西国の海賊については全く追捕使に任せきりというのが、都の宮中の態度だった。ただ時折来る報告書を吟味するだけで、聴政の申文もうしぶみは平穏な時のそればかりであった。

 源氏は政務に没頭した。その中に自分を見出そうとしているようでもあった。それでも疲れる。疲れて二条邸へ戻ると、そこに妻がいる。それが疲れを癒してくれる存在となっている。それでいいではないかと、ふと源氏は思う。わざわざまた出かけて他邸にいる妻のところへ通う必要もない。ちょっと足を延ばして西ノ対へ渡ればいいだけだ。

 この女をもう政治の色で見るのはよそうと、源氏は思った。


 だが、季節が夏になるにつれて、ますます源氏の心にのしかかってくる存在も、決して消えてはいなかった。

 明石の姫君……消息は依然として分からない。別れてからもうすぐ二年の月日がたとうとしていた。捜査に二条邸の家司を派遣してもらちがあかないし、だいいちそんなに多くの家司を出してしまえば政所の方が手薄になる。それに海賊に怯え、行こうとする者も少ない。

 そこで彼が権守ごんのかみとなっている備前国の国衙の兵を使ってとも考えたが、とにかく海賊が鎮圧されるまではそのような私事で国府の兵を動かすのはまずい。それに彼は権守だ。兵を動かすなら正守が心から賛同してくれなければできることではなかった。

 その点状況は源氏にとって好都合に展開していた。この春の除目で源氏と懇意の老人、宰相修理大夫が備前守を兼ねることになったのである。だが彼は遙任で、都にいる。実際国府を動かしているのはすけだ。

「惟光、もはや時機だと思う」

 源氏はある夜、政所別当の惟光を呼んで言った。

「御意」

「私は権守としての職掌を理由に任国の備前に下る」

「いよいよですか」

 それだけでもう、乳母子めのとごの惟光には源氏の心のすべてが分かった。

「私もお供します」

「いや、そなたがいなくなったら二条邸の家政が滞るからな。良清をつれていく」

「良清? しかし、彼は……」

 たしかに良清は父の喪で服解ぶくげして以来、この二条邸には出仕していない。聞くとかつての父と同様の無頼の生活を送っているという。

「いつまでも、ああじゃ困る」

 源氏はにっこりと笑い、そして言った。

「東ノ対の家司には、そなたから言っておいてくれ」

 自分で直接入道に言うと、また連れて行けとか言い出すに決まっているから、源氏は惟光に託したのだった。


 翌日、宮中でまず修理大夫と相談し、その上で備前下りを願い出るつもりでいた。参議の身なので簡単にはいかないが、数ケ月前に亡くなった橘中納言は、参議の時に大宰権帥だざいのごんのそちとなって任地に下っている。参議の職はそのままだし、途中で一度都へ召還されて中納言に叙せられ、さらに再び任地へ下っているのだから左遷ではあるまい。自ら希望してのことだと思われる。そのような先例もあるし、権守が任国へ下るのに理がないということはない。

 ところがいざ参内してみると、どこか宮中の空気が慌ただしかった。まず外記庁へ行くと、公卿はすべて宜陽殿に参集せよとのお達しがあった。

 一同が集まると、上卿の枇杷左大臣から発表されたのは征西海賊使からの飛駅のことであった。

「賊はついに大宰府に上陸し、それを占拠したということだ」

 続いて解文げぶみの内容が朗読された。人々は言わめいた。

 今、大宰府には亡くなった権帥の中納言に代わってこの春に参議となり、同時に大宰大弐に除せられた老人が下っていた。源氏の曾祖父の先帝の二世孫で、父は親王だが本人に至って源姓を賜った者である。その大弐からの報告が、賊を見失って伊予国にて捜査していた追捕使のもとへ入った。賊はその全軍挙げて大宰府を攻め、官庁舎はことごとく灰塵に帰したということだった。さらに賊は本拠地を大宰府に据えるつもりらしいことも報告にあった。何しろ大宰府はとお朝廷みかどともいわれ、西国における宮中の代理機構でさえある。それがすべて灰になったというのは、宮中の諸殿舎が焼かれたのと同じ衝撃が公卿たちの間にはあった。

「お静かに! お静かに!」

 左大臣が人々を静まらせるのに、かなり苦労していた。東国の時のように、一国一国の国府が占拠されたのとはわけが違う。遠の朝廷が、しかも堂宇がことごとく焼かれたのだ。

 左大臣はしばしの休憩のあと、場所を変えて左近衛陣で陣定に入ることを公卿たちに告げた。

 誰もが黙々と座っている。陣座の刻までは、まだ少し間があった。源氏もひとつため息をついた。

「また、やっかいなことになりましたな」

 隣にいた修理大夫が、源氏に話しかけてきた。源氏はまたため息をついた。

「やっかいどころじゃないですよ」

「もうこれは、追捕使任せにはできんでしょうな」

「そうじゃないんです」

 源氏は白髪の修理大夫を見て、やけくその思いで切り出した。

「こんなことがなければ、修理殿にはお願いしたいことがあったんですが」

 源氏はそのまま、自分の任国下りの決意、さらには明石の姫のことまですべて小声で修理大夫に話した。

「そんな状況じゃなくなってしまいましたね」

 もう一度源氏がため息をつくと、つられて人のよい老人もため息をついていた。

「お若い方の一途な思いは、うらやましい限りでございますな。しかし、平穏な時なら喜んで御協力申し上げますが」

 やがて、陣定の刻限になった。

 下位の者から意見を陳述していくので、源氏は五番目だった。ところがその前の四番目の修理大夫が、突拍子もないことを言いだした。

「みども、此度こたびも征西大将軍として参りましょう。備前守でもありますれば」

 この発言には、あちこちでしのび笑いが洩れた。彼が征東大将軍であった時は、結局東国に行き着く前に乱は平定され、彼は手ぶらで帰ってきたのだ。ところが次の源氏の発言には、人々は静まってしまった。

「私も参ります」

 一瞬、時が止まった。次の声まで、しばらく時間があった。

「源氏の君様が、なにゆえ……」

 左大臣も驚いていたが、源氏はきっぱりと言った。

「私も備前権守ですから」

 いちばん驚いて源氏の横顔を見ていたのは修理大夫だった。ところがその修理大夫以外に、源氏の発言の真意を知っている者はいない。権中納言左金吾さえ明石の姫君のことは知らない。

「わざわざ一世皇親源氏の源宰相殿がお行きにならなくても」

 権中納言はそう発言し、皆もそれに賛同した。それで源氏の西国行きは沙汰やみとなった。ただ、修理大夫に関しては、

「征東大将軍の折は何ら功がおありにはならなかったので、今度は西で功を立てようということですか」

 という小野宮大納言の嫌味な皮肉もあったが、結局左大臣から摂政太政大臣を経て上奏され、帝の御裁可を頂いた。

 その夜、修理大夫邸を訪れた源氏に、老人はただ、

「お任せあれ」

 と、言った。源氏はその言葉に深い含みを感じながらも話題は別の方へ移っていった。


 征西大将軍修理大夫が西へ進発し、都は梅雨も明け、いちばん蒸す頃に突拍子もない噂が都に広まった。

 そもそもは備前、備中、淡路等の国府からの飛駅が元だった。備前の使の言うには、その領国内に海賊が多数上陸し、内陸へ向かったという。噂は海賊が一拠に上洛し、都をすべて焼き払おうとしているのだということで広まり、都は大混乱に陥った。ちょうど東国の時と同じように、家財道具をまとめて洛外へ逃亡する民が後を絶たず、それに乗じての火つけ、強盗も横行していた。

 だがその騒ぎも長くは続かなかった。その直後に追捕使からの飛駅が到着した。大宰府近辺の浜において、追捕使と海賊の一大合戦が行われ、ついに海賊は壊滅。その首領の前伊予掾は逃亡したが、伊予国にてついに捕らえられたという。

 宮中に歓声が沸き起こった。

 だがただひとり、源氏だけが浮かない顔をしていた。明石の姫の捜査という点では確かに海賊鎮圧は一歩前進したといえよう。

 しかし、当の明石の姫君はまだ見つかってはいないのだ。

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