11

 さわやかな空が青く照りわたる若葉の季節になった。暦の上でも春は終わろうとし、いよいよ夏の更衣ころもがえの頃も近づいていた。

 あの九条邸で和やかな時を過ごして以来、源氏は自分の出した申文に、なぜか強い自信が沸いてきた。このまま官職もなく年月を重ねるなど、どう考えても不自然だ。妻もいろいろと慰め、力つけてくれる。やはり無二の親友の娘だけあって、この父娘の存在なくしては自分の存在もあり得ないだろうという思いはますます深くなった。

 まもなく除目の儀も始まる頃だ。そのことに関してはすべてを天に任ね、心静かに沙汰を待とうと思う。

 他に気がかりといえば、小野宮邸に預けているわが子だ。久しく会っていない。九条邸で宰相中将の太郎君を見て以来、わが子へ愛着はますます強くなっていった。

 こんな親子があっていいものだろうかと思う。官職が戻ったら、何はさておいてもわが子をこの二条邸へ引きとろうと思う。子供好きの妻も賛成してくれるはずだ。

 一度その心内を打ちあけたら、妻の方がまるで子供みたいに大はしゃぎしたものだった。中納言が手放さないかもしれないが、その時は宰相中将に中に入ってもらおうとも漠然と思っていた。いざとならったらその二人の父、摂政太政大臣に訴えるまでだ。さすがに政治向きのことではなく家政のことだから、太政大臣も大后の顔色を伺う必要はあるまい。

 将来のことをそのようにいろいろ思いめぐらしたりはするが、とにかく今の源氏は若君の顔が見たかった。


 ある日、妻にもそのことを告げて夕刻に小野宮邸へと向かった。

 東門で取り継ぎを請うた。この日は寝殿で中納言に挨拶してからではなく、直接に西ノ対に渡りたくそのように案内を請うた。

 かなり待たされた。取り次ぎの女房も東ノ対から寝殿の裏手の廊を通って西ノ対へ行く。そしてその往復だから、時間がかかるのはやむを得なかった。果たして取り次ぎの女房からの返事を、源氏の従者が聞いてきたことによると、今日は特別の事情があるので西の門へまわってくれということらしい。

 源氏はまた車を出さねばならないのでやれやれと思ったが、寝殿を通過しなくてよい分、助かったとも言えた。

「お帰りなさいませ」

 一斉に源氏を迎える女房たちの顔は、皆輝いていた。ところが中には新参とも思われる、知らない女房もいた。何しろ長い年月無沙汰をしてしまったのだから、いろいろと変化があっても然りだった。

 源氏はくつろいで畳の上のしとねに座った。敵地のごとき小野宮邸の中での、唯一の自分の居場所だ。しかしそんな場所は、さして必要とは思われない。さっさと若君を引きとって、小野宮邸全体を敵地にしても差し支えないとさえ思っていた。

 その若君が、乳母に手を引かれて来た。

「おお、こちらへおいで」

 若君はそれでも、きょとんとして源氏を見ていた。

「父上ですよ」

 乳母が促しても、若君は首を傾げていた。

「もう、こんなに大きくなったのか」

 立派な半尻を着て髪をみずらに結った姿は、ことさら源氏には新鮮に見えた。

「この間見た時はまだ乳のみ児であったのに、もう歩いている」

 源氏は目頭をおさえた。

「そうでございますとも。もう四歳におなりあそばします」

 乳母は少し笑っていた。満年齢だと二歳半である。

「若君は、おいくつになられた?」

 源氏は今乳母から聞いたことを、もう一度直接に若君へ問いかけた。

「よっち」

「おお、しゃべった」

 源氏は目に熱いものを浮かべながらも、微笑んだ。

「さあ、おいで。そなたの父だよ」

 源氏が両手を開いてもまだ若君は首を傾げ、乳母の小袿こうちぎの袖をつかんでいた。乳母がようやく若君を押して、源氏はわが子を直衣のうしの袖に包んだ。

「私が分からないのも無理はない。今まで放っておいたのだからな。許してくれ。父親らしいことは何もせずに、今さら父だなどと名乗れた義理ではないな」

 語りながらも源氏は、同じようなことを宰相中将が自分の娘である源氏の妻と初めて対面した時に言っていたのを思い出した。

 自分はまだ恵まれている。わが子がこのように物心つく前に、対面ができたのだ。しかも久しぶりというだけであって、別に初めての対面というわけではない。対面できない間も、どこにいてどうしているかくらいは少なくとも知っていた。その対面できないというのも、源氏の心の中で自ら垣根を作っていただけのことで、物理的、状況的に不可能だったわけではない。

