水を注いでから参列者たち、そして女房の順にと続く。導師への布施は唐銭だが、源氏の妻たちの布施もまた、それぞれ特懲のある珍しいものばかりであった。


 潅仏会が終わっても行事は目白押しである。すぐに賀茂の祭りとなるが、今年はそろって祭り見物をしようと、源氏は早くから一条大路に桟敷を作らせておいた。すると西宮邸の西ノ対の上は、当日の祭リ見物の前に賀茂のやしろに参拝したいと言いだした。

 自分の子の次郎君じろうぎみと預かった姫の将来のことを祈願したいというので、源氏も賛成した。

 参拝して戻ってくる頃に、ちょうど勅使の行列となる。その後、対の上は明石の上もともに参拝に誘ったが、断られたということであった。

「まだ物おじしているな。君と一緒では見劣りすると、心配しているんだろう」

 源氏は笑って言った。

「まあ、よく言いますこと。でも、私を恨んで断ったのではないのですね」

「あの人は、そんな人を恨むような人ではないよ」

「まあ、肩を持って」

 少しだけ頬を膨らませた対の上であったが、すぐに笑った。明石の上の返事は、ともにの参拝は見合わせるが、祭り見物だけはせめてご一緒にということであった。


 当日、源氏は先に桟敷で待っていた。妻の車はなかなか参拝から戻って来ない。早く来ないと車が増えて身動きがとれなくなると気をもんでいたら、やっと妻の車は到着した。

 その後、明石の上の車も来たが、その家司が言うには、明石の上はどうしても遠慮して桟敷の下に車を入れて車の中から行列を見ると言っているということであった。

「慎み深い方なのですね。遠慮はいらないのに」

 対の上は、少しつまらなそうであった。それを見て、源氏はなだめるように笑った。

「桟敷の下は、私の縁故の人々の車のための場所だよ。特に設けておいたんだ」

 すでに路上には車が多く立ち込め、その車を立てるところを求めてそれぞれがさまよっている。あちこちでは、祭り見物の貴人の従者同士が争う声さえ上がっていた。源氏の桟敷の下も、源氏の邸の女房や若君たちの乳母の車などで、すでにいっぱいになっていた。

「つまらない争いは、起こしてもらいたくないからね。特に、私と縁故のある人々の間では。だから、桟敷の下は私と縁あるすべての人のために確保しておいたんだ」

「でも私だけ、初めて祭りを見るのにこんな高い桟敷から……」

「おいおい、初めてじゃないぞ。覚えてないかなあ。あの時は桟敷じゃなくって、いっしょに車の中からだったけど」

「え、殿も車の中から?」

「だって、今とは身分が違ったのだよ、あの頃は私もね。君だって、私の膝の上で甘えていた子供だったくせに」

「えーっ、そんなことあったかしら……。そういえば、あったような気もしますね」

「ちょうど、あの時だよ。ある事件が起こってね。その当時の私の妻、つまり二条邸の息子の母親が心ないことをしたんだ」

「左大臣様の姫で、私の従姉の……?」

「そう。奢り高ぶっていたんだろうな、高貴な方の車をどかせて、倒してしまったんだよ。結局その後で、何かに祟られてあの人は長男を生むとすぐに死んでしまった」

 少しだけ源氏は目を伏せた。

「その人の忘れ形見の長男は今ようやく出世の糸口をつかんだばかりだけど、車を倒されて辱めを受けた方の娘は、今や女御としてときめいている」

「もしかして……斎宮女御様?」

「そうだよ」

「そんなことがあったんですか」

「だから、人の世はどうなるか分からないものだね。私もこれからどうなるか……。とにかく、そういったわけで、私はこの祭りで争いを起こしたくないんだよ。だから桟敷の下を確保したんだ」

 その時、祭りの勅使の行列の先駆が来て、人々や車を道の脇にどかせる声が響いた。


 源氏はそれまでの検非違使の別当を辞して、代わりに内教坊の別当の兼職を拝命した。内教坊とは宴などのときの舞を舞う舞姫を教習する役所で、源氏が直接教えるわけではないが、常に若い女性で満ち溢れている所であった。

 盗賊相手の検非違使より、みやびがくや舞を扱う内教坊の方が自分には合っていると自薦したのが認められたのである。

 女たちの教習は専門の楽人が担当するが、源氏もその道の腕は時には楽人以上だったりするから頼もしがられた。それに加え、源氏は故関白太政大臣から右大臣のつてで有職故実の教命も受けており、右大臣とともに九条流故実の双璧ともなっていた。ほかにも、源氏とて若い女性の多い職場の方がいい。

「うらやましいな。若い女性に囲まれて」

 ある日、右大臣がほかの公卿たちがまだ来る前の二人だけの陣の座にて、そう茶化してきた。

「かえって欲求不満になるよ。目の前にご馳走が並べられていて、手を出してはいけないと言われているようなものだからな」

「いや、君のことだから、がまんできるかな? 危ない、危ない」

 右大臣と一緒にひとしきり笑ったあと、急に源氏は真面目になった。

「もう、無理だよ。だいいち、向こうがこんなおじさんを相手にしてはくれまい。寂しいところだけどな」

「そりゃそうだ」

「昔のようにはいかないよ。恋愛というものとも、ずいぶんのご無沙汰だ。純粋に胸を焦がして、心を熱くするような恋愛などとは、もう二度と縁がないだろうな。もし仮にあったとしても、今では心の中でどこか打算が働く」

「それは言える。そして、我われの息子たちが、ちょうどそんな胸を熱くするような時代を迎えている」

 あの内教坊の女たちも、息子の世代としか釣り合いはとれまい。しかし、それでいいのだと源氏は思った。胸を熱くするような恋はなくても、妻たちや子供たちへの落ち着いた確かな愛が今はある。それだけで十分であった。


 その頃、右大臣の娘の藤壷女御が生んだ内親王が、わずか四歳でやまいにより薨去した。東宮の同母姉である。薨去が姉ではなく東宮だったりしたら国家的一大事だったが、帝にとっては子を亡くした親としての悲しみは変わらなかったであろう。帝にとっては無事に育った初めてのお子であり、また右大臣にとっても初孫であった。女御の出産に当たって皇女ひめみこだと分かったとき、喜びながらも内心は落胆の色を見せた右大臣だったが、やはり悲しみは一入ひとしおのようだった。

 だがそんな中にも一条の希望の光はあった。女御はすでに次の御子を懐妊していたのである。

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