そして最大の難関は、明石の上本人であった。

 源氏は意を決して高松邸へ行ったが、いつものようにはすぐに北ノ対には渡らず、まずは寝殿に落ち着き、その南面みなみおもてへ明石の上を北ノ対から呼び寄せた。さらには西ノ対にいる明石の上の父の入道と母にも同席を求めた。

 ここはあくまで源氏の屋敷であって、入道の屋敷に通い婚をしているわけではないので、源氏は寝殿に入ったのである。

 一同がそろった。公務ではないから源氏は上座には着かず、入道を舅として立て、四人が向かい合って座る形になった。

 明石の上はこの普段とは違う源氏の来訪にある程度は話の内容を察しているらしく、身を固くしていた。

 いつまでも重苦しい雰囲気のままでいてもいけないので、まず源氏が口を開いた。

「姫のことだが」

 明石の上がますます身を固くするのを、源氏は感じた。それでも、あえて言葉を続けた。

西宮にしのみやの上も会いたがっていてね、できれば袴着とかも西宮邸で盛大にやりたいんだ」

 しばらくは返事もなく、室内には沈黙が漂った。明石の上には前もってほのめかしていたことではあるが、その両親にとっては寝耳に水の話である。ようやく明石の上が、力なく頭を上げた。

「西宮の上様はたしかにやんごとなき身分の御方ですけれど、姫をその方の養女にして頂いたとて、いずれ私が生んだ子ということが世間にばれましたら、かえってまずいことになりませんでしょうか」

 その言葉にも力がなかった。今まで一度も恨みごとやわがままなどを言ったことのない女であったが、今度ばかりは反対であるという態度が見受けられた。

「気持ちは分かる。でも、西宮の上を信用してほしい。あれも人の子の親だから、君の気持ちを考えてすごく同情していた。だからあれに預けたら、決しておろそかには扱うまい」

 また明石の上は黙ってしまった。娘を手放したくはないがその将来を考えてればという心の葛藤に、即答できず悩んでいるようだ。

「あの、一人で考えさせてくれませんか」

「いえいえ」

 そこへ口をはさんだのは、母であった。

「一人で考えたりしたら、結局はよくない方の道を選んでしまったりするものだからね。今は源氏の君様がこのようにおっしゃってくださっていることに、素直に従うべきだと母は思いますよ」

「でも、母上……」

「自分のことより、姫の将来のことをお考えなさい。源氏の君様もそれを思われて、このようにおっしゃってくださっているのでしょうから」

「そうだ」

 武骨な老入道も普段の饒舌からすれば珍しく今まで黙っていたが、やっとその口を開いた。

「申すも恐れ多いことだが、源氏の君様は親王にはおなりになれなかった。それは源氏の君様の母、つまり我が姉の身分が低かったからだ」

「いえ、それはそうではなく……」

 源氏がそれだけではないと否定しようとしたが、構わずに入道はいつもの調子を取り戻して話し続けた。

「我われの父は、右大弁で亡くなったからな。父の悲願であった娘の入内がかなって、それで姉は源氏の君様をお生み申し上げたのだが、何しろ姉自身の父親が右大弁でしかも故人とあっては、姉はどんなに帝のご寵愛を頂いたとしても結局は更衣にしかなれなかった。そのお子だから源氏の君様も臣下に降ろされた。女の出世は、その親で決まる。それも母親でだ」

「そうそう。袴着にしたって、西宮邸で立派にして下さった方がどんなにか」

 源氏が何も言わなくても、両親がどんどん説得してくれる。それでも明石の上は、まだ浮かない顔をしていた。

「源氏の君様と西宮のお方様にお任せすれば、姫の将来は間違いなしだ。実はな、わしはおまえが生まれた日に夢を見たんだ。その夢については、今はまだ言わぬ。だが今は、とにかく源氏の君様が言われた通りにすることだ。姫に物心がつく前にな」

 入道の言葉に、やっと明石の上はこくりとうなずいた。


 ちい姫はようやく物につかまって立ち上がり、二、三歩くらいなら歩けるようになっている。西宮邸の西ノ対ではちい姫を向かえる準備でそれこそ大わらわで、しかし明るい雰囲気がみなぎっていた。まずは、壁代でかなり部屋を分割しなければならない。次郎君とその乳母がいる所へ、姫とその乳母も移ってくるからだ。

 そして当日、またしても西ノ対は大騒ぎとなった。ちい姫が到着すると、幼心にも違う場所に来たということが分かるのであろう、着くや否や大泣きに泣いて、乳母がいくらあやしても一向に泣きやまなかった。

