帝と十四宮の後宮でもっぱら絵のことがとり沙汰され、女房たちが騒いでいるという噂はたちまち宮中に広がった。それぞれの後宮での中心は、帝の方は後見のない王女御よりも新参の梨壷の更衣が主力で、一方の十四宮は言うまでもなく藤壷御息所がその中心である。その両者にしきりに絵が集められているというからには、出所はそれぞれの里の小野宮大納言と九条権中納言の兄弟であることは誰の目にも明らかだった。

 昨年までは東西の兵乱のため数々の行事が自粛中止になることが多かった。だが、ようやく東国が平定され、西もまだくすぶってはいるにせよ今は一応小康状態である。公卿たちも忙殺の日々から幾分解放されてかえって刺激を求めていたくらいだから、興味本位でこの絵巻合戦のことを噂していた。

 宜陽殿での議のあとの雑談で、ふと源氏が一同に提案したことがあった。

「いっそうのこと、両方の絵をひと所に集めて皆々様方で見比べてみませんか」

 当人たち以外の公卿は、まだ源氏がその絵を貸し与えて権中納言側にひそかに加担していることを知らない。むしろ源氏の立場を、両者の中間に位置する仲介役と人びとは考えている。

「それはおもしろい」

 まず老齢の宰相修理大夫が、声をあげた。たちまちに人々は賛成した。九条権中納言は源氏の方を見てにやりと笑ったが、小野宮大納言は無表情だった。

 双方の絵は尚侍ないしのかみの住む弘徽殿に集められ、公卿達も参集した。

「いやあ、目の保養ですな」

 伴宰相が声をあげると、宰相左大弁がそれに相槌を打った。

申文もうしぶみ解文げぶみ、奉書ばかりの毎日で、邸に戻ってもつれづれに見るのは漢籍。真名まなばかり見ている目には、絵の色も詞書ことばがきの仮名も新鮮でござるな」

 そのあとで絵は、御簾の中の女官たちの方へとまわされる。その感嘆の声、はしゃぐ声が木魂して響いてきた。何を言っているのかもまる聞こえだ。

 源氏と権中納言は並んで座り、そんな人々のやりとりを微笑みを含ませて聞いていた。女官の方も侍従の内侍かみ、少将の命婦みょうぶ、大弐の内侍典ないしのすけ、中将の命婦、兵衛の命婦など名だたる人々が集まっている。

 まずは竹取物語と宇津保物語を絵にしたものを、人びとは論じ合っている。

 竹取は九条側の出品で、絵は巨勢相覧こせのおうみ、そして詞書ことばがきは当代一流の仮名の書き手であり、同物語の作者でもある紀貫之の手になるものだった。もっとも「物語で来はじめおや」といわれているこの物語の作者が貫之であることは極秘事項なので、まず知っている者はいない。「作者未詳」で通っている。

 それに対する小野宮方の宇津保物語は、常則の絵で小野道風の詞書だった。男の評はその彩色・紙、装訂などを論じていたが、女性たちは観点が違う。それぞれの物語の内容・筋書きで論じているのだ。

 さらに話題は「在五中将記」と「正三位物語」へと移った。この「在五中将記」は源氏が貸したもので、かつてこの物語にひたって須磨行きを決心したことなども源氏には遠い世界のことのように思われた。

 一日中ひねもす人々はああでもないこうでもないと言い合っていたが、優劣は決まらなかった。

「さすがは摂政殿の太郎君と次郎君の大納言殿、権中納言殿の御所蔵の御絵だ。甲乙はつけ難い」

 伴宰相がそう言ったのをきっかけに、源氏は大きな声で口を開いた。

「いかがですかな、皆様方。帝と十四宮の御前で勝負を決せられては」

 おおと歓声があがった。誰もが賛成だった。人々は兵乱のために、優雅な宮廷行事に飢えていたのである。


 当日は朝から仕度が始まっていた。場所は帝の御座所の綾綺殿だ。

 とにかく急な催しであった。言いだしの源氏が急いで帝の御裁可を得てから、五日とたってはいない。ここでは歌合うたあわせ前栽合せんざいあわせのように、正式に絵合えあわせというかたちをとることになった。

 東側の台盤所の帝の御座に並び、一段低く十四宮の座が設けられていた。十四宮は帝の御弟のただの一親王にすぎない。それなのに同母弟ということで、ほとんど人々の暗黙の諒承のうちに皇太弟扱いされているようでもあった。

 そして帝すなわち小野宮側の女房が北側、十四宮の九条側の女房は南側に座をとった。小野宮側の女童の装束は青、九条側は赤と紫で、女房たちもどちらかの色の装束を着しているかで敵味方を分けていた。

 公卿たちもひとつ東側の温明殿の西廂に、それぞれの側について座った。

 この時源氏は、はじめて意思表示をした。公然と九条権中納言側の席についたのである。ほかに九条側には伴宰相、そして宰相修理大夫がいた。どちらも老人だ。宰相修理大夫にとっては自らの征東大将軍としての論功が小野大納言のために反故ほごになったのだから、当然の選択だろう。

 小野宮側には故本院大臣の二人の子息がついた。これも当然のことで、この二人は梨壷の更衣の母方の伯父である。そしてこの側にこそ、弘徽殿大后も付いているはずである。そしてかつて小君と呼ばれたあの小一条の左衛兵佐が、しっかりと小野宮側についているのを源氏は見た。

白虹はっこう日を貫く。太子これづ」

 いつか自分にそんな嫌味を言った……源氏はその時のことを、この日対戦する大納言と権中納言兄弟のさらなる弟の小一条左衛兵佐の皰面にきびづらの顔を見て思い出してしまった。今でもこの若者は父である摂政太政大臣の邸にいるということは、父摂政にすればその小一条邸をこの末っ子に伝領しようとしているのかもしれない。

 やがて左右の絵が帝の御前に据えられた。そこへ小野宮大納言と九条権中納言左金吾が、御前へと召された。

 左右それぞれの絵が披露される。そのたびに判者たちからあらためてどよめきがあがった。

 あたりはもうすっかり暗くなっており、綾綺殿と温明殿の間の庭には篝火が焚かれた。

 そしていよいよ最後の一幅となった。これで勝負が決まる。

 広げられた絵は、この前はあえて権中納言には貸さなかった源氏作の須磨・明石の絵だった。

 実景に基づくものほど人の心を打つものはない。ましてや実景にほとんど接したことのない宮廷人に対してはなおさらだ。

 誰もがそれを、源氏の作だとは知らなかった。この日のために源氏はあえてそれを秘したまま、権中納言に貸したのである。

 どよめき、嘆息……それらの中で、この源氏の絵ゆえに九条方の勝ちとなった。

 これは単に絵が勝ったのではない。さらに権中納言という弟が、大納言という兄に勝ったのでもない……十四宮という弟宮が帝という兄に勝ったということなのでもある。

 帝のお顔はお寂しそうだった。源氏は退出される帝を拝見し少々気の毒にもなったが、小野宮大納言に至っては鉄面皮だった。こちらには源氏は同情のかけらも感じなかった。

 その後、宴となった。久しぶりであったが源氏は、琵琶を弾じた。久々の合奏は夜の空まで舞い昇った。西の空ではここ数日来見えている大きな帚星ほうきぼしが、白い尾を長く引いて輝いていた。

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