 源氏の腕の中で若君はむずかり、すぐに

「めんめぇ」

 と、叫んでその腕をすりぬけて、乳母の方へ駆けて行ってしまった。源氏はただ苦笑していた。

「もう少し大きうおなりあそばしましたら、源氏の君様のことがお分かりになるでしょう」

 すまなさそうに言う乳母にも、源氏は笑顔を向けた。

「よいよい。それより、今日は泊まっていくぞ。それから、私が来たことは中納言様には?」

「まだ、申し上げてはおりません。今、行ってまいりましょうか」

 別の女房がそう言うのを、源氏は扇で制した。

「よい。中納言殿には、申し上げないでくれ」

 しばらくは、女房たちと昔話などをしていたが、そのうち乳母が若君を寝かしつけに行った。

 昔話に加え、若君の日頃の生活のことなどを源氏は聞いたりしていたが、やがて若君も眠ったとみえ乳母が席へ戻ってきた。

「ところで、なぜ今日に限って、西の門からと?」

「それは、どうも御不便をおかけしました」

 一人の女房が、畏まって言った。

「実は東ノ対には、やんごとなき方が内裏より下がってきておられますので、東の門からの来客はすべて西の門にまわすようにと、殿より仰せつかっておりまして」

「やんごとなき方? 内裏より? こちらが里のお方か」

「はい」

 若い女房は、新参者のようであった。古参の女房たちは何かを気がねして盛んにその女房へ目配せをしていたが、彼女は何も察することができないらしい。しかしその目配せが、源氏が感ついたことを確信へともなっていった。

「二の君、つまり尚侍かんの君か」

「はい」

 けろりと若い女房は答える。古参たちがやきもきしているのが、かえって滑稽でもあった。

「なぜ?」

「はい。わらわみとかで。内裏うちでは修法もなかなかままならぬよしにて」

「瘧病みか」

 源氏は淡い灯火に照らされた、薄暗い天井を見上.けた。

「私も昔、それにかかったことがある。あれは蚊が運ぶそうな。そうだ。私の時もちょうど今頃の時節だった」

 源氏は自分のあの苦しさを思い出し、どんなに尚侍の君も苦しんでいるだろうと、憫みの情が湧いてきた。しかし彼の内心は、そのような憐憫だけではなかった。いい機会が到来したと、実は飛び上がらんばかりの気持ちだったのだ。さすがにそのような心持ちをうしろめたく思ったのか、咳払いをして、わざと落ち着いて女房を見た。

「私の時は、北山にいるひじりの修法で快癒したのだったよ」

「北山の聖? 何というお方で?」

 女房の顔がばっと輝いた。仕える屋敷の主方あるじかたの姫の御ためという気持ちがその顔を輝かせたようだったが、どうもこの女房はかなりせっかちな性質たちのようで、

「何というお方ですか? ああ、もうさっそく姫様に、お知らせに参りましょう」

 と、今にも立ち上がらんばかりだった。

「まあ、落ち着いて。何しろもう六、七年前の話で、その聖はその時にもうかなりの御高齢でいらっしゃったから、まだ世におわしますかどうかは分からぬしな」

「そんな」

 急に落胆の色を見せたその女房の正直な性格が、源氏にはかわいくも見えた。

「そなた、ここでは何と呼ばれている?」

「はい。宮のすけと」

「そうか」

 源氏は何度もうなずいた。


 人々は寝静まった。源氏は眠れなかった。同じ邸内に尚侍の君がいる。それだけが興奮となって、彼の心を高ぶらせた。

 柔らかい肌の感触、それから伝わってくるぬくもり、えも言われぬ香り、そして彼女の優しさ。すべてが一気に、源氏の心を襲った。これまで宮中という手の届かないところにいた彼女が、今は手を仲ばせば届くところにいる。

 源氏は起きあがった。外はついさっきから雨が降り始め、それが恐ろしい爆音を室内にもたらすはどの豪雨となっていた。

 源氏は起きて袴だけつけると、こつそりと妻戸を出た。雨の音が急に激しく、耳をつんざくばかりだった。

 冷んやりとした空気が頬にあたる。庭には水たまりができ、そこへ雨が水しぶきをあげて落ちているようだ。そのことは音で分かるが、しかし何も見えない。

 この雨の音ならと、源氏は思った。足音や衣擦きぬずれの音が聞かれることもないはずだ。

 意を決して、全くの手さぐりで彼は簀子を歩きはじめた。雨は簀子の上まで吹きつけ、その着物ばかなり濡れたが、それでも源氏は歩いた。

 寝殿はすべて格子が下ろされていた。その北面の簀子を彼は歩き、時間をかけて東ノ対へとたどり着いた。

 ここも格子は下ろされてはいたが、中から明かりが洩れている。尚侍の君はまだ起きているようだ。この雨の音で眠れないのかもしれない。そう思いながらも源氏は、妻戸の外へ控えた。

 瘧病みは源氏は自分の経験上知っているが、一定時刻に定期的に発熱する他は至って平常の生活ができるやまいである。

 源氏は妻戸の中に向かって大声で叫んだ。

宿直とのい申しそうろう」

 この言葉なら、女房たちにも怪しまれずに済むだろう。

「宿直申し候。三ツ」

 そのあと源氏は、さりげなく、

「高麗人に扇をとられて」

 と、つけ加えた。これで本人が気ついてくれればよし、気つかなければとにかくとびこんで行こうと、今この場のことしか頭にない若い源氏はそのようなことを考えたりもしていた。

「源氏の君様」

 妻戸の中で、微かな声がした。源氏の胸はかっと熱くなると同時に、激しく高鳴りはじめた。

「しばしお待ち下さい。今、もう休むからと言って女房たちを下がらせます」

 雨はますます激しく、屋根をうがっていた。室内の女房たちは尚侍の君がただ、妻戸に顔をあてて無言で外の様子を伺っているとしか思っていないであろうことは、雨の爆音から察すると容易に断定できた。

「ああ、本当にすごい雨だこと」

 そう言って中へ入っていく尚侍の君の声が聞こえた。

 しばらくして、妻戸が開いた。源氏の君が入ると暗闇の中から、突然女は自分に抱きついてきた。顔は見えなくても、その香から尚侍の君であることは分かる。

「お会いしたかった」

 あまりの性急さに源氏は少しとまどったが、とにかく今や現実に尚侍の君が腕の中にいるのである。その抱きしめる力を、源氏はさらに強くした。

「さあ、お入りにください。ずいぶん濡れておしまいになって」

「でも、この雨のお蔭だよ」

 二人は小声で囁き合わなくても、この雨の音である。普通に会話しても人々を起こすことはないだろう。

 そのまま二つの影は、几帳の中の畳の上へともつれこんだ。

「病と聞いたが」

「恐ろしい病です。でも、源氏の君様が来て下されは、その光で物の怪も退散しましょう。何しろ光源氏の君様ですものね」

「相変わらず…」

 源氏は笑ってその頬に、自分の頬を重ねた。

 それから源氏は立っていって、燭台に火をともした。

「いや、恥ずかしい」

 尚侍の君は顔を隠すが、源氏は笑って優しくその腕をのけた。

「今さら私に対して、何が恥すかしいというのですか?」

 その白い顔をのぞきこむ。

「病で少しやつれたのでは? でもそれで、ますます美しさを増したようだ」

 そのままあとは無言で、源氏は香り揺らぐ女体を堪能した。息づかいが荒くなっている。灯火の中に胸をあらわにし、それを吸った。紅袴の紐を解き自分の袴の帯も勢いよく引いて放り投げた。懐の畳紙たとうがみが邪魔だったのでそれも放った。

 瞬間、源氏の手がとまった。

 昼以上に明るい閃光が、格子の外から洩れて入ってきた。ひき続いて雨の音などの数千倍も低い爆音が、室内を振動させた。

「きゃッ!」

 尚侍の君は源氏にすがりついた。二人がその動作を止めていると、すぐにまた同じ閃光と爆音があった。尚侍の君は震えだした。

「雷公の祟り?」

 たちまちに源氏は、尚侍の君によって塗篭ぬりごめの中へ押し入れられた。尚侍の君も続いて入ってきた。

「女房たちが起きます。私を気づかって、ここへ来るでしょう」

「なんということだ」

 源氏は運命を呪った。よりによってこんな時に雷なんか……ふとそう思った時、必要以上に震えておびえている姫が哀れでならなかった。

 塗篭の中に座ったまま、源氏はもう一度尚侍の君を抱きしめた。その体はまだ、小刻みに震えていた。尚侍の君の母は故本院大臣の娘――雷をもっとも恐れなければならない身だったのだ。

 雨は依然激しく音をたてていた。また外では、雷鳴が鳴り響いた。

「二の君、大丈夫か!」

 男の声がした。源氏には聞き覚えのある声だ。それは尚侍の君の父、中納言の声だった。

「どうしている、どこにいるんだ」

 ほとんど狼狽したふうの早口の声で、中納言はすでに身舎の中へ入っているらしい。

「動かないで下さい」

 源氏にそう言って着くずれを正し、尚侍の君はそっと塗篭の戸を開けて出た。

「おお、そこへ逃げこんでいたのか。灯りもつけっ放しで」

「もう、恐ろしくて」

「顔が赤いぞ。またおこりが始まるのか」

「いえ、その時刻ではありませんが」

 源氏は、息をこらして真っ暗な塗篭の中で身をすくめていた。早くこの時間が過ぎればよいと、それだけを念じていた。

「そうか。今日は私がついていてやろう」

「あ、いえ。あの、塗篭の中にいれは、雷神様もお入りにはなれませんでしょう」

「そなたにしては気強いことを。やはり宮仕えでたくましうなったな。それに、雷神を叫りつけた大臣の血を母から受け継いでおるな」

 少し安堵の口調になって、中納言は出ていくようだった。源氏は胸をなでおろす思いだった。

「ん? 何だ、これは?」

 突然にまた、中納言の口調が変わった。

「男帯じゃないか。それにこれは、男の懐紙!」

「お父上、何を?」

 しまったと思った。そして、燭台をつけっ放しだったのも大失敗だった。

「どきなさい!」

 その声と同時に、塗篭の戸は開かれた。中納言の手の紙燭が中を照らす。源氏は一応は顔を隠してみせた。


 ――白虹はっこう日を貫く――


 その言葉がその時、源氏の心の中に木霊した。

 中納言は、ほとんど悲鳴に近い叫びをあげた。

「何ということだ!」

 源氏は意外と落ち着いていた。折しもまた雷鳴が轟き、明けっ放しの妻戸からその光は、塗篭の中をも瞬間的に照らした。すべてがあらわになった。

「あなたは……あなたは……源氏の君!」

 中納言の声は震え、それ以上は言葉が続かないようだった。

「これは、大后様と申し上げねばならぬ」

 中納言はきびすを返し、大股で出て行った。妻戸が激しく閉じられた。自分の足音を隠した雨音が中納言の足音まで隠したのだ。

 尚侍の君はワッと泣いて、源氏にすがりついてきた。

 すべてが露顕した。いちばんまずい人に現場をおさえられてしまったのである。こんな時、女は泣くしかなすすべを知らない。しかし男である源氏はそういうわけにはいかない。

「すべて私の罪だ。あなたには何らお咎めがないように、努力するから」

「そんなことじゃないんです。私の咎めなんでどうでもいい。それよりもあなたと私の仲は、何もかもが終わりじゃないですかもう、死にたい!」

 そう言って女はますます激しく泣く。源氏は返す言葉を知らなかった。

 ついにこういうことになってしまった。運気の逆境の至りだった。

 源氏の頭の中に、ふとかの野の宮で見たさかきの枝が記憶に甦った。今の運気はまさしく、逆気さかき……そして、このことは単なる密通露見では済むまい。相手が大后の目をかける尚侍、帝の寵妃ともなるはずであった存在だ。これは国家への反逆――逆気だと思われても仕方がない。

 ひたすら泣き続ける尚侍の君の体を包みながらも、源氏は茫然と行く末を考えていた。しかし何も見えなかった。ただいえるのは、さほど狼狽はしていないことだ。衝撃があまりに大きすぎると、かえって反動で人は冷静になったりもするようだった。

 そんな冷静は頭で、源氏はぼんやりと考えた。まずこのことが大后の耳に入れは、復任は完全に水泡に帰すということ。そしてそれだけではなく、位階をも召し上げられて流罪ということもあり得ると、そう思った時にはじめて源氏の休も震えだした。


(つづく)

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