10

 尚侍かんの君の笑顔が目前にあった。微笑んでいた。

 切実にいとおしてと思う。抱きしめると柔らかい体からはぬくもりが感じられ、それが源氏の胸をしめつける。甘い香りと熱い感触があった…………。


 こんな鮮明な夢を見たのは久しぶりだと、寝殿で一人で目覚めた源氏はまだうつろな気持ちでいた。

 心のどこかがまだ温かいのである。心の奥深いところで、今でも彼女を愛し続けているようだ。自分の心をかき乱す存在だとは分かってはいるが、それは頭の中でだけの話らしい。

 かつて六条の御息所の時はそのことでひたすら相手に、そして自分にも嫌悪感を覚え、会おうと思えばいつでも会えるのに自ら疎遠な関係にしていった。それがあの生霊事件という悲惨な結果を招いてしまったのかもしれない。

 しかし今は尚侍の君に対して嫌悪感どころか、充分心の中で慕っているようなのである。

 だが状況として、彼女には会えない。彼女は尚侍ないしのかみとして宮中にいる以上、会いに行くのはこの上ない危険な冒険だったし、またどう転んでも妻の一人として数えることはできない。


 たった一回の文通のみで、その年も暮れていった。こんな思いも自分が隠遁すれば清算がつくだろうとは思うが、まだその決心もつかないし、具体的な計画も立たずにいるのだった。

 二条邸にとっては、淋しい正月だった。

 家司けいしや女房の半数以上は、邸の経済的理由により暇を出していたのである。家人たちの人数も少なくひっそりとした正月にも、源氏は全く外出しなかった。宮中へも行かず、大臣家大饗にも参加しなかった。

 春となれは、除目の季節である。今頃は宮中では人々がつてを求めて「よきに奏し給え、啓し給え」と、昇進運動を展開している頃だろう。今年もそのようなことは全く源氏の頭の上を、彼とは無関係に飛去しようとしている。

 だが源氏は隠遁を考えるかたわら、今年の除目に微かに期待をかけていた。思いたって申文もうしぶみを書いたのである。申文とは自分が昇進したい官職への自己推薦状であるが、服解した旧職への復任の申文など前代未聞のことであった。だがあえて源氏はそれを書き、最後の望みを托した。

 彼の申文は家人けにんにて九条邸に届けられ、宰相中将から上表してもらうことにした。

 その返事が出されるまでには、まだ二ケ月くらいはかかるはずだった。しかしその前に、宰相中将が二条邸を訪ねてきた。

「いやあ、どうしてるかね」

 入って来るなり元気に、宰相中将は自分の婿であると同時に小舅である源氏に声をかけた。

「いや、見てのとおりだよ」

 南面で対座し、宰相中将は庭を見わたした。

「梅が満開だねえ。やはり九条よりも宮中に近いここの方が、春が早く来るのかねえ」

「正月はどうしてた?」

「正月か。いつもの通りだよ。まずは父上の大饗……あ、そうそう、左大臣は来なくてね、左大臣家の大饗も今年はなかったんだよ。それから右大臣家の大饗があったけどね、私は気分が悪かったから早々にひきあげた」

 そんな他愛のないことを言っている宰相中将だったが、源氏は自分の申文の首尾が知りたくて、そわそわしていた。

「私はね、やっと従四位上になったよ。あと少して正四位下の君に追いつくな」

 そんな内容でも皮肉に聞こえないくらい、明るく陽気に宰相中将は笑って言った。

「そうか。それはめでたいな。ところで」

「あ、そう、ところで、実は父が摂政太政大臣の辞表を出したんだ」

「え?」

 源氏は自分が言いかけたことの腰を折られたことよりも、宰相中将の言葉の内容に関心がそそられた。

「父もおもしろくないんだろうな。すべてを握っているのが自分の妹である大后様だからな」

 摂政が前にも辞意をほのめかしていたのは源氏も知っている。しかしその後摂政致仕の話は聞いていないから、辞表は脚下されたのだろう。今度で二度目だ。辞表はふつう二度目までは脚下されるのが辞令で、三度目で受理されたとしても脚下されたとしてもそれが本当の勅答ということになる。しかし今度は摂政だけでなく、太政大臣を含めての辞任らしい。

「たしかに太政大臣というのは名誉職だしな。父上のお考えも分からないでもないけど」

「しかし辞任されたら、どうなさるおつもりなんだろう」

「御隠居の身かな」

 話題が摂政太政大臣の方へ行ったので、源氏はとうとう自分の申文についてのことを尋ねる機を逸した。

「時にもうすぐ桜も花開くね。君も毎日ここにいては退窟だろう。花の頃にひとつ韻塞ぎでもして遊ばないか。博士たちを呼んで」

「あ、いいね」

 源氏は賛成だった。

 ことは宰相中将の計らいで運び、花も満開となった春の雨の日、宰相中将は多くの詩集を持って再び二条邸へやって来た。博士たちも召して左右に分け、源氏は左方についた。

 韻塞ぎとは詩の韻宇を伏せて、それを互いに当て合う競技だが、だんだんと難解な部類になって博士たちもうなりはじめた。だが、源氏の助言でそのほとんどが解けてしまう。

 今度は人々は、別のうなり声をあげた。

「いやあ、源氏の君は前世でも、かなり学を修めておられたのでしょうなあ」

 そう絶賛する者もいた。


 二日後、九条邸で負けた宰相中将の負け振る舞いの宴がもたれ、久々に源氏は九条に赴いた。その時は西ノ対の妻も同行した。

 春のうららかな陽光の中で宴は繰り広げられ、庭の池の流頭鷁首りょうとうげきすの舟が行きかう上に花びらがこぼれるさまは、かの御八講の時のような人工のきらびやかさではなくまさしく自然の美として、この方が幾分も極楽浄土に近いように感ぜられた。

 文人が詩を賦す。そして韻塞ぎの負けのための賭物も、源氏にかなりの量がこの席上で渡された。

 肴は檜破篭ひわりごに入ったものだった。庭では着飾った童形の若者ががくに合わせて素晴らしい音色で笛を吹き、そのあとで高砂という催馬楽さいばらを歌っていたりする。

 

 ――高砂の さいささごの

    高砂の尾の上に立てる

    白玉、玉椿、玉柳……


「あれは?」

 源氏が宰相中将に聞くと、宰相中将は少し得意げに笑みを浮かべた。

「わが太郎君だよ。今年十五になる」

「ほう。そういえばかなり前にそろそろ元服だと言っていたのに、まだだったのか」

「まあ、いろいろ事情があってね。この子と」

 宰相中将はそばに座っている源氏の妻である自分の娘を示した。

「この子と同じ年で、生まれたのはちょっと遅かったな」

 源氏は目を細めたあと、妻を見た。妻は源氏にうなずいて見せた。妻の目はそれから、生まれてはじめて対面する自分の弟に釘づけになっているようだった。

「今のうちに弟の顔をよく見ておくんだな。加冠の後は母が違うから直接は会えなくなる」

 宰相中将は、そんなことを言って少し笑った。

 暖かな風が吹き込んでくる。

 何もかもが和やかだった。久々に源氏の心は落ち着いていた。この世もまだまだ捨てたものではないとも思う。こんなに楽しいひと時を持つのが、自分に許されていることさえ奇妙に感じられもした。

 そしてそれも宰相中将という朋友の存在があってのことであり、こんな素晴らしい朋友が自分にいるということがただただ嬉しくてしかたがなかった。

 源氏は庭のわが子を見る宰相中将の横顔を、じっと見つめていた。たとえ宮中の人々がすべて自分の敵になろうとも、この友さえいれば自分は生きていけるのではと、この瞬間は感じていたのだった。


  今朝咲いたる初花に

  あはましものを小百合花……


「さあ、源氏の君」

 歌も終わり頃になって、宰相中将はさらに源氏に杯を勧めた。

「今朝咲いたる初花にも劣らない、源氏の君に乾杯!」

「いや」

 源氏は苦笑した。

「今朝咲く花は、春の雨にすっかりしおれてしまっているよ」

「何を言うのかね。そんな弱音は聞きたくもないね。さあ、飲んだ飲んだ。飲んで日頃のうさを晴らしてくれ」

 実に陽気に宰相中将は、どんどん源氏に酒を勧めてくる。

「この酒が、萎れた花に生気をとり戻してくれそうだ」

「そうこなくちゃな」

 二人の笑い声が、庭の方まで響いていた。その後ろで妻も、にこやかにほほ笑んでいた。源氏は勧められた杯を干しながら、庭のがくの音にも心が和んで、気持ちよく酔っていった。

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