第8章 藤裏葉

 ここのところ二条邸の長男が何やら物思いにふけっているという、二条邸の乳母からのふみが源氏に届けられた。

 さもあろうとも、源氏は思う。

 自分が酔った勢いでいらぬ説教をしたものだから、息子は悩みこんでいるに違いない。自分の身の上のことや将来のことで全く先が見えないでもがいている息子の様子は、源氏にも容易に想像できた。今がいちばん難しい年齢なのだ。

 もちろん源氏自身にも覚えがある。息子は確実に自分と同じ道を歩みつつあるようでそのことは理解できるのだが、逆に源氏は今の自分がどう息子に接していいのかが分からずに苦しんでいた。親としての自分自身の心の整理がつかない。このまま放っておいてもいいものかどうか……。

 ちょうどそんな心の乱れの真っ只中に家司が息子の来訪を取り次いできたので、源氏の心はさらに乱れ、そして戸惑った。

 何の前触れもなく息子は来た。もしかしたら何かまた文句を言いに来たのだろうか……とにかく源氏は息子を寝殿の東の放出はなちいでに通し、まずは笑顔で接した。

「よく来たな。すごい屋敷だろう」

「閑静なたたずまい。うらやましう存じます」

 口こそ丁重だが、息子は十分に緊張しているようだ。思えば彼がこの西宮にしのみや邸を訪ねるのは、これが初めてである。

「この辺まで来れば、人家もまれで落ち着いた町だよ」

 源氏は少しだけ笑って、息子を見た。

「ところで、今日はどうしたんだ? 何か近頃、ふさぎこんでいるらしいじゃないか」

 息子は黙って、一通の書状を源氏に差し出した。真名書きの男手で、署名は九条右大臣だった。

「ほう、九条邸の藤花の宴に招かれたのか」

 源氏も意外そうな声を上げ、首を傾げた。

「右大臣がおまえをなあ……。で、それをわざわざ知らせにきたのか?」

「お祖父じい様の左大臣殿なら分かりますが、右大臣様のお招きとあれば父上にお伺いしてからの方がいいかと」

 源氏は大笑いをした。だが、息子が少しムッとしたような顔をしたので慌てて笑うのをやめ、源氏は目を細めた。

「いや、ばかにして笑ったのではないのだよ。おまえももう大人になったなと思って、それが嬉しかったのだ」

 息子もかつての自分がそうであったように、初めて大人のどろどろとした世界を垣間見たのであろうと源氏は感じた。右大臣が息子を招いたとて、右大臣も息子の大叔父であり、血縁がないわけではないから不思議ではない。しかし、自分の祖父の左大臣と大叔父の右大臣が兄弟でありながら最大の政敵であることを、息子は知ったようだ。だから困惑を覚えて、ここに来たのであろう。

「断る理由はないだろう。わざわざの使いなら、早くお返事申し上げなさい。右大臣と父は若い頃からの朋友だから、おまえの母が左大臣の娘であったとしてもおまえのことはきっとかわいがってくださるはずだ」

 そう言った上で、源氏は自らの着衣の中から若者に似合いそうな二藍の直衣のうしを女房に命じて持ってこさせ、息子に与えた。

 ただ、息子が帰った後も、いぶかしさは持った。

 源氏とて右大臣がなぜ息子をという疑問は、内心感じていたのである。


 源氏も当然、九条邸の藤花の宴には招かれていた。邸内には見事なほどに藤が咲き誇り、その一族の繁栄を象徴しているかのようであった。その中を、源氏父子は連れ立って散策した。

「父上。この藤の花の栄えの中に、われわれ源家のものは入り込むことはできないのですか?」

 息子はますますさかしくなってきている。彼なりに世情をとらえ、その中で自分の身をどう処するべきか思案しているようだ。

「入り込めないこともない。今はまだこの藤の木の裏葉うらばとして存在しているけどね。その裏葉がいつしか大きくなることもある」

 考えてみれば、本当に藤の裏葉として源氏は存在してきた。帝の御子で、そのままなら八省の卿という冗官で一生を絶えるところを、賜姓源氏となって臣下に降り、今の左大臣家の婿となった。そして今は、現在の右大臣家の婿だ。

