おぼろに晴れた空の下で帝のお輿をはじめ、大臣公卿の車が次々と院のおわします二条院へと連なって進んだ。広大な朱雀院と違い、ここでは車がひしめき合っているといった感じだ。

 細殿に上がって反対側の南庭を見た人々は皆、一面の紅梅に感嘆の声を上げた。源氏とて例外ではなかった。自分の西宮にしのみや邸も春の町と自負するだけあっておびただしい梅の木を植えさせたつもりではいたが、ここにはかなわないとひそかに舌を巻いていた。

 院と帝のお席は寝殿の西廂に設けられ、院が北側、帝が南側であった。この日の御膳はお二人の生母である大后が、自ら特に設けたものである。

 左右大臣は同じ西廂に院と帝のお二方と同座し、公卿たちも定められた席に着くと、まずは盃が回された。続いてがくが始まる。楽は寝殿と西ノ対の間の局庭で奏され、ここにも多数の梅ノ木が植えられていた。

 さらに梅の木の下の畳の上には、大学の学生がくしょう十数人が控えている。その中に、源氏の太郎君たろうぎみの姿もあった。

 この日は、文章もんじょう博士ではなく、学生たちに詩作をさせることになっている。これでもって、省試の代わりとなるのだ。

 学生はまず大学寮が行う寮試に合格して擬文章生ぎもんじょうしょうとなり、大学の試験の受験資格を得る。だがこの時点で実際に大学に住んで講義を受けるし、世間からは大学生と認められる。そのあと式部省が行う省試に合格して、正式な大学の学生となる。

 寮試は普通の試験だが、省試は題と韻字が与えられての詩作が試験問題だ。まず、殿上にて紙と筆が侍臣に渡され、続いて題の奏上、探韻と続き、学生たちは庭に散って詩作をする。

 その学生たちが詩作に苦心している時も、がくは続いていた。やがて内教坊の妓女による舞も舞われて宴に花を添え、宴も盛り上がっていった。

 ようやく詩作も完成したと見え、学生たちが整列する。そして一人一人、高らかな声での詩作が披露された。つい半世紀前くらいまでは読み下しではなく唐音で朗詠しなければならなかったが、この頃ではもう読み下しでよくなっていた。

 そして源氏の太郎君の番となった。源氏は息をのんだ。そして、親が心配しているうちに詩作の披露は終わった。堂々とした立派なものであった。

「お見事!」

 突然右大臣が声を発したが、誰もがそれを無作法と思わなかったほど、皆が右大臣に共感しているようであった。源氏も胸をなでおろした。

「文章生としては及第ですね。進士の方が楽しみです。それも見込みはあります」

 殿上から源氏に向かって、そのような帝のお言葉があった。引き続き博士の講師となったが、そこでも太郎君の詩は高い評価を得た。

 日も傾いた頃に篝火が焚かれ、宴とはいっても形式ばった儀式からいよいよ入り乱れての直会なおらい――つまり本当の意味での宴会となっていく。こうなってから初めて、自由に酒が飲めるのである。

 源氏のところに次々と三人の若者が挨拶にきた。右大臣の子息たちである。すでに三郎君さぶろうぎみまでが元服し五位の殿上人となっている。子息たちは皆西ノ対の上の異母弟であるから、源氏にとっても義理の弟となる。そしてひと通り挨拶をして退こうとした彼らのうち、右大臣の太郎君を源氏は呼び止めた。

「君は今、左少将なんだってね。何か、楽器ができるかね」

「はい、横笛をいささか」

「では、ともに奏でようぞ」

 そこへ、その父親の右大臣がやってきた。

「源氏の君。覚えているかな。この太郎は童形だった時に『高砂』を踊って、君の絶賛を浴びたんだよ」

「ああ、あの時の」

 あの元服前の童形だった稚児が、今では立派な大人である。

「今、いくつかね」

「二十八になりました」

 この男が童形だったのは、考えてみれば源氏がまだ須磨へ行く前の話である。もうそのくらいになっていて不思議ではない。

 やがて楽器が用意され、右大臣が和琴、源氏はいつものとおり琵琶、そして右大臣の太郎君の左少将が横笛、さらに源氏の従弟いとこの若い源新宰相のしょうが加わった。

 楽が始まると、右大臣の三郎君の五位の侍従が拍子を取り始めた。


 ――梅がに 来居きゐうぐひす や 春かけてはれ 春かけて啼けども……


 見事な声であった。源氏はその三郎君の二十三歳という若さがうらやましかった。自分には二度と取り戻せないものを、この若者たちは持っている。自分では今でもあの頃と同じ自分のつもりでいるが、実際にあの頃の自分と同じ季節を過ごしている若者を見ると、自分にとっては過ぎ去った時間なのだということをいやでも実感してしまう源氏であった。

「いやあ、お見事ながくで」

 院も上機嫌であられた。

「いやいや、上皇様のこの院の梅の木に比べましたら、がくも色あせましょう」

 源氏は謙遜して一応そう申し上げたが、帝もお優しく笑んで話にお入りになった。

内裏うちにもこのような見事な梅林がほしいところですが、清涼殿の前庭の梅の木一本で大騒ぎする始末でしてね」

 院がその帝のお言葉に耳を傾けなさる。

「ほう、どのような?」

 帝は兄の院に話しはじめられた。

「先日、その清涼殿の前庭の梅の木が枯れましてね、ほかのを探させましたところ、亡くなった関白殿の小一条邸にかつて仕えておりました郎党が、西山から一本の見事な梅の木を持ってまいったのですよ。ところがその梅の木の枝に紙が結んでありまして、その紙には『――勅なれば いともかしこし うぐいすの 宿はと問はば いかが答えむ――』という歌が書いてありましてね。つまりその梅の木は紀内侍きのないし殿、つまりあの前土佐守の娘御のお屋敷の梅の木だったんですよ。わたしはあの時ほど恥ずかしい思いをしたことはなかったですね」

