その頃宮中でもちきりになっていた話題は、帝や院、そして源氏の父の故院の山科の勅願寺の五重塔の完成であった。

 ここは故院の御陵にも近く、また故院がその御生母の屋敷跡を寺にした御寺も近い。源氏にとっては、父の故院をお偲び申し上げることのできる懐かしい土地でもある。その思いは、故院の中宮であった大后とて同じであろう。だから、今回完成した五重塔は大后の発願であった。

 そもそもこの勅願寺は本来山岳信仰の道場として栄えた寺であったが、勅願寺となって以来もとの山頂の堂は奥の院としてそのままに、伽藍は山麓に甍を競うようになった。その山麓の境内には、故院時代に雷で一部焼失した清涼殿を移築して建てた清涼堂も二年前にすでに完成していた。そして今回は五重塔が、着工以来二十一年目にしてようやく落成した。大后が誰よりも喜んでいるはずである。

 だが公卿たちにとっては喜んでばかりもいられず、早速に落慶供養の儀が議せられた。これがまた下位のものからの意見の陳述、先例の調査などでなかなか進まない。そのうちに季節は移り変わり、紅葉の盛りになってようやく落慶式の日取りは決まった。

 その前祝いのような形で、残菊の宴が宮中で催された。これはもともと九月九日の重陽の節句に菊花の宴として催されていたものだが、その月が故院の国忌に当たるので長らく停止されていた。だが、昨年より重陽からひと月遅れで再開された。古くにも重陽の宴が行われなかった代わりとして、一ケ月後に残菊の宴が催された先例もある。

 だが、勅願寺五重塔の落慶供養の日取りが決まったあと、公卿たちの議はこの宴について少しもめた。人々に賜る禄が少なく、開催不可能ではないかという意見が出たのである。

 だが、左大臣は開催の方向で押し通した。禄が少なくても、昨年やっと始まったばかりの慣例を壊すべきではないし、また重陽の頃は風水害も多い季節だが今の方が天候的にも宴にふさわしい、そういったことに加え今年が豊作であったことも鑑みて残菊の宴は執り行うべきだと左大臣は主張した。そして、その主張は通った。

 源氏はそれによって、多忙を極めることとなった。

 内教坊別当として、内教坊奏も行わなくてはならない。そうこうして残菊の宴の当日は何とかそれも成し遂げたと源氏は自分では思ったが、あとで右大臣から、少しばかり先例と違ったと笑いながらの注意があった。

 同じ九条流故実の流れの中にいるもの同士だし、また朋友の源氏のことであったから目くじらを立てられずに済んだようだ。

 そして次の大行事が勅願寺の塔の落慶供養で、それが済んだら新嘗祭が待っている。宮中全体が慌ただしさの中に包まれていた。

 だが、そういった流れに滞りも生じた。御子のご誕生などなど慶事が続くときは続くが、凶事もまた続く。

 三ケ月ほど前に藤壷女御腹の内親王が夭折したばかりで、今度は左大臣の三君である朱雀の院の女御が薨去した。

 これによって院にはもはや女御は一人もおられなくなったことになり、今後の御子の御誕生は難しくなった。今同薨去した女御には子がなかったので、結局院の御子は前に亡くなった王女御の遺した三人の皇女のみとなった。

 これで院の御跡は男系では絶たれ、皇統は今の帝の御跡へと受け継がれていくことになる。

 その女御の薨去で落慶供養も延期すべきだという意見が出て、今度ばかりは左大臣も強行することはできなかった。延期の理由が、自分の娘の女御の薨去である。

 しかも、その女御の入内は大后のお目にかなってのことだったので、大后の手前も行事は延期にすべきだというのがだいたいの公卿の意見であった。

 結局、落慶供養はしばらく延期となり、年内には無理だろうというのが大方の見通しであった。それにしても亡くなった女御の母はかの故本院大臣の娘であったから、またしても火雷天神という名前が人々の口に上るようになった。

 とうの昔に風化したかのように思われた存在であるが、まだまだ根強く人々の意識の中にはこびりついているようだ。しかも、今の公卿のほぼ全員があの雷公の事件を直接は知らない世代のはずなのに、その名を口にしていた。

 一方、日の翳りゆく院の御所とは対照的に、弟君の帝の宮中では東宮が生母の殿舎である飛香舎においてすくすくと成長し、生後満二十ケ月目の魚味ぎょみの祝いも無事に執り行われた。その際に、昼御座ひのおましに東宮を抱いて座ったのは、右大臣のまだ二十歳を少し超えたばかりの三男の侍従であった。まず鯛が供せられ、次にほかの魚鳥も供せられた。

 源氏は東宮大夫である小一条中納言とともに御前への伺候が許されたので、小さなお口で魚鳥を召される皇太子の姿を、目の当たりに拝することができた。

 この院の御所と宮中の二つの対照が、今の源氏にとっては小野宮家と九条家を横滑りに象徴しているかのように感じられてならなかった。

 宮中の華やかさがますます光を増す中で、帝は故父院の御世をことごとく再現したいとお考えになっておられるようで、昭陽舎に撰和歌所を設けられ、その別当には右大臣の長男の蔵人左少将が任じられた。その下に集められた五人の人々は受領階級ではあるが歌人の家系の者たちばかりで、主な仕事は『古万葉集』に訓点を施すことであった。

 だが、仕事はそれで終わりではなく、もっとずっと中心的な使命が梨壷の五人には課せられていた。それは、故院の御代以来の、勅撰和歌集の編纂であった。


 年も明け、源氏は三十九歳になった。来年はいよいよ四十である。

 そんな折、

「兄君の四十賀はわたくしが」

 と帝ご自身からお話があり、源氏はかえって恐縮していた。

 そしてまだ一年早いがその四十の賀の前祝いという意味もこめて、帝はその勅によって源氏に年爵を与えられた。

 中納言という身分から考えれば、全くの破格の待遇である。

 これは一年に一人を従五位下に任命する権利で、その任命されたものから叙料を受け取ることができ、それが収入となる。ところが、本来年爵が許されるのは上皇と三后(太皇太后、皇太后、皇后)のみであり、太政大臣やひいては帝にすらない権利である。

 だが先例として故関白太政大臣に、三后に準じてという名目でこれが与えられたことがあった。故関白は臣下なので年爵付与を准三后と称したが、源氏の場合は同じ臣下でも皇親扱いの一世源氏なので准三后ではおかしく、そこで上皇に準じての年爵という名目となって、準太上天皇と称する年爵付与になった。

 その慶申よろこびもうしの意味もこめて、源氏は西宮邸にて大臣大響に準じた私宴を催すことを計画し、帝とさらには朱雀の院の行幸をも仰いだ。その宴開催という前代未聞の出来事に公卿たちはそれだけでも驚いたが、帝と院の行幸というこれまで大臣大響にさえなかった事例には感嘆の声が上がった。

 中納言の屋敷への行幸は、もちろん先例はない。先例第一の貴族社会にあって年爵をも含めて行幸までもが実現したのはやはり源氏が帝の兄ということもあろうが、故院の遺詔が大きくものを言っていた。

 その遺詔を直接お受けになった朱雀の院は大后の存在もあってままならぬことが多かったが、故院崩御のときはまだ五歳であらせられた帝の方がそれを忠実にお守りになった結果であるともいえた。こういった点ではもはや源氏は藤の末葉ではなく、かの一門をしのいでいたといえる。

 そしていよいよ、行幸の当日を迎えた。

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