 いずれにせよ、故関白太政大臣の縁故であることには変わりない。今の源氏の地位は、そのお蔭であるとも言える。

 だが右大臣の方も、一世源氏である自分に緊密に結びつこうとしていることは源氏でも分かる。源氏にとって右大臣は朋友であるばかりでなく妻の父であり、同時に同母姉の夫で、つまり舅であって義理の兄でもあるのだ。

 その右大臣が、藤の花の向こうからやって来た。

「おや、源氏の君。ちょっと姿が見えないと思ったら、親子おそろいでそぞろ歩きかね」

「あまりの藤の見事さに誘われてね」

 そこで一つ、源氏は咳払いをした。それにはおかまいなく、右大臣は陽気であった。

「息子たちが歌うそうだから、席に戻ってくれ」

 源氏にそう言ったあと、右大臣は源氏の息子に目をやった。

「これはこれは太郎君たろうぎみ。今日はよく来てくれたね」

 源氏の息子はまだ官職がないから、そう呼ぶしかない。

「はい。お招きに預かり光栄に存じます」

「今日、招いたのは実はわけがあるんだ。あとでゆっくり話そう」

 その時、大粒の雨が突然降りだした。雷鳴さえ轟いている。源氏も右大臣も大慌てで、濡れないように雨から逃げた。


 雨はすぐにやみ、管弦が再開された。源氏の息子は宮中でもまだ殿上人ではないので、それに準じて地下じげの畳の上に座が与えられている。

 右大臣の息子たちの歌は、先日の二条院での紅梅の宴でも「梅が枝」を歌った三郎君さぶろうぎみの歌が際立って見事であった。

 宴も果てがたに、源氏は思い切って右大臣に尋ねてみた。宴の座を離れて二人で釣殿へ行き、そこで二人きりで座り、また酒を酌み交わしていた時だ。外はもうすっかり暗くなっている。

「今日はどうして、我が息子を招いてくれたのかね」

 右大臣は、しばらく含み笑いをしていた。

「あいつは君の孫ではないし、文章生として及第したとはいえまだ進士が待っている地下じげ学生がくしょうだよ」

「気にいったんだ」

 右大臣はまだやけににやにやしている。

「我が次男なら君の孫だけど、あいつは左大臣殿の……」

「いいんだよ」

 源氏の言葉を、右大臣が遮った。

「我が孫の兄なら孫同然だ。彼は兄の孫である以前に、君の太郎君ではないか」

「それはそうだが、何がそんなに気に入ってくれたのかね。しかも今日の昼間、君は息子にあとで話があるとか言っていたな」

「実はだね」

 右大臣は、少し身を乗り出した。

「北の方を私が世話したくてね」

「我が息子に?」

「そうだよ」

 それなら、ここは甘えようかとも源氏は思った。だが、すぐに右大臣を見た。

「まあ、ありがたい話だが、あてがあるのかい?」

「それを言われると弱いんだがな。私にはもう未婚の娘はいないし、孫娘はまだ幼い。我が長男の娘はまだ十一で、ちょっと早い」

「なんだ。てっきりもう具体的な相手が心にあるのかと思って喜んだら」

 源氏は笑った。この男はやはり自分と結びつきたいらしく、今の状況ではまだ不足のようだと、笑いながらも考えた。天性の策士だが、それに加えて無邪気さがこの男には備わっているので、得な性格である。だから憎めないなと、源氏はもう一度笑った。

「分かった。君に任せる。よろしく頼む」

 深々と頭を下げた源氏は、一つの可能性について考えていた。たった今は論外視してしまったが、右大臣の長男の娘は十一で今は確かに無理だが、源氏の長男もまだ大学生で卒業まではまだ間がある。そして、その卒業の暁に源氏が考えている息子の二度目の加冠の添伏には……可能性はある。そうなったら息子にとっても、この上ないいい話だ。