 結局は一晩中ちい姫は泣き続け、そうして西宮邸での最初の夜を過ごした。

「本当につらい思いでした」

 二、三日後、対の上は源氏にそう語った。

「乳母が一緒だから大丈夫かと思っていたんですけど、ちい姫ももう分かるんですね。私が直接抱いてあやしても駄目で、でもこんなかわいい方を私に預けた高松邸の御方のことも気になって……。さぞかしあの方は……」

「ちい姫もすぐ慣れるさ。子供が新しい環境に馴染むのは、大人よりずっと早い。今はまだ物心もついていないから、そのうちこの屋敷で生まれ育ったんだと思うようになる。君を母親だと思ってね」

「何だか……」

 それ以上は、妻はあえて何も言おうとはしなかった。


「大変だよ」

 宮中で右大臣につかまった。話があるから、あとで右大将の直廬へ来てくれという。右大臣は右大将も兼ねているからだ。そこで源氏は宮中を退出前に、大内裏の西の方にある右近衛府の中のそこへ赴いた。

「君の太郎君が、昨日血相を変えて我が九条邸に来てね」

「うちの息子が?」

「ああ。あの宴以来、もう何度か来ているんだ。私が招いたからね。でも昨日は、向こうから突然来た」

「どうしてだい。何があったんだ?」

「どこで漏れ聞いたか、君が高松邸の姫を西宮邸に引き取ったことについて、ものすごい剣幕でね」

「そのことか。やつは何て言っていた?」

「汚い、汚いって言ってたよ。『自分の出世のために娘の母を替えるなんて、生んだ人の気持ちを考えたのか。許せない』ってね」

「汚い……か」

 源氏は思わず苦笑した。だが、右大臣も苦笑しながら言っていたので明らかに自分の味方であり、源氏は気持ちを荒立てずに済んだ。

「ま。うまく取り繕っておいたから、安心したまえ。しかしねえ、あの一本気はますます気に入ったよ」

 そして右大臣の顔は、苦笑からにっこりとした笑みに変わった。だが、源氏の苦笑は続いたままだった。

「そういう年ごろなんだな。私にも覚えがある。私があいつの年だった頃も、何もかもが許せなかった。大人の世界が汚く見えて仕方がなかったものな」

「そういえばそうだな。青かったんだな、あの頃は」

「何でもできたよな。若いというだけで何でも許された。その反面、常に何かに悩み、怯え、怒りを持っていたよな。私もあの頃は、大人というものが許せなかった。今はその我われが彼らから許せないと言われている」

 源氏は笑った。それに右大臣も呼応していた。

「そうだな。でもな、年を重ねたらその分だけ真実が見えてきたじゃないか。あの頃は何でも分かっているつもりで、実は何も分かっていなかったんだ。頭中将だった頃の私はね」

「たしかに。でも、見たくもない真実が見え始めたのもあの頃だった。そしてそれだけ悲しみの数も増えた。今はそれを覆い隠すすべさえ身につけてしまった」

「たしかにな」

 また右大臣は苦笑した。

「もう純情にはなれないよな。子供の頃って、大人は汚いと思う反面、早く大人になりたくして仕方がなかったけどな。そのいらいらで大人に食ってかかる」

「うん、でもね、若者が言うことはたいてい正しいんだよ。その正しさに対抗する言葉を、我われは持っていない。だから、『おまえにもそのうち分かる時が来る』としか言えない。実際のところ、正しいことも所詮は理想にすぎずに、実社会の荒波にもまれたらそうは言っていられないということを、息子もだんだん分かってくるだろう」

「そうだな。とにかく今は『おまえは若い。今に分かる』としか言えないよな。自分でいろいろなことを経験して、そして失敗して傷ついて、だんだんと分かってもらうしかないだろう」

 右大臣の話を聞きながら、酒も入らずに素面しらふでよくここまで話せるものだと源氏は思っていた。

「それにしてもあいつ、そんな話を君にするなんて、ずいぶんと君になついたものだな。ま、ひとつこれからもよろしく頼むよ」

 源氏は右大臣に頭を下げた。

 源氏が若かった頃、こんな悩みをぶつけていた相手は三条の入道の宮であった。息子にとってはそれが、今源氏の目の前にいる右大臣のようだ。単に実利的な援助ではなく、このように精神的にも援助してくれる右大臣が源氏にはありがたかったし、藤氏だ源家だなど関係なくいい友を持ったものだとつくづく思うのであった。

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