いよいよ出発の日が差し追って来ると、源氏はここ数年来忘れかけていた「多忙」ということを久方ぶりに味わった。

 別れの感情にばかりふけってはおられず、実務的な整理もしていかなければならない。

 まずは新しい暮らしに必要な道具をとりそろえることだったが、これはたいして手間はかからなかった。なにしろ佗び住まいをするのである。生活用品は必要最低限の質素なものにとどめたし、衣類もたいして持っていくつもりはなかった。

 東ノ対の塗篭ぬりごめに須磨へ持っていく品々を集めたが、いちばん多かったのは書物の入った箱だった。これだけは置いていくわけにはいかない。中には詩文集もあった。他に絵の道具や琴も持ちものの中に入っていた。

 供の人選もすでにできている。

 源氏は供も残る家司も全員を寝殿の南面みなみおもてへ集めた。

 上座から一同をさっと見わたす。思えば不憫であった。その者たちは自分の逆境にもかかわらず、世の動きに迎合したりせずに自分に仕えてくれる者たちなのである。いわば自分といっしょに、彼らも世間に背を向けることになる。

「残る者は、生命あればいつかは戻るかもしれないので、それまでしっかりと留守を預かってほしい」

 源氏は皆にそう言いわたした。あちらこちらから、すすり泣きが聞こえた。

「女房たちは寝殿付きも北のノ対付きも、これからは全員西ノ対付きとする。西ノ対の少納言を別当として、よく仕えるように」

 これには女房たちはざわめきだった。源氏の母の代から仕える古参の女房には、幾分反感があったのかもしれない。だが、源氏の言うことは絶対だ。

「私がいない間は、西ノ対の上がこの屋敷の主だ」

 そう言われてしまえばそのとおりで、もう誰も不平は言えなかった。いちばん恐縮したのは、当の少納言だ。

「私のような新参者が……」

 あとで西ノ対に渡った時、少納言は恐れ入ってそう申し出た。源氏は微笑んでいた。

「いいんだよ。あなたは私のいちばん大切な人を、乳母としてよく育ててくれたのだしね」

 源氏は荘園・牧の証券、屋敷の地券など、財産に関するすべての書類を、少納言に渡した。

「これからの財は、すべて対の上のものだよ。あなたは妻に代わってしっかりと管理していってくれ」

 少納言はそれらをおし頂き、いつしか涙を流していた。

 職封・職田もなく、今まで位封、位田からの収入で暮らしてきた二条邸だ。今や源氏がいなくなってしまったら、それらもなくなるだろう。荘園などの所領からの収益のみが、食いつないでいく収入となるのである。その権利を対の上が譲られたこと、そしてその管理を自分が任されたことに少納言は感極まったに違いない。

 少納言は涙を流しながらも、目を上げた。

「しかし、殿はあちらでは?」

「当面の食料は持っていく。あとは……なんとかなるだろう」

 源氏は笑った。思えば親王でいたならば、官職がなくても親王であるということで一生食っていけただろう。しかしそのひきかえに、一生うだつの上がらない生活を余儀なくされる可能性だってある。源氏は臣下に降った身、たとえ危ない状況に身を置いたとしてもいろいろと冒険をしていこうとひそかに思っていた。


 出発二日前になった。もうひとつ、しておかねはならないことがある。父である故院の御陵に詣でることだ。

 その前に源氏は、三条の藤壷入道の元を訪ねることにした。

「親しかった方はみんな亡くなって、生き残った私がこんな悲しい目を見るなんて」

 その目には涙が光っていた。摂政もそうだったが、年寄りは皆一様に自分が長生きしたことを恨んでいる。それなのに源氏は憂き目を見たとて、自分には若さがあると思った。だが彼は二十五歳――すでに人生の半分近くに差し掛かっている。

「これから父の御陵に参ります。何か故院におことづては?」

 入道の宮はただ目を伏せて、無言でうなずくだけだった。

 そのあと、姉宮へも挨拶をしてすぐに二条邸を出て、ほんの二、三人の供だけで源氏の車は三条大路を東進し、やがて京極に達した。鴨川が広い河川敷の中を幾筋にも分かれ、蛇行しながら行く手に横たわった。

 車一台がやっと通れるよな板を張っただけの三条の橋を渡る。鴨川の水を見ながら、源氏はいつぞやの賀茂の祭りの斎宮御禊の日を思い出していた。あの時は近衛中将として冠に葵をかざし、勅使ともなってまさしく行列の華だった。

 あの時の一条大路の喧騒、そして今の三条の橋の静けさ。華の時と日陰の時との自分の人生の中での対照を、よく象徴しているようだ。

 自分にも華やいだ時代があった。そう自分に思いきかせることに、彼は心の安らぎを覚えていた。

 首をまわして、背をもたれかけている側面の物見から見ると、川の上流の右手には大きく比叡山が鎮座し、またその向こうに北山の山々が重なって小さく顔をのぞかせているのが見える。もっと近い正面は、賀茂の社のただすの森が上流に見え、川はそのあたりから自分の車の下へと流れてくる。

 源氏は糺の森へ目礼した。賀茂の社の神にもこれで暇乞いをしたつもりでいた。

 鴨川の東は急に草深い土地となり、道も細い土の道となる。なにしろ小石のころがる自然の道なので車は時折激しく揺れた。すぐに山道となり、急な登り坂となる。あとはひと山越えて、盆地をひたすら南下すれは一時半いっときはんほどで御陵に着く。

