第7章 須磨

 運命が自分に敵対している。とにかく煩わしいことばかりが、自分を襲ってくる。

 とにかく彼はしでかしてしまった。

 このまま平穏無事に月日を送れるとは思えない。

 あえて二条邸で知らぬ顔をして暮らしていこうとしたら、今まで以上の災難が自分にふりかかって来ないとも限らない。

 今まで以上の災難――遠方への左遷、ひいては遠流である。所領は没収、妻子も散りじり、この二条邸さえ廃墟と化すであろう。

 それが絵空事えそらごとでないことは、これまでの数々の事実が物語る。古くは旧都での太上天皇の乱、そして応天門放火事件の濡れ衣を受けた一族の没落、近くは雷公の例がある。

 誰にも相談できず、終わりゆく春の中で、源氏は二条邸にてもの想いの一日を過ごした。あの事件があった小野宮おののみや邸から戻ったその日である。

 そして前から考えていた隠遁の二文字が、突然現実のものとして具体化してきた。

 隠遁だと完全に世を捨ててしまうわけではない。すぐには無理かもしれないが、いずれは妻子も呼び寄せることもできよう。

 そして勅勘を蒙っての流刑ではない。いや、勅勘を蒙る前に自らの意志で身を引く。それなら所領も安堵され、屋敷や妻子の無事も保障されよう。

 今、最善の策はこれしかないと、源氏は思った。とにかく都から逃げようと思ったのだ。

 ではどこへということになるが、それについては今日中に答えを出さなければならない。

 そんな時、ふと「在五中将記」が頭に浮かんだ。在五中将は都にありわびて、あずまへと下った。

 東――源氏はやはり首を傾げてしまう。逢坂山を東にさえ越えたことのない源氏にとって、そこは想像を絶する異境である。はたして人が住んでいるのかどうかも覚束ない。「在五中将記」を見る限りにおいて、さらには昨年その坂東で兵乱が起こっているというから人は住んでいるのだろうが、その兵乱が起こっているらしい土地にのこのこ行っては隠遁どころの騒ぎではないだろう。

 それにそのような遠国へ行けばいかに都を恋しく思って煩悶するか、その辛さに源氏は耐えられる自信がなかった。

 かといって近国や「在五中将記」の不運の皇子である小野宮が隠遁した小野などでは、隠遁の意味もあまりないように思われる。あまり住む人の多い所では、落ち着いて暮らすこともできまい。

 一日中源氏は釣殿に座って、誰も寄せつけずに池の水面を見つめて考えた。

 庭の木々はもうすっかり瑞々みずみずしい若葉をつけている。空はぬけるように青く、雲ひとつない。そんな明るい景色とは裏腹に、源氏は頭をかきむしりたいほど煩悶していた。空の青さも明るい庭の風情も、自分とは無関係のものとして存在しているだけだった。

 答えは出ない。出ないが青い空を見るにつけ、いつまでも都でくすぶっていないで一日も早くどこかへ行かないと、自分の人格が破壊されてしまいそうな恐迫感に襲われる。

 ついに源氏は政所まんどころにいる暦博士を内密に東ノ対に呼んだ。今年の自分にとっての、吉方位を占わせるためだ。幸運を求めての隠遁ではないのだから別に吉方でなくてもよいのだが、これ以上凶運にさいなまれるのはごめんだった。

 博士が言うにはひつじさる(南西)の方角がよいという。

「その方角の近親者、もしくは女性によって運が開けてまいります。ただ、行く末もしくは……」

 最後を博士は言葉を濁したが、源氏の耳には入っていなかった。

「わかった」

 博士を下がらせ、源氏は思った。女性云々はどうでもいい。もう女によって自分の運が左右されるのはこりごりだ。それに今の自分の逆境からいって、運が開けるといわれても今ひとつ実感がわかない。

 だが、吉方位というならそれにこしたことはない。少しでも事態が好転する可能性があるなら、それに賭けてみようとも思った。

 行き先は南西に絞ることにした。摂津などの人の多い所は避けたい。他に思い当たる所としては、南西の方角には見つからずにいた。

 もう一度源氏は釣殿へ渡った。池の水は床の下にまで入りこみ、その先は海浜を模した小石の州浜になっている。

 ふと源氏の頭にひらめく地名があった。

 歌枕としても有名な、須磨である。在五中将は東へ下ったが、その兄は罪を得て須磨で佗び暮らしていたということが勅撰和歌集の中から伺える。

 そうだ、須磨へ行こう――思い立つと急に、心の靄が吹き飛んだような気になった。

 もうじっとしてはいられなくなり、早足で寝殿へ戻ると女房にょうぼうに命じ、北ノ対・西ノ対付き以外のすべての女房と政所まんどころ家司けいし全員を南面みなみおもてへと集めさせた。侍たちもその前庭へと集合させられた。

