都からはどれほど距離があるのだろうか、それさえ見当がつかない。しかし、源氏にとっては初めて都を遠く離れたのである。

 こんな遠くにも山があり土地があって、人々が住んでいるというのが不思議だった。しかし人々はいても、そのまわりの大自然の方が遥かに量はまさっていた。

 もう何日もたつというのに、源氏は夜な夜な都の夢を見た。目を覚ますとそこは二条邸の寝殿という妄想にもしばしばとらわれた。夢の中の対の上はいつも可憐に笑って源氏に話しかける。そのような時は目覚めてからも、熱い心が胸に残っていたりした。

 しかし潮風という現実が、いつも夢を無残に砕くのだ。

 源氏たちのすみかは海からは少し離れていた。それでも潮騒がかまびすしく簀子すのこからあがってくる。背後は低い山だ。

 このあたりは海近くまで山が迫り、平な土地はほんのわずかしかない。当然農耕には適さず、人々は漁業や製塩をなりわいとしていた。その塩を焼く煙がところどころに立ち昇っている。歌枕としてはあまりにも有名だが、その歌枕を自らの眼で見るという体験は、宮廷貴族の中ではそう誰にでも許されることではなかった。

 栖は主屋も対の屋も茅葺きで、そのひなびた風情がなかなかあわれでもある。対の屋はひとつあるだけで、その狭い小屋のような山荘の中を家人けにんたちはうろうろしていた。

 なにしろ男所帯だ。包丁をはじめすべての役を、彼らがしなければならない。米は都より届くことになっている。魚は地元の漁民がいつも持ってきて、かえって都にいる時よりも新鮮なものが手に入った。珍しい食材も多い。時には家人たちはまるで地下じげ下人げにんのように、山に入って山菜を採ったりもした。

「何もかもいい経験ですな」

 と、惟光は笑っていた。彼らが初めて体験する土と一体となった生活――慌ただしくはあるが、決して忙しいという気にはならない――は、彼らの中で都への郷愁を忘れさせているようだ。

 源氏は読経三昧の毎日だった。この環境の中に身をおいて自らの心を洗い出し、静かなる境地に達したいと思っていた。家司たちは動きまわっているが、源氏にとってはこの地では完全に時間が止まっているように感じられた。

 これほどまでに隔絶してしまえばさすがに都のことばかり思う心は薄れてはいったが、時にはまるで反動のように都の人々の顔が目の前に浮かんだりする。

 対の上はきちんと留守を預かっているだろうか。親しかった人々は、そして尚侍の君は今頃どうしているのか――思いは尽きない。そのような時源氏は庭に出て潮風に当たるのだった。


 まだ上弦だが月夜の晩で、もう夜でも寒くはない時節になっていた。山荘は少し高台なので、海がよく見える。その海の上に月が、金の粉をばらまいていた。

「藻塩たれつつ」

 源氏は都の方を見て、古歌の一節をつぶやいた。かの在五中将の兄が「藻塩たれつつ侘び」暮らしていたのは須磨の関のそばだと聞いているから、この近くだったに違いない。

 そんな昔の故事に思いを馳せていると、庭の片隅から忍び泣きの声が聞こえた。男の声だ。源氏がそっと近寄ってみると、前栽せんざいのかげから人影がさっと立ちあがった。慌てて目をこすっている。

 家司の一人の親忠だった。すぐに源氏の足元にかがんで頭を下げた。

「申しわけありません」

 源氏は黙ってうなずいた。

「月を見ておりましたら、この月が都をも照らしているのだと思い、そうしましたら涙が……。その時、源氏の君様が出ていらっしゃいましたので慌てて隠れておりましたが、こらえきれず……」

「あやまることはないよ」

 源氏は優しく言った。

「いえ、自らお願いしてお供しましたのに、女々めめしいところをお見せしまして」

「いいんだよ。それでいいんだ。それが普通だ」

 そう言いながら源氏の目も、熱くなりはじめた。いけないと、源氏は自分を制した。家司が泣くのはよいが、自分まで泣いていたら家司の手前まずい。自分こそ毅然として、家司たちの悲しみを和らげてあげなければいけないのだ……。そう自分に言いきかせ、源氏は親忠の肩に手をおいた。


 翌日、源氏は惟光だけをつれ、歩いてすぐの海岸まで出てみた。

 海は目の前に無限の世界を繰り広げていた。絵では見たことはあったが、実物は今回離京して初めて見た。それにしても今までは海がこれほどまでに全視野を独占し、四方八方より自らを包みこむものだとは思っていなかった。

「大きいなあ、海は」

 源氏は目を見開いているのに絶えられずに、目を細めていた。足元の砂浜は宮中の白砂利よりも遥かに軟らかい。白砂利が木沓に入ると痛いが、砂がいくら入っても不快感はなかった。しかも歩けば歩いただけ、きちんと足跡がつく。

 波は寄せては返し、そのことを繰り返し続けていた。風が強くて手で押さえていないと烏帽子えぼしが飛ばされそうだ。

 白い鳥が群れをなして、波打ちぎわを飛びまわっている。

 漁人の男がそばにいて、源氏に話しかけてきた。このへんの庶民は恐れを知らないらしく、源氏のような貴人にも平気で直接声をかけてくる。しかも立ったままだ。そのようなことが自然なことと、源氏にも感じられていた。だが何を言っているのか、言葉が全くわからない。だから源氏は微笑みだけを返しておいた。