「亡き父院の御時のあの勅撰和歌集の撰者ですね。その娘の屋敷ですか。それはまずいですね」

 院も笑っていた。今でこそ笑い話であるというふうに、帝もいっしょにお笑いなっていた。

「でも、この二条院の梅の木が持っていかれなくてよかったです」

 院のそのお言葉に、さらにお二人は大笑いをされていた。

 そのうち、夜も更けてきた。


 源氏もかなり酔っていた。満月に近い月が中天まで上がっても、宴はまだ終わりそうもなかった。この屋敷のどこかで、学生たちも酒肴を賜っているはずである。

 源氏はふと席を立った。尿意を感じたからである。かなり足元をふらつかせながら、源氏は庭におりた。院のお屋敷の庭に放尿しても別に無礼ではない。どこの屋敷でも便所などないから、庭での放尿は普通のことであった。

 用を足してからそのまま庭を歩いていると、向こうから若者が来た。浅葱あさぎ色の袍からすぐに学生であることは分かったが、向こうもすれ違うのが公卿であると分かったらしく貴人に対する礼をとった。だが源氏が月明かりにその若者の顔をよく見てみると、それは自分の息子だった。

 亡き関白の諱の一字をもらった息子の実名を、源氏は呼んだ。源氏の顔はほころんでいたが、礼をなした公卿が自分の父であると分かった息子の顔は急にこわばった。

「久しぶりだな。話でもしよう」

 源氏は息子の当惑気味の態度をものともせずに上機嫌のまま、庭の土の上に今でも敷きっぱなしの楽人が座っていた畳の上にくつを脱いで上がり横に並んでともに座らせた。

「先ほどは、帝におかせられてもおまえの詩を誉めておられたぞ」

「はあ」

「進士及第も大いに望みありということだそうだ。そうなったら……許すぞ」

「は?」

「通う女の一人や二人も作れということだ」

 息子は驚いたふうを見せ、目の前の月明かりにほんのりと照らされた暗い庭から父の横顔へと視線を移した。

「実はいい話もある。中務卿宮の娘御などはどうかと」

「いいえ、私はまだ……」

 怯えたように言い放ち、息子は目を伏せた。

「おまえは、いくつになった?」

「十七です」

「十七か」

 ふと源氏の口からため息が漏れた。十七といえば、源氏が小野宮の大君おおいきみと初めて夫婦の関係になった年である。そして、六条御息所と初めて関係を持った年でもあった。その同じ年齢に今、自分の息子はいる。

 しかしそれよりも、聞かねば息子の年齢も知らぬ父であった自分に気づき、今さらながら今までは縁薄き親子であったことを感じた。

「私の父、つまりおまえのお祖父じい様になる故院も、いろいろ私に教え諭してくださった。でも、一向に仰せのとおりにしようとは思わなかった私だけど、今さらながら我が父君が仰せになったことは本当だったとつくづく思うんだ。いつまでも一人身でいると、人からもとやかく言われるしね。ま、それが前世の団縁だったら仕方ないけど、結局はつまらない女と一緒になったりする。そうなったら、もっと世間体も悪い」

 息子は父親から視線をはずし、黙って父の視線の先と同じ目の前の暗闇を見ていた。

「おまえにだけは、くれぐれの失敗してほしくはないんだ。この父は若い頃から宮中に入ったし、ちょっとのことですぐ噂になる世界だけに身を慎んでいたのだけれど、結局は好き者の浮き名を流されてしまったよ。おまえは位が低いからといって、軽はずみなことは考えないことだ。女で身を誤った例は、昔からいくらでもある。だから、早く身を固めることだ。女で失敗しないためにもな」

 それでも息子は黙っていた。源氏は一度だけ息子を見たが、またすぐに視線を前に戻した。

「私はね、おまえがうらやましいんだよ。もうこの年になったら、浮き名を流したくても流せない。同じ年ごろの女性はどうしようもなくおばさんでそれぞれに夫を持っているし、若い娘はこんなおじさんをもう相手にしない。おまえは今、二度とない時を過ごしているのだから、大切にするんだ」

「もう、いいです!」

 息子は、突然立ち上がった。

「今日の父上は、なんだか変です! お説教はもうたくさんだ。自分のことは、自分で考えます!」

 叫ぶように言い放つと、息子は畳から降りてくつを履き、そのまま闇の中へと消えてしまった。

 ひとり残された源氏は、ただただ苦笑していた。父上は変……確かに変だったかもしれない。息子の女への懸想文けそうぶみに目くじらを立てておきながら、身を固めろとは矛盾している。

 かなり酔っているな……源氏はそう痛感した。しかし、息子に対してあんな矛盾したことを自分に言わせたのは何か……今日の自分は、嘘のように長男に優しかった。何かに突き動かされていたようでもある。

 恐らく、息子とてかなり戸惑ったことであろう。もしかしたら、明石の上の生んだちい姫や西ノ対の上が生んだ次男ばかりを溺愛していることで、長男に対して後ろめたさを感じたからなのだろうか……。あるいは、自分の長男であると同時に小野宮左大臣の孫でもある息子への敬遠への反動が一気に出たのか……。

 そのどちらだとしても、源氏にとっては苦笑するしかなかった。月はすでに、かなり西の方に傾きかけていた。


(つづく)

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