「私はこの度、歌枕を見に行くことにした」

 人々はどよめいた。

「私は都を去り、須磨へ行く」

 源氏の突然のこの発表に、集まった人すべてのどよめきは最高に達した。誰もが歌枕を見に行くなどと信じてはいない。

「今、私は宮中より疎んじられている身だ。正直に言うとある過失があって、流罪になるやもしれぬ。このような主人に仕えたそなたたちの不運を、あわれに思うぞ。許してくれ」

 上座からではあったが、源氏は頭を下げた。一度は静まりかけた人々も、またざわめきはじめた。

「それで、流罪などの恥ずかしめに会う前に自ら身を引こうと決めたのだ」

「殿!」

 最も源氏の近くにいた惟光が、血相を変えて源氏の正面までいざり出た。

「どういうことでございましょうや。殿の乳母子めのとごであり、家政を預る政所別当のこの惟光に、内々の相談もなくいきなり御発表とは!」

「許せ。そなたの怒りはもっともだ。しかし私とて、心が乱れておったのだ」

「水臭いではありませんか」

 一本気な惟光は、涙すら浮かべているようだった。源氏は今は、目を伏せるしかなかった。

「いつまでで、ございますか?」

「分からぬ。もしかしたら、骨をうずめることになるやもしれぬ。いや、私はとうにその覚悟だ」

「西ノ対のお方様は?」

「今は何とも言えぬ。いずれは呼び寄せるだろうが、今はまだ分からぬ。あれにはまだ何も言ってないからな」

「しかし、殿!」

 別の家司が声をはりあげた。

「須磨といえは、瀬戸内の海に近い所ではございませぬか。瀬戸内といえは今や、海賊が横行しているとか」

 そうなのだ。東は兵乱、西海は海賊という時世だ。だが、源氏は微かに苦笑した。

「須磨に邸宅を普請するというならいざ知らず、落ちぶれ人の侘び住まいなど、海賊も相手にはするまい」

「で、須磨でのお住まいは」

 惟光が気をとり直し、弱々しく聞いてきた。

「そのことよ。誰か」

 源氏は全員に向かって、言いわたした。

「かの地、いやずばり須磨でなくてもよい。その近辺に縁故ある者の山荘か何かがある者はおらぬか。どんな小さないおりでもよい」

 しばらくは、沈黙が漂った。誰もが互いに顔を見合わせていた。

「恐れながら」

 と、申し出たのは良清だった。

「私の父はかつて播磨守でございました。その折、父が別業としておりました山荘があったはずです。今では住む人もいないと聞いておりますが」

「どこだ」

「ずばり、須磨です」

「おお」

 源氏の顔は輝いた。中にはこの良清の申し出に、不服そうな顔をしている者もいた。だが家司の間で良清を下に置ける者はいない。源氏ほどではないが家柄では誰にもひけはとらない。

 彼は故一院法皇の曾孫、つまり彼の父は源氏の従兄弟いとことなる。その父は皇族から賜姓源氏となったが、一院法皇の崩御後に播磨守を退いてからは洛中にありながらも隠遁同様の生活をしているとの噂だった。

「よし。決まった。いいか。今限りで、家司は全員暇をとらす」

 またもや、人々はざわめきだした。

「ただし」

 人々が静まるのを待ってから、源氏は次の言葉を言い足した。

「このような不遇の私に、愛想を尽かさずに須磨まで一緒についてきてくれる者だけ、一時いっときの後にまたここへ集まってくれ。また女房たちも、希望者には暇をとらす」

 源氏はそれだけ言って、席を立った。


 一時の後、家司は二十三人だけ集まった。当然のこととして良清はいたし、また彼一人だけが嬉しそうだった。惟光の姿もあったので、源氏はひと安心だった。

 その中で同行する人選は、源氏自らが行った。選ばれたのは惟光、良清を含む七人だけで、あとは留守の家政を預けることにし、惟光のいない間のごんの別当も定めた。同行を希望したもののうち良清や惟光以外のほとんどは、暇をもらったらその日から生活に困るからという理由から同行を希望したようだ。

 そもそも家人とは「忠義」で結ばれているのもではなく、金銭で雇われているにすぎない存在なのだ。

 一方女房たちも、報告によると下がったものは一人もいないという。やはり女の方が情に厚いように思われたが、とにかく女房たちを北の対と西ノ対へ振り分けるように、源氏は早速権別当に命じた。

「殿」

 惟光が前に進み出た。

「どこまでもお供します」

 その目はまた潤んでいた。

「よく泣くなあ」

 そう言って源氏は惟光の手をとったが、その源氏の目もいつしか涙で熱くなっていた。

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