日がたって冷静になって考えると、小一条の若君が自分を諷した言葉は、そのまま弘徽殿大后の自分を見る目なのかもしれないと思えてきた。そうなると、怒りよりもむしろ恐怖を感じてしまう。

 そのうち源氏とは無関係に、新嘗繋が行われた。当日は雨天だったが、晴天の日の儀で行われたということだけを源氏は聞いた。

 師走に入ってから大雪が降って、都の大路小路が一面に雪化粧した。その雪もまだ消えやらぬ頃、弘徽殿大后主催の法華八講が、洛南鴨川東岸の大寺で行われた。

 前の月に坂東の富士の山が大噴火を起こして、北麓の大きな湖が溶岩に埋まっていくつかの小さな湖に分割されてしまったという知らせが入ったばかりだ。

 人々は不吉の前兆と噂したし、現に陰陽おんみょう寮ではそれを東国の兵乱の兆とぼくした。事実、二、三年前から東国に不穏な動きがあることは誰もが知っていた。所領の利権をめぐって貴種の末裔のある豪族が、その親族相手に合戦を繰り広げていた。しかし今はそれも収まってはいるし、だいいち都への反乱でも何でもなく一族間の私闘だ。しかも騒ぎを起こした超本人は帝の御元服の恩赦でその騒擾罪を免ぜられ、すべてが平穏に片が付いたはずだ。その坂東で、またもや戦乱が起こるとぼくされた。西の海賊に加わって東の兵乱となると、挟まれた都はたまったものではない。そんな動揺の中での御八講だった。

 大寺は摂政太政大臣の私寺であった。かつて宰相中将が自分は父の寺の寺守と冗談で言った、あの寺である。

 川と東山との間の広大な敷地に巨大な伽藍が立ち並ぶ様は、官寺のそれにひけをとるものではないと源氏は聞いていた。しかし彼はまだ一度もその寺を見たことはなかった。今回とて大后の御八講とあれば、たとえそれが故父院の供養のためで皇子や皇親源氏すべてが招かれたとしも、当然源氏は出かける気にはならなかった。

 八講とは四日にわたって一日二講ずつ法華経の講義が講師によって行われるものだが、その四日目の日はとうとう源氏も腰を上げた。

 もう宮廷の人々の間に入って交わりたくないのは山々だったが、藤壷の宮の誘いとあれば断ることもできなかった。わざわざ女房を遣いによこして先日の紅葉の礼と、そしてぜひ御八講に参列をと宮は言ってきたのである。

 主催はあくまで弘徽殿大后だ。今や国母として帝や摂政さえもしのぐ最大の権力者だが、藤壷の宮も故院の妃として、後宮でとりわけ文芸サロンで弘徽殿大后と勢力を二分した存在だ。この御八講には大后とともに、藤壷の宮も中心となって進められたものだという。

 初日は藤壷の宮の父、すなわち故院の祖父、源氏にとっては曽祖父の先帝のための御料であったという。二日目は故院の御ため、そして三日目は大后や摂政太政大臣の父、故掘川関白のための御料で講義は行われたということだ。

 結縁けちえんの日、藤壷の宮の誘いを断りきれずに源氏が大寺へ到着すると、おびただしい数の車が門前に停まっており、自らの車を立てる隙もないくらいだった。皇族や皇親源氏たちばかりではなく上達部かんだちめはもちろんのこと太政大臣家のすべてが参集していると言っても言い過ぎではないくらいのありさまだった。

 大門から講堂までは数々の大屋根の間を通り、かなりの距離があった。

 ただでさえ華麗な仏殿である。本尊は毘廬遮那びるしゃな仏で、その前には銀の薬師如来像があった。仏殿は六角形で、内側は薬師浄土の画、外側は金の蒔絵まきえで飾られ、棟の頂は水晶の火炎珠、扉には金の花鬘けまん代がかけられていた。さらに屋根のどの角にも金の幡が下げられて、冷たい風に揺れていた。

 それに加えてこの日は御八講結縁日ということで、荘厳な中にも華麗さは頂点を極めていた。供養の経典も仏像の飾りも、これが極楽浄土の姿なのかと人々の魂をも揺り動かすほどであった。

 そもそもが華麗を競うことで、大后や太政大臣一族の勢力を誇示することにもつながる。それでいて仏の功徳も得られるのだから、これ以上喜ばしい儀式はないはずだった。

 主催者側にしてみればそうだろう。しかし礼堂に他の群卿たちとともに詰める源氏は、なぜか白々しさを感じていた。

 果たして父は喜ぶだろうか――そんなことを思ったりする。まあ、これだけぜいを凝らして追善供養をすれは、父個人の魂は喜ぶだろう。しかし、み仏の前で本当に魂の救いになるのかと思うと、ふと首を傾げてしまうのだった。

 仏殿内はさらに人々の、華麗極まる捧物で埋め尽くされていた。そしてそれらがそれぞれの施主の勢力を象徴するものとなっていた。もちろん源氏とて手ぶらで来たわけではない。しかし人々はあり余る財力の中の一部を割いたのに過ぎないだろうが、源氏にとってはなけなしをはたいてだった。

 講師は比叡山より招かれた天台の高僧のようだった。「薪こり莱摘み水汲み仕へてぞ得し」と唱える声は、清らかに澄んでいた。しかしその歌――その内容と目の前で展開されている華麗な儀式との落差を、源氏は何となく感じていた。

 彼の頭に浮かんだのはあの雲林院で朝も暗いうちから起きて床を磨き、勤行をしていた修行僧たちの姿だった。これこそ「薪こり莱摘み水汲み仕へて」いる姿ではないだろうか。華麗な祭壇の中央に、やはり晴装束の華麗な裳・唐衣からぎぬ姿でデンと座っているであろう大后とは、雲と泥との差があるように思われる。衣裳が華麗であれはあるほど、泥だ。

 そう決めつける源氏の中で、先日小一条の若君に諷されたことが、再び蘇って憤りを覚えはじめた。


 結縁の時を迎えた。何やら仏殿の方が騒がしい。

 その場ではじめて発表されたことだったが、これを機にこの場で藤壷の宮が落飾するという。

 とうとう御出家なさるのか――源氏は羨望と安堵の気持ちで、それを受けとめていた。あの方にとっては、それがいちばんいいことかも知れない。

 自分の母も恐らく仏に身を捧げて余生を過ごしたかったに違いない。しかしそれを実現させて差し上げる間もなく、母は逝ってしまった。せめて、第二の母である藤壷の宮が思いを遂げたことで、源氏は自分の中に微かな安らぎを得ていた。

 

 その夕、さっそく源氏は三条邸を訪れた。

 もはや彼と、形を変えた藤壷の宮との間には御簾は必要なかった。元服後初めて直に見る宮の姿に、源氏は胸がしめつけられる思いだった。こんなにも年をとった老人になっていようとは思ってもいなかった。彼の記憶の中の宮は、水々しさを残した艶な女性だったのに、今や顔や額にはしわがあり、肩の上で切りそろえられた短い髪もほとんど白髪だった。

「今日は私の入門の儀に、立ちあってくれてありがとう」

 この決意があったから、宮は今日の日に自分を八講に強く誘ったのだと、源氏は今なら納得できた。

「これからはもう雑念をお忘れになって、お勤め一途におはげみ下され」

 源氏の言葉に、宮はにっこりと微笑んだ。

「ええ、言われずとも。それにしてもすごい雪でしたね」

「雪はいいですね。すべての醜いものを覆い隠してくれる。何もかもが新しくきれいなものになるのですからね」

 そう言いながらも、羨望が再び源氏の中で頭をもたげた。自分もすべてを振り捨てて、同じ道に入ることができたら――そう思うけれどできない自分が歯痒い。それを少しだけ、源氏は口にした。宮は今度は声をあげて笑った。

「何をおっしゃいます。仏様にお仕えするのは、私のように棺おけに片足を半分つっこんだお婆ちゃんが考えればいいのです。あなたはまだお若い、これからの人ではありませんか」

「いえ、それが」

 源氏にはどうしても自分がこれからの人とは思えない。

「宮様はどこぞのお寺へ?」

「いえいえ。これからもここで入道生活ですよ。でも、いつ阿弥陀様のお迎えがあるか分かりませんしね」

 仕えていた女房の王命婦おうのみょうぶも同じく出家した。

 二条邸に戻ると源氏は西ノ対には行かす、寝殿の御帳台に入った。荒々しく妻を抱いたあの翌朝、我に返った源氏は妻に誤り、妻も快く許してはくれてはいた。

「殿方って外へいらっしゃるから、いろいろなことがありますものね。それを受けとめて、すべてを包んでさしあげるのが妻の役目と心得ておりますから」

 こんなことを言ってくれる女は、妻以外には絶対にいまい。源氏はここでも自分の教育の成功を思った。しかし妻がそんなに優しければ優しいだけ自分が責められ、そしてばつの悪さもあって源氏は西ノ対に渡ってはいなかった。

 この晩も御帳台の中で考えた。

 出家した藤壷の宮が羨ましい。しかし自分にはできない。だからといって、このままの生活をいつまでも続けてはいられない。このままの生活というのは復任を待つ生活だ。その復任はいつあるか分からない状況だし、かなり望みも薄くなっている。

 このまま散位で一生を終わるとしたら、こんなつまらない人生はないだろう。藤壷の宮には笑われたが、若くても出家する方がどんなに後の世にも有益か。しかし出家は、復任の可能性を自らの手で葬り去ることだ。このままでなく、そして復任の可能性も葬ることにならない所為――そう考えた時、源氏の中にある言葉が閃いた。

 隠遁――それしかないと源氏は思った。かの在五中将も都にありわびて、あずまへ下ったではないか。その言葉をかみしめているうち、妙なことだが胸がわくわくしてきた。そしてその日は疲れていた源氏は、いつの間にか眠りに落ちていた。


 翌日は一日中庭を見ながら、源氏は隠遁のことを考えていた。少しは溶けはじめてはいるが、庭のだいたいはまだ雪に覆われていた。

 隠遁といっても、どこへ――?

 すぐに決まることではない。まだ雲をつかむような話だ。ただ、自分の中でこんなにも話が具体化されていることに、自分でも驚くくらいだった。

 夕刻、女房の一人が文を持ってきた。まだ蕾の固い梅の技に、その文は結びつけられていた。

「どこからの文か」

 源氏の問いに、女房は首を振った。

「それが、使いの童女も、何も言わすにこれを置いていったのですよ」

 不審に思って源氏は、その枝を手にとってみた。

 女からの文であることは間違いない。どの女か――思い当たる節はない。いろいろ考えてみたが、考えるより開いてみる方が手っ取り早いのは確かだった。


  なげきつつ しのぶることの 苦しきに

    いひても物を 思ふ頂かな


 源氏は驚愕した。筆跡で相手はすぐに分かった。

 見なければよかったと思った。自分をかく乱し、煩悩の渦の中に自分を落としこむ存在の記した筆跡が手の中にあった。

 果たしてその煩悩の渦の中に、早くも源氏は落ち込んだ。

「使いは待たせてあるのか?」

「はい」

 女房がうなずくので、源氏はすぐに筆を選んだ。


  冬の夜の 雪の光に あらねども

    とけてはおとる 物にぞありける


 我ながら意味深だと思う。相手――尚侍かんの君がどう解釈するかは分からない。しかし、源氏はすべてを相手に任ねる気持ちでいた。

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