 左手の方は海岸線がゆるく湾曲している。その上に山が横たわり、その向こうが都の方角だ。右手は少し高い山が海岸へ突き出て、浜はその向こうにまわりこんで消える。その山の向こうはもう播磨の国だそうで、つまりここ須磨は摂津の国のいちばん西の端だということになる。

 天気のいい日にはうっすらと、淡路島が右手奥の方に見えたりもした。

「もったいない」

 源氏は惟光に言った。

「こんな景色を目で見ているだけなんて、もったいない」

「そうそう、源氏の君様は絵の道具をお持ちになっていましたよねえ」

「うん、描くぞ」

 源氏はうなずいた。うなずいてからもう一度、都の方を見た。あの山の向こうに確実に恋しい人がいる。源氏の目が見る光景の中に、妻の顔がぽっかりと浮かびあがって見えた。

 戻って絵だけではなく妻への手紙も書こうと、源氏は思った。


 しかし戻っても、思ったことをすぐには実行できなかった。来客があったのである。

 惟光が垣根の外まで走ってきて、源氏に告げた。客は摂津守つのかみだという。知らせに来たのが惟光だというのも納得がいった。今の摂津守の母方の祖父は二、三代前の帝の賜姓源氏であり、惟光の祖父でやはり賜姓源氏だった人とは兄弟であることは源氏も知っていた。つまり、惟光との緑でここへ来たのであろう。

 源氏はそのまま主屋へ行った。潮風に吹かれて髪は逆立ち、足は砂まみれだった。そんな姿を見て摂津守は目を細めた。

「おお、おいたわしい」

 座りながらも源氏は小首をかしげた。

「源氏の君様ともあろうお方が、このような士地でそのようなお姿で」

「これですか」

 源氏は自分のなりを見て、笑った。

「いや、これは海辺をそぞろありきしておりましたゆえ……。何しろ風が強うて」

「あ、申し遅れました。それがし摂津の国の国司に任ぜられておる者。このたびは源氏の君様がわが任国へお来しと伺い、ご挨拶にと」

 三十歳前後と思われる摂津守に深々と頭を下げられ、源氏はかえって恐縮した。身分は五位の受領ずりょうと低いが年も自分より上で、しかも今の右大臣の長男なのだ。

「それはわざわざ恐れ入ります」

「お淋しいことでございましょう」

「自らの意で参ったこと、決して流されたわけではありませんから」

「何か不都合な点がございましたら、何なりとお申しつけ下さいませ」

「それは恐れ入ります」

 しばらくして、摂津守は帰っていった。

 初対面ということで慇懃に接したが、考えようによってはあの宰相中将とほぼ同じ年齢だ。太政大臣の息子であり参議でもある宰相中将と朋友として接しているのだから、目の前の受領相手に一世源氏の自分がぺこぺこすることはなかった。

 それでもそれは都の考え方で、今の源氏は違う思いを持っていた。しかし相手は都の人だ。そのいでたちも仰々しくなく、全くの忍び姿であった。国司の公式訪問となると摂津守としてもやはり都に対する遠慮があるのであろう。

 その摂津守の数少ない人数の行列を見送りながら、源氏はもうひとつ妙な気分になった。

 地元の国司と面識ができた。生まれてはじめて都を離れたその先のではじめて接した人物である。いよいよ都以外の土地に自分は根をおろそうとしているのかと思う反面、それを打ち消す思いもたしかにあった。

 国司は地元の人ではない。所詮は都から派遣されてきた都人なのだ。ここで国司の訪問を受けたということは、逆の側から考えればまだ都との縁が切れずにいるということになる。

 そして都には、縁を切ってはならない存在があった。


 夕方になって源氏は、対の上――恋しい妻へ手紙を書いた。こまごまとは書かず、元気である旨をひとことふたこと述べて歌を添えた。


  いさなとり 海山遠く へだつとも

    同じ今宵の 月照らすらむ


 あまりにも直情的なうまくもない歌だったがよしとして、ついでに小野宮邸にいるわが子の乳母にもわが子を頼むふみをしたため、三条の入道の宮にも近況を知らせる手紙を書いた。

 尚侍かんの君へは、手紙など書ける状況ではない。

 それらの文を、親忠を使いとして都にことつけることにした。態度こそ神妙にしていたが、顔のどこかに嬉しさが見えた。

「行ってまいります。なるべく早くに戻ります」

「そうしてくれ。待っている」

 翌朝早々、親忠は都に向けて出発した。

「よし、描くぞ」

 源氏は親忠が出て行ってから、立ち上がった。

 紙もかなり持ってきている。さっそく源氏は廂の間へ出て紙を広げ、浜の絵を描きはじめた。

 なにしろ空想ではなく実景が目の前にある。それが幼い頃から培われた手腕と相って、見事な海岸が紙の上に再現された。周りから家司たちは、一斉にそれをのぞきこんでいた。

「いやあ、見事ですな。これを今売り出し中の若手絵師の飛鳥部常則あたりに色をつけさせてみたいものですなあ」

 良清の言葉に源氏は応えず、ただ笑みをもらしながら筆を進めていた。

 海を見るたびに、源氏は思っていた。愛する人が隣にいたなら、愛する人とともに見ることができたならば……今はせめて絵だけでも、妻に見せてあげたかった。一度はここへ彼女を呼ぼうかとも考えたが、すぐにそれは難しいと思い直した。大切な人にこんな佗び暮らしをさせるわけにはいかない。それよりもこの絵で、自分の見ているものを妻と共有しようと思った。そんな思いが、源氏に白熱たる筆を運はせているのであった。

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