その夜源氏は、須磨に行くことを初めて妻に告げた。

「私は?」

 とだけ、ぽつんと妻は言った。源氏は黙って首を横に振った。

「そんな!」

 じっと妻は源氏を見つめている。その目に、大粒の涙が浮かびはじめた。

「いつでも一緒って、おっしゃったじゃない。死ぬまで一緒って……。必ずお戻りになるって分かっていても、二、三日お帰りにならなければ死ぬほど悲しいのに……いつお帰りになるのか分からずに、しかも都を遠く離れた所へ行っておしまいになるなんて……」

「仕方ないのだよ」

 源氏は優しく、妻の両肩に手を置いた。

「海辺の淋しい所なんだ。波と風があるだけで、人もほとんどいないような所なんだよ、私がこれから行く所はね。そんなところに、こんなか弱い姫をとても連れては行けない」

「殿とご一緒なら、私はどんな所も耐えられますのに」

 顔をそむけて、力なく妻は言う。源氏も言葉につまりながら、話す言葉はたどたどしかった。

「都を追われる身なんだ。女は連れて行かれないんだよ。さあ、もう今日は休もう」

 源氏は妻をそっと抱きしめ、燭台の灯を吹き消した。妻は源氏の隣で、一晩中すすり泣いていた。


 出発によい日も、すでに源氏はぼくさせてあった。

 それまでの間、すでに二条邸に塾居の身であっても慌ただしい忙しさの中で日々は過ぎていった。

 女が乗るような網代車に身をやつして、源氏は出発も迫ったある日の午後、摂政太政大臣邸を訪れた。

 東ノ対で対面した摂政太政大臣は心なしか痩せたように思われた。ますます老いが深くなっていく。その摂政に、源氏は須磨行きの決意を語った。

「源氏の君様のお心も、ようお察し致します」

 摂政は、源氏のいまだ復任がない状況のことを言っているのだろう。実は摂政も太政大臣も辞し、その勅答待ちである。その老人は静かに言った。

「いろいろお話ししたいことがありますけれど、自分も今や摂政の職を辞してこの邸内にひきこもっておりましてな、参内もしておりませんで、私事でだけ外出すれは世間の聞こえも悪かろうて失礼致した。無沙汰、お許しあれ」

「いえいえ」

 そういう状態なら、まだ例の事件のことはこの人の耳には入っていないなと源氏は判断した。前からそうだったが、年のせいかますます太政大臣の腰は低くなっていっているようだ。

「ほんにわしの微力ゆえ、源氏の君様にもこのような憂き目にお遭わせ申し上げることが、ただただ申しわけなく」

 頭まで下げるので、かえって源氏の方が恐縮してしまった。

「いえ、すべてが前世の因縁なのでしょう。その報いと心得ております。前世で自分が何をしたのかはわかりませんが、今のこの状態がその結果であることだけは間違いありませんから」

「それにしても、まろも長生きしたばっかりにこんな目を見なければならないとは。源氏の君様が流されるなんて、天地がひっくり返ってもあるはずのないことなのに、いや全く世も末とでも申しましょうか」

「私は流されるのではありません」

 きっぱりと源氏は、摂政を見て言った。

「自ら身を引くのです。このまま都にいてはどんな災いがふりかかるか。都とは冷たい、恐ろしい所です」

「左大臣も、致仕の表を出して来られた」

「え?」

 源氏は驚きの表情を見せた。この所の宮中の動きを、彼は全く知らない。

「まあ一応はしきたりどおりだし、無論初回なのでその表は返されたが、兄君もお苦しいのでござろう。なにしろ今、宮中に君臨あそばされているのは大后様、わが一族は何も思いのままにならないのですからのう」

 兄二人がその妹に力を抑えられているというのも不思議な話だが、それが現実だ。

「わが長男の左金吾あたりは、うまく大后様にとりいっているようだが」

 左金吾とは左衛門督の別名で、ここでは源氏のかつての舅でその左衛門督を兼任している小野宮中納言のことであった。この人物こそが自分の須磨行きのきっかけとなった人だと、源氏は唇をかみしめた。

 そうこうしているうちに、酒が出た。二人の会話は昔話ばかりで、そのうち日も暮れてきた。

 この年で懐古趣味にひたるとは……昔話をしながら源氏はふとそう思ったりするが、とにかく今は「昔はよかった」としか考えられない状況なのだ。

 帝の皇子として、何ひとつ不自由なく育った自分。帝の御名のもとに、何でも許された。しかし今や、その父帝もこの世におられない。

 昔話をするうちに外はすっかり暗くなった。源氏はそのまま、太政大臣邸に泊まっていくことにした。


 翌朝早く、源氏は自邸へ戻った。その足で西ノ対へ渡ると、格子が降ろされていない。いくら春も終わりとはいえ、夜に格子を降ろさねば、まだ冷える時節だ。

 おそらく西ノ対の上は、寝ずに自分を待っていたのだろう。その妻も小袿こうちぎ姿のまま、几帳の内に伏していた。

 源氏の帰還に気がついた女房たちは、ひさしの間など思いの場所でうたた寝をしていたが、一斉に起きて走りまわり始めた。

 自分が須磨から帰ってくることができたとしても、このうち何人がこのままここにいるだろうかと思うと、源氏は胸がしめつけられる思いになった。

 馬つなぎの馬も、めっきり少なくなっている。家司たちも大方は去り、また自分に同行する者たちにも都や係累への別れのため暫時暇を出しているところだ。

 がらんとした二条邸がそこにあった。調度などもほこりをかぶったりしている。

 世の無常ということを、源氏はいやでも感じないではいられない。

 妻も起きたようだ。

「昨夜は摂政殿のお屋敷に泊めて頂いたんだ。へんな所へ行っていたわけではないよ」

 よほど明け方近くまで起きていたのだろう、妻はまだ寝ぼけまなこだった。

「別にそれでも、私は悲しくない。でも殿が私をおいて須磨なんかに行ってしまわれることの方がどんなに悲しいか」

 今起きたばかりだというのに、妻はもう涙を流しはじめている。

「一生の別れじゃないさ。たとえ一生帰ることがなくても、あなたを必ず呼び寄せる。今は連れて行けないというだけなんだよ。謹慎のために身を引くのだからね。あなたを連れて行ったら、謹慎にならない」

 妻は視線をそらして、黙っていた。

「そのうち必ず帰ってくるか、あるいはあなたを呼ぶ。二つのうち必ずどちらかひとつになる。約束する。呼ぶ時はたとえ私が洞窟の中に住むようなことになっても、必ず呼ぶ。それでも来てくれるね」

 やっと源氏を見て無言でうなずく妻の姿に、源氏は胸が熱くなった。自分にこのような女の存在が許されているとういうことが感動でもあったし、同時に心のしがらみでもあった。

「さあ、まだ寝足りないだろう」

 源氏は妻の身体を優しく包んだあと、顔を上げて、

「格子を降ろせ」

 と、時刻はずれの命を女房たちに下した。

「しばらくお休み。私がそばについていてあげるから」

 妻はうなずいた。

 今の源氏にとって妻の寝顔を見ることが何よりの心の安らぎであり、同時にそれがひどく胸をしめつけた。


 夕方になって、宰相中将が訪ねて来たと、邸に残っている少ない家司の者が告げに来た。

「少し、身仕度をしなくてはね」

 源氏は髪の乱れを直すために鏡に向かった。自分ながらその面だちが少し痩せたと思う。その鏡の中の自分の背後に、対の上の姿が映った。

「この鏡に映った姿だけでも、ここに残して行けたらいいのにね」

 妻はまた涙をあふれさせて、柱の隠へと走って行った。

「本当にそんなことがあり得たら、どんなにか……」

 本当にいとしい妻だと思う。こんな人を残して行ってしまったりして、本当に自分は耐えられるのだろうかとふと源氏は思ったりした。しかし今は、行かないわけにはいかない。都にこれ以上、留まることはできないのだ。

 宰相中将とはいつものように、寝殿の南面みなみおもてで対面した。源氏は無紋の直衣のうし……無冠の身にはふさわしいものだった。

 源氏の目の前には、相も変わらずの宰相中将の気さくな笑顔があった。

「向こうでもきっといいことがあるよ。こんな都よりは」

「いいことといったって」

 源氏は目を伏せた。

「海ばかり目の前にある土地で、どんないいことがあるっていうんだい?」

 口ではそう言ったものの、宰相中将の来訪と心違いが源氏は嬉しかった。

「都は冷たいよ」

 ぽつんと源氏は言った。

「ここは自分の居場所じゃないかもしれない。すべてが敵だ。どろどろとした都も宮中のことも何もかも忘れて、しばらくはのんびりと暮らすよ」

「まあ、そう言わずに。君とて後ろ髪引かれることもあるだろう?」

「そんなの、ないね」

 そう言いながらも源氏の頭には、すっかり女盛りとなった若妻の無邪気な笑顔がこびりついていた。その父親を前に急に胸がしめつけられそうな思いになったので、彼は顔を上げた。

「ところで」

 宰相中将の方から、話題を変えてきた。

「北ノ対の、君の姉君のことだが」

「自分の妻と言いたまえ」

 やっと源氏が笑みを見せると、宰相中将も笑った。

「そうか。じゃあ私の妻のことだが、九条邸にひきとりたいと思うのだが」

「それはありがたい。そうしてくれるか。女房はあまりつけてあげられないけど」

「いや、いいよ。私の屋敷にいる女房を割こう」

 そもそも北ノ対の宰相中将の妻は身分が内親王なのだから、源氏の屋敷にいて宰相中将が通ってくるというのもおかしな話だった。ましてやこれからはあるじ不在の屋敷となる。そして自分の娘がその留守を預かる。そこへ通うのも宰相中将にとってはばつが悪かろう。

「本当なら君が、北ノ対に住んでくれてもいいのだけどね。その方が出仕にも便利だろう」

「そんな、ばちが当たるよ」

 宰相中将はまた笑った。

「宮中の方はどうだい?」

「まあまあさ。今は特に問題もない」

 宰相中将はさらにこまごまと、宮中の日常を話し続ける。もはや源氏にとって、全く無縁の世界の話を宰相中将はしている。その顔を源氏はじっと見つめた。

「今日は本当に、来てくれてありがとう」

 宰相中将の言葉を遮ってまで源氏が急に真顔になって言うので、宰相中将も一度言葉を切った。

「どうしたんだ?」

「いや、嬉しいよ、本当に」

 源氏は目を伏せた。そのまぶたは熱かった。

「自分は所詮用なき者。一人寂しく去って行くんだ。誰も気にとめてもくれない」

「そんなひがみは、君らしくないな」

「だって、そうじゃないか。でも君は違った。すべての人が私に背を向けたのに、君だけはこうして来てくれた。それだけでも私は幸せだ」

「みんな君のことを心配してるんだよ」

「そんな気安めはいい。私の味方は君とお父君の摂政殿と、そして妻だけだ。あとはみんな敵だ。敵地から脱するのだから何の未練もなくって、気も楽だってものだよ」

「とにかく……元気でな……」

 親友はそれだけの言葉を源氏に贈ってくれた。どんな饒舌よりも雄弁だった。

 都の現状に対するささやかな抵抗、それを源氏は隠遁というかたちで表そうとしている。

「姉と妻を頼む」

 源氏は涙で顔をくしゃくしゃにしながら、宰相中将の手をとった。

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