「よろしく頼む」

 今度はやけに真面目になって源氏が頭を下げたので、右大臣の方がかえってあせって照れてしまっていた。

 そのあとで、源氏は息子と合流した。

「右大臣様は何か私に話があるとのことでしたが」

「いいんだよ」

 源氏は意味ありげに笑いながら言った。

「いずれ日を改めてとのことだ。なに、悪い話じゃあなさそうだったよ」

 歩きながら暗い庭の篝火に照らされた藤の花を見た。

「昼間、源家は藤の木の裏葉だなんて言ったけど、あれは取り消しだ」

 源氏がそういうので、息子も歩きながら不思議そうに父を見た。源氏は藤を見ながら話し続けた。

「見てごらん。藤の木は自分では地面に立つことはできないんだよ。ほかの木の幹に巻きついて伸びているだろう」

 そして源氏は声を落とした。

「あの幹は皇家おうけだ。皇家の木の幹に巻きついていないと、藤は花を咲かせることはできない。そしてその幹から直接伸びている枝こそが……」

 源氏はさらに声を落とした。

「源家なんだよ」

 息子は源氏が言わんとしていることが分かったようで、神妙な顔で聞いていた。


 少しは心もとない点もあるが、長男の将来に関しては右大臣に任せておけば何とかなりそうだ。なにしろ兄の左大臣を押しのけての右大臣の今の勢力だし、人柄ももちろんで、さらに皇太子の外戚という事実も大きい。その右大臣の方が、なんとか源家と結びついていたいと願っているのだ。

 十分に当てにしていいと思う。

 長男は何とかなる。次男はまだ這いもしない乳児だからまだ先の話として、気になるのは長女の姫だ。男は自分自身の手腕でいくらでも出世できるが、女は常に受け身である。周りの縁故がいちばんものを言うのである。

 前から考えていたことを源氏は決断すべき時だと思い、前にもほのめかしたことはあったが、あらためてその話を対の上に持ちかけた。

 近々、明石のちい姫を対の上の養女として高松邸から西宮邸に引き取るという話である。

「まるで生木を裂くようなものではありませんか。あちらのお方様にとっては、あまりにも残酷では……」

 やはり対の上は、わずかに目を伏せた。

「もし私がその立場だったら、絶対に耐えられない。今、私から若君が取り上げられたとしたら……」

「でもね、あの人は精神的に強い人なんだよ。今までいろいろなことがあったからね。私も残酷だとは思うけど、すべて姫のためなのだ。だから、あちらも納得してくれるはずだ」

「でも、あまりにも……お方様がおかわいそうで」

「君はどうなんだい? あちらのことは置いといて、受け入れる側としては」

「それは……」

 対の上は、少しだけ目を上げた。

「それは、かわいい存在が増えるのは、私にとっては嬉しいことですけど……」

「じゃあ決まりだ」

 源氏はにっこりと笑った。

 次の課題は、その対の上の父の右大臣である。別にこの件に関して右大臣の力添えはいらないが、了承だけは取っておく必要があった。ちい姫を対の上の養女にするのは右大臣の外孫にすることで、そもそもはそれが目的である。すべてはちい姫が成人した時のためなのだ。


 源氏はここのところ公務も一段落し、昼ごろで宮中を退出できる日が多かった。

 宮中ではこのような私的な用で右大臣をつかまえて話すこともできないので、ある日の夕刻、源氏は直衣で九条邸を訪れた。互いに束帯姿の時は右大臣と中納言だが、直衣になれば昔の頭中将と光源氏に戻ることができる。

 用向きを伝えるためには明石の上とのいきさつからすべて話さなければならないが、そこがただの舅ではなく古くからの友人ということもあって、右大臣は終始にこにこして聞いていた。

「光源氏と名前ばかり派手だけど、その内面は案外生真面目で堅物だと私は思っていたんだけどね、そうじゃなかったんだな。何だか安心したよ」

 そう言って右大臣は笑った。そして、笑った後にまた言った。

「分かった。その高松邸の上が生んだ姫は、私の孫娘ということにしよう」

「恩に着る」

 またしても、右大臣に頭を下げる状況となった。

 今はまだまだ藤の裏葉である自分を認識せざるを得ない源氏であった。

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