 盆地は田地と自然の野原とが入り混っており、人家はまれだった。都に近くてもこんなに寂しい所もあるのだから、ましてや須磨はと考えるとさすがに心細くもなる。

 行く手にこんもりとした森が見えてきた。きれいな円形だ。これが父の眠る御陵であった。錠穴のように円墳の南に細長い参道がついていた。

 車から降りて一の鳥居をくぐり、左右に木が繁る参道を歩くうちに、風が出てきた。すぐに円墳の前の参拝所へ着いた。もうひとつの鳥居の前に、源氏は畏まった。

 さまざまな思いが、頭の中を巡る。目を上げると円墳を覆う深い森が、風に吹かれてうるさいくらいにざわめいていた。

「父君……」

 源氏はひとこと呼びかけて、すぐに目を伏せた。

 今こうして都を離れるのは、父に対してはとてつもない不孝かもしれない。父の遺詔はことごとく無になった。自分は帝の後見など全くできなかったのだ。それから、六条御息所のことも……全く会わせる顔がない。その罪ゆえの今回の都離れなのかと、父に祈りながらふと源氏は考えていた。

 目の前の森すべてが、父の姿そのものにも思えた。相変わらす木々は激しく音をたてている。

 源氏はもう一度目を伏せたあと、ハッとして顔を上げた。今、たしかに自分の前に、父院は立っておられた。紛れもなくその気配を感じた。決して錯覚ではないという自信が、源氏にはあった。

 胸が熱くなり、また同時にしめつけられるようにも感ぜられた。


 明日は出発という日、源氏はまる一日を西ノ対で過ごした。本当は尚侍の君にももう一度会いたかったが、それはとてもかなねぬ状況であった。

 一日は早かった。対の上も昔の少女に戻ったように、「お兄さま」と碁や貝合わせをしてはしゃいでいた。無理にそうしているとわかるだけに、源氏はいたたまれない思いになった。

 遊びながらも源氏は、時折室内を見わたした。ここにいるのも今日で最後というのが、なぜか実感がわかない。明日になってもまた、相変わらずの日常が続いていく気がする。

 だが夜になると、少女は源氏の大人の妻へと変身した。いつになく二人は激しく燃えた。ありったけの想いを残していきたいと、源氏はきつくきつく妻を抱いた。二人の重なった肌が溶けあってひとつに混ざりあってしまうくらいに、源氏はきつく妻を抱いた。この髪の感触、肌のぬくもり、甘い香り、それらを源氏はすべて自分の中に焼きつけて、想いを残していく代わりに持っていくつもりでいた。

 そのまま愛し合い続けて、朝を迎えた。

 早朝に源氏はつつもりでいたから、そっととこを抜け出した。いとしい人の寝顔をじっと見つめているうち、その瞳はぱっと開かれた。

 二人は黙って見つめ合った。

 妻は床の中から両腕を伸ばし、もう一度源氏を抱き戻した。

 今、腕の中にいる存在と、あと数刻の後には離ればなれになるのだ。そう思うと源氏はまたしても力強く、妻を抱きしめられずにはいられなかった。

「もう行かなくては。供の者も待っているから」

 姫はゆっくりうなずいた。またひと筋、その頬に涙が伝わった。

 源氏が狩衣を着るのを女房ではなく、妻が自ら手伝った。これを着終われば、この人は行ってしまう。でも今は笑顔で送り出してあげよう……妻のそんな心遣いが、源氏にもひしひしと伝わってくる。

 外は冷えた空気があった。少し靄がかかっており、空には中天あたりに下弦の月がこうこうと輝き、それが朝の光にしだいに溶けて白い有明の月となりつつあった。

「では」

 このような時に、必要以上の言葉は、かえって興ざめだ。

「お元気で」

「行ってくる」

 けなげに源氏に向かって姫は笑顔を見せた。

 意を決して、源氏は車に乗りこんだ。

 牛は遅い歩みではあっても、無情にも自分と愛する人との間の隔たりをどんどん大きくしていく。

 二条をそのまま東進する間も、源氏は妻の残り香とともにあった。

 河原にて舟に乗り換える時、源氏はもう一度西の方の都をながめた。

「――君が住む宿のこずえを……」

 この歌を読んだ人の境遇と今の自分を、源氏は思い合わせていた。しかしその人はおおやけによる左遷で、しかも行く先は違い筑紫であった。それに比すれは自分の行き先はずっと都に近い須磨である。いたずらな感情はやめようと、源氏はふり切るように舟の中へ足を一歩踏み入れた。


 そのまま鴨川から淀川を下り、摂津の国へと着いた。

 そこで源氏は生まれて初めて、実際に海を見た。淀川の河口あたりは一面に葦が繁っているので広々とした海というのはすぐには分からなかったが、沖に出てそのあまりの雄大さに息をのんだ。

 一面に広がる青い水面や波に、源氏のみならず従者たちも皆驚きの声をあげていた。

 その大海を、舟は帆いっぱいに風を受けて須磨へと向かう。

 従者の中にはこの海路について、海賊の難を恐れて反対する者もいたが、

「海賊が欲しがりそうなもので、盗られて困るものは何も持ってきていないよ」

 と、源氏は笑っていた。とにかく源氏は早く目的地に着きたかった。陸路だと最低一泊は必要だ。

 道中が長ければ、その分余計な感情が自分を襲う。そこで、その日のうちに着ける海路を選んだのであった。

 波はおだやかだった。舟は東風を受けて順調に海上をすべり、夕方には前方に横たわる淡路島とともに、海につき出た鉢伏山が見えてきた。

「あの山の麓が、須磨の浦です」

 良清の説明にとうとう着いたとの思いと、これからここで始まる生活への思いが源氏の胸を次第に高鳴らせていった。

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