3
まるで白髪の老人が風に髪をなびかせているような星は、無気味な印象を人々に与えるものでしかない。
しかし陰陽寮の
楽人が会場となっている承香殿の北庭に参入し、この夜も源氏は琵琶を弾じた。権中納言左金吾が箏の琴を奏で、これが人々の話題をさらった。
庭にしつらえられた舞舞台の上で、二人の奏でる音色がそこに居合わせたすべての人々の心の中に響き、旋律は夜空へと舞い上がり帚星まで届こうとしていた。
この二人の合奏は、ほぼひと昔前ともいえるあの紅葉盛りの中で舞われた二人の青海波を知っている者には感無量であった。あれから十年という歳月に、今昔の感を覚えた者もいただろう。
深夜を過ぎても宴は続き、源氏はほろ酔い気分になっていたところに、蔵人がやってきて源氏に耳打ちした。
「帝のお召しでございます」
宴の前に帝は、すでに御退出になっていたはずである。
「まだ大殿篭もらないで……?」
源氏は立ちあがった。帝のおわします綾綺殿へ殿上つたいに行くなら、一つ南の仁寿殿の簀子を通って紫宸殿の方まで下がり、左近の陣を通って行かねばならない。
深夜のこともあってさすがに大人の男でも一人で行くには恐い道筋だし、遠回りだ。源氏は承香殿の北庭から
「源宰相、参りましてございます」
綾綺殿の簀子まであがって案内を請うと、蔵人が畏まってさっそく源氏を中に招き入れた。そのまま、
帝はまだ
「兄君、参られましたか。どうか近う。今宵はともに飲みましょうぞ」
帝もこの時刻まで、おひとりで御酒を召されていたようだ。
「花の宴に浮かれ、なかなか休めなくて」
帝はお笑いになったが、力のない御様子だった。
源氏も愛想の笑いを返したが、それは表面だけだった。御酒で赤くおなりになってはいるが、ますます龍顔は
「兄君も、いかがですかな」
帝は御自分の御杯を蔵人に渡した。それが源氏の手にわたると、別の蔵人が酒をついだ。
「恐れ多き幸せでございます。頂戴致します」
源氏が杯を干すと、待っていたかのように帝はお口を開かれた。
「先日の絵合では、見事に負け申しました。しかし、兄君こそが判者かと思うておりましたが、意外なお席に」
帝はおどけたような御口調であったので詰問されているという感はなく、源氏は笑んだ。
「まことに、意外な成り行きで……」
「負けてよかったと、
「え?」
源氏の杯を持つ手がとまった。かまわずに蔵人は、それに酒を注いでくる。
「十四宮なら充分に国を保っていかれような」
「
源氏がたしなめたが、目の前にいらっしゃるのは若さが輝いているはずの若者ではなかった。老成しきっているような、十九歳の老齢者がいらっしゃるようだった。
細い。確かに細い。そして男性としては……源氏はそれ以上、無礼なことは考えるのはやめにした。
「兄君。どうされました?」
笑みを含んだ帝のお問いかけに、源氏は
「あ、いえ」
「今宵はもう、
「は」
「何しろ
「父院ですか」
源氏はふと目を落とし、ため息をついた。手には先ほどまでの奏楽の琵琶の感触が残っている。
「私も幼い頂からいろいろ学問に身を入れてまいりましたが、父院は詩文で身をたてようなどと考えるとろくなことがないとおっしゃってくださいましてね。それで明経、明法・故実などに精を出してまいりましたけれど、不思議と絵だけは思うようにいくのですよ。ま、先日お目にかけましたあの程度ですから、お恥ずかしいのですけれど」
「何をおっしゃいますか」
帝はさらに笑んで言われた。
「あの見事な海の絵でございましょう。やはりあれは兄君の絵でしたか」
しまったと源氏は思った。秘密のはずだったが、今自分で暴露してしまった。だが帝はお笑いになっている。
「それに先ほども、見事な
「恐れ入ります」
「それで絵があのようでございましたら、当代の絵師がみな恥じ入って隠れてしまいましたりして。そうしたら、兄君、罪なことですぞ」
帝は声をあげて笑われた。源氏もともに笑いながら、酒の勢いのせいもあってか、ふとまぶたの裏が熱くなったような気がした。何しろ久しぶりに、亡き父の話題が出たのである。
その父の御八講もまだ実限できすにいたのを源氏は思い出した。この時だ、と源氏は思った。
「
源氏は「お願いの儀がございます」と、言って両手をつこうとした。しかしそれより早く、蔵人が簀子から声をかけた。
「
源氏は驚いて、帝のお顔を見た。帥宮――すなわち十四宮である。帝はまだ微笑んでおられた。
「
と、帝は言われた。
入って来た十六歳の青年は見るからにたくましく、それだけでなくて聡明そうで輝くような美しさを持っていた。
「いやあ、兄君もおいででしたか」
彼は親王なので臣下である兄の源氏よりは上座についた。帝には軽く挨拶しただけだった。同母兄弟というのは、それだけで済むようだ。
「今、亡き父院の話をしていたところだよ」
帝が十四宮に言われた。
「いやあ、私はほとんど覚えてはおりませんね。おぼろげながら記憶の片隅に父はおられる。でもやはり、父こそが目標ですな」
雅やかに笑う十四宮は、気さくな性格のようだ。野放図に育てられたのだろうと源氏は思う。帝の育てられ方が過保護だったのだ。その分だけ十四宮は母后に気をかけられてこなかったようである。同じ父、同じ母を持っても、育てられ方でこのようにも人間は性格が変わるらしい。
「時に兄君、お懐かしうございますな」
十四宮に言われ、源氏は頭を下げた。懐かしいと言われても異母弟であるゆえ顔は合わせてはいたが、源氏にとってこんな身近に十四宮と接するのははじめてだった。
そんな十四宮に向かって、帝は源氏をお示しになった。
「幼いながらも
帝に言われて、十四宮は源氏に恭しく頭を下げる。
「それはそれは、何とぞよろしうに」
「いえ、こちらこそ」
源氏は弟に頭を下げながらも、この二人の同母兄弟の間には、何かすでに申し合わせがあるのではないかという気になっていた。
数日後、権中納言が二条邸の客になった。
「絵では勝ったけど……」
権中納言の顔には悲壮感があった。そして彼はため息をついた。
「兄君の三の君の女御冊立は、時間の問題だな。本院大臣の娘腹ゆえ、大后様が御病床より動かれるだろうからな」
「でも、男皇子さえ生まれなければ」
源氏はいたって穏やかである。
「それでもわが姫に、帥宮様の御子を生んでもらわねば」
「大丈夫だよ。帝はもう皇子はもうけられまい。もしもうけられるとしたらすでに王女御様から生まれてるはずさ」
「だけど王女御様は後見のない添伏だろう。兄君が画策すれは……」
「帝は御病弱なんだよ」
源氏は苦笑をもらした。権中納言は驚きの表情を見せていた。彼がそれに気づかなかったというのは、やはり源氏が帝と兄弟であるがゆえに知り得た秘密であるようだ。
「そうだったのか……。時々は御不予におなりになったことはあったが……」
この頃はもちろん、守秘義務などという概念はない。
「でももうすっかり君は、私の陣営の一員になってくれたんだな」
涙をこぼさんばかりの真剣な表情で権中納言が言うので、源氏はそれを何とか冗談ではぐらかそうとした。源氏はこんなにも真剣になれる今の権中納言がうらやましかった。実のところ源氏はまだまだ傍観者の位置にいる。そこで
「今、右大臣の席は空席だよな。君の兄上が右大臣になったりしたらあとは分からんぞ」
にやにやしてそう言う源氏に、それでも権中納言はまじめに反論した。
「それはない。父摂政がさせない。少なくとも父の目の黒いうちは」
あまりに食ってかかられたので、いけない
そのまま二人で西ノ対に渡り、権中納言はその娘と久々の対面をした。
「美しくなったな。見るたびに大人になっていく」
やっとそこで、権中納言の笑顔を源氏は見ることができた。
西ノ対から権中納言を見送ったあと、源氏はそのままそこに泊まることにした。
「お父君も、なんか大変だったみたい」
「いろいろとね」
源氏は優しく、妻に微笑みかけた。
「ま、女の私が分かることではないでしょうけれど」
「女の君は女としてしなければならないことがあるよ」
「まあ、ひどい! そうやって、私を責めるのね」
「そういうわけじゃ……」
「いいわ。そのうち奏楽ができるくらい、私一人で殿のお子を生んでみせますわ!」
とにかくもうこの妻がかわいくて、源氏は笑い声をたてた。
その妻を抱いて燃えたあと、ふとそのぬくもりを腕の中にしたまま源氏は思うことがあった。
この妻は、たまたま権中納言の娘だった。北山の寺で少女でいた時は、権中納言のことは知らなかった。そして、この女を愛した。だが今は妻の父とともに、源氏は社会の中を歩んでいる。縁籍という絆で結ばれてもいる。そしてそれがさらに源氏を、摂政太政大臣の縁者にもしている。しかしすべて、偶然の所産なのだろうか……?
妻はもう源氏に裸の体を密着させたまま、寝息をたてていた。源氏はまだ寝つかれない。
さっきは北山の寺で見つけた時は、権中納言の娘と知らずそして愛したと思った。いや、違う。妻を実質上愛したのは、もっとあとだ。当然、権中納言の娘と知っていたあとだし、小野宮の大君の他界のあとだ。自分で意識していない自分の意識が、その時働いていたのか……。
自分の娘に十四宮の御子を生んでほしいと言っていた権中納言の顔が思い出される。ふと、妻とは、娘とは何なのだろうと思ってしまう。そして今の自分も、自分の妻に対する気持ちも……。
今抱いているのは、北山で雀の子が逃げたといって泣いていた少女ではない。れっきとした権中納言の、九条権中納言家の三の君だ。その片書きを、抱いているのか……。
もし今の源氏がこんなことを北山にいた昔の自分、あるいははじめてこの娘を妻とした日の自分に問いかけたら、昔の自分は激怒して今の自分を太刀で斬るだろう。
だが、今ここにいて思考している自分が、明らかに源氏自身であった。自分とはいったい何のだろうかと、今度は逆にそう思いはじめた頃に、源氏の意識は眠りの深淵へと陥